下克上の中で四国をほぼ制圧した長宗我部元親。元親は土佐国の中央部を掌握するために宿敵本山氏を降しました。その後、土佐国で長宗我部氏に対抗できる勢力は東の安芸氏と西の一条氏のみとなります。
今回は残った勢力の安芸氏を滅ぼした八流(矢流)の戦いの経緯についてお伝えしていきます。
代々土佐国安芸郡司をつとめる安芸氏は、室町期に香美郡大忍庄まで勢力を拡大し、香宗我部氏を圧迫していきます。その香宗我部氏は長宗我部氏を頼ったことで、安芸氏と長宗我部氏は境を接するようになりました。
安芸氏当主の安芸備後守国虎は、一条兼定の娘を正室に迎えており、一条氏との縁戚関係によって長宗我部氏との対立を深めています。
所領問題で揉めていたのは、香美郡夜須の地で、もともとは安芸氏に属していましたが、その後は長宗我部氏が押さえたことで小競り合いが起こりました。元親は上夜須に吉田重俊を配してこれを鎮めます。
永禄6(1563)年から元親が本格的に本山攻めを開始すると、国虎は一条氏と長宗我部氏の本拠である岡豊城攻めを画策します。
国虎は5千の兵を率い、一条氏から3千の援軍を受けて岡豊城を攻めました。このときは上夜須の吉田重俊が岡豊城の援軍に向い、安芸勢を撃退しています。
一条兼定はこれ以上の対立を好まず、長宗我部氏と安芸氏の和睦を斡旋。両者がこれに応じたことでさらなる衝突は回避されました。
元親はこの間に本山氏を追い詰めて降伏させています。つまり永禄12(1569)年までは長宗我部氏と安芸氏は平和な関係を続けていたということです。
しかし、本山氏を降した元親は、次に安芸氏攻略に動き始めるのです。
5年間の和睦が続いていた安芸氏と長宗我部氏でしたが、元親が本山氏攻めを完了させたことで関係が終わりを迎えます。
『土佐物語』、『土佐国古城伝承記』によると、確執を取り除くために元親が国親に岡豊城での会談を呼びかけましたが、これは長宗我部氏への降参を意味しているとして断り、両者の対立は決定的となったと記されています。
これは秀吉が家康の上洛を求めたのと同じことだと考えられます。元親としては安芸氏との上下関係を明確にし、土佐国制圧を目指したうえでの外交交渉だったのでしょう。
和睦が破綻した原因には諸説あるものの、永禄12(1569)年7月に安芸氏の本拠である安芸城を目指し、7千の兵を率いて出陣したのは確かです。
これに対し国虎は一条氏の援軍を頼りに合戦することを決断します。しかし一条氏はすでに元親によって懐柔されており、安芸氏に援軍を送る気はありませんでした。
長宗我部勢7千は安芸郡和食に布陣し、安芸勢は八流(矢流山)に布陣します。元親は軍勢を二手に分けて、一方は海沿いを進ませ、一方は自ら率いて安芸城の後ろの山に迂回し、安芸勢の背後を突きました。
元親の調略の手は国虎の重臣にまで伸びており、安芸氏の譜代の家臣である横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門らが寝返っています。このような内部分裂が八流の陣を突破された大きな要因だったのではないでしょうか。
国虎ら安芸勢は安芸城の支城の新荘や穴内に退却しますが、すぐに長宗我部勢の攻撃によって両城は陥落。さらに小谷左近右衛門や専当一族らが元親に内応し、安芸城搦手の北から長宗我部勢を招き入れたために元親は安芸川を突破して安芸城に総攻撃を仕掛けました。
籠城した安芸勢は食糧が尽きるまで抵抗を続けますが、頼りの一条氏の援軍は来ず、籠城24日目に降伏しました。国虎は嫡男の安芸千寿丸を阿波国へ落ち延びさせ、正室は一条氏に送り返しています。
そして安芸氏の菩提寺である浄貞寺に入って自害しました。自分が自害することで城兵の命を助けるよう元親に申し出、元親がこれを許したのです。
こうして8月11日、安芸城は落城しました。八流の地で安芸勢を率いながら敗北した黒岩越前は、国虎の妻を一条氏に送り届けた後、追腹をきっています。
元親はさらに安芸郡東部の安田城の惟宗鑑信を降伏させ、奈半利城の安岡虎頼を敗走させ、北川城の北川玄蕃を討って一帯を制圧しました。そして弟の香宗我部親泰を安芸城の城主と残して、岡豊に帰還したのです。
長宗我部氏は安芸氏を滅ぼしたことで土佐国の中央部だけでなく東部も掌握し、後は西部の一条氏を残すのみとなりました。
元親は調略によって戦を有利に運ぶことにも長けていたことがよくわかります。このあたりの手腕は甲斐国の戦国大名である武田信玄に通じるものがあったのではないでしょうか。
「土佐の出来人」と呼ばれた元親はこうして怒濤の如く勢力を拡大し、土佐国統一だけでなく、四国統一まで駆け上がっていくのです。