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  • 上杉謙信
 2017/11/19

「斎藤朝信」”越後の鍾馗”と呼ばれた文武の将

斎藤朝信のイラスト

みなさん、突然ですが「鍾馗(しょうき)」という言葉をご存知でしょうか?「鍾馗」とは中国の道教系の神であり、日本では学業成就や魔除けの効果のある神であり、鬼よりも強いとあります。

今回はそんな恐ろしい異名を持った、まさに上杉軍の魔除けともいえる「越後の鍾馗」こと斎藤下野守朝信の生涯をご紹介したいと思います。
(文=趙襄子(ちょうじょうし))

斎藤一族のルーツと朝信の誕生

朝信の生まれた時期はハッキリとは分かっていませんが、大永7年(1527年)頃に斎藤定信の子として誕生したようです。

斎藤一族は室町時代から戦国時代にかけて越後赤田城(新潟県刈羽村)に土着した国人領主であったようで、初めは越後守護の上杉氏に仕え、後に上杉謙信の一族である越後守護代の長尾氏に仕えるようになったそうです。

朝信、上杉謙信に重用される

朝信の幼少時代のエピソードは不明なのですが、朝信の名前が世に出始めたのは永禄2年(1559年)頃からのことです。当時、長尾景虎と名乗っていた謙信の元で、長尾藤景・柿崎景家・北条高広・直江景綱・本庄実乃・中条藤資とともに七手組の一人として名を連ねたといいます。

この七手組とは上杉軍こと越軍の軍制上では隊頭であり、他の面々の名前からも分かるように朝信がいかに重要なポジションに置かれていたかが分かります。七手組の隊頭を任されるだけあり、戦術家としても評判がよく、謙信が強敵を相手にしなければならない場合は必ず朝信が指名されたそうです。

また、政事でも有能な朝信は柿崎景家とともに奉行職も兼任しており、武辺者が多い中で政事もそつなくこなせる朝信は大変使い勝手が良かったようで、敵城を落とした際には決まって朝信を城将に任命したというほどです。

朝信のこういった立ち回りから「越後の鍾馗」という異名が付いたのかは定かでありませんが、永禄4年(1561年)に上杉軍が関東遠征を行った帰りに、鶴岡八幡宮で謙信が関東管領・上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られた際には、朝信と柿崎景家が「太刀持ち」を任せられるという栄誉に預かります。
上杉家中での朝信の立ち位置がよく分かるエピソードです。

信玄から見た朝信

同年に起こった謙信と甲斐の虎・武田信玄との間で死闘が繰り広げられた川中島最大の激戦・第四次川中島合戦では、信玄と連動して不穏な動きをする一向一揆勢の備えとして山本寺定長とともに越中戦線に派遣され、越軍本隊が川中島に向かう手助けをしたと伝わります。

それ以後も謙信の下、下野国の佐野氏との唐沢山城の戦いなど各地を転戦して功をあげたといわれる朝信ですが、『甲越信戦録』という古文書には、朝信に関してこんな話があります。

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室町幕府第15代将軍・足利義昭から上洛を要請された謙信は、背後を信玄に脅かされないか心配していました。そこで交渉役に朝信を指名し信玄の元に向かわせました。お釈迦様の弟子の一人に比べられるほどの雄弁な男として定評があった朝信の存在を知っていた信玄は酒を勧めながら意地悪な質問をしたといいます。

朝信は身体が小さく片目しかない容姿をしていたようで、そこを信玄にからかわれつつ、いくら知行をもらっているか尋ねられたところ朝信は「600貫」と答えました。貰い過ぎだと信玄は笑いますが、朝信は意に介せず逆に左足が不自由で右目が潰れており、なおかつ身体が小さいながらも信玄が重宝している軍師・山本勘助を引き合いに出して反論しました。

負けたと思ったであろう信玄は朝信の才を中国は春秋時代の斉国の名宰相である晏嬰(あんえい)に例えて誉めた挙句に引き出物を与え、朝信に対し謙信の上洛の邪魔はしないと約束したといいます。後方の安全を確保した謙信は無事に上洛を果たすことができたのでした。
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何でもそつなくこなせる朝信だからか、謙信の後年に七手組も大幅に刷新されたものの朝信と柿崎景家の二人は変わらず七手組に残留しており、天正3年(1575年)時点での戦いぶりを知ることができる「上杉軍役帳」によると、朝信は217名の軍役を課せられていることから朝信がいかに越軍の中で重きを成していた存在かが分かります。

景勝政権下での朝信

謙信の躍進を支え続けた朝信でしたが、謙信が天正6年(1578年)に亡くなると上杉家では謙信の養子である上杉景勝上杉景虎との間で後に「御館の乱」と呼ばれる家督争いが勃発しました。

謙信の遺臣が真っ二つに敵味方に分かれて争い、他国も巻き込んだこの内乱で朝信は景勝に味方しました。乱にあたって朝信は景勝方の城である与板城に侵攻してきた謙信遺臣の栃尾城主・本庄秀綱を退けるために与板城に救援に向かったといいます。

また、信玄の後継者で景虎の味方をした武田勝頼が侵攻してきた際は持ち前の交渉力で景勝と勝頼の仲介を務めるなど戦局を有利に進めることに大きく貢献しました。その甲斐あってか見事景勝が内乱を制し、無事に謙信の後継者に納まることができました。

戦功を称えられた朝信は戦後の天正8年(1580年)に刈羽郡の六ヶ所と景虎方に付いた三条城主・神余親綱の旧領を与えられたばかりか、朝信の息子にまで領地が与えられるなど景勝は朝信の功に厚く報いたといいます。

謙信の後継者となった景勝に仕えるようになった朝信でしたが朝信の身には老いが確実に忍び寄っていたのです。

晩年の朝信とその後の斎藤一族

文献上、朝信が最後に顔を見せるのは侵攻してきた織田軍の北陸方面軍司令官・柴田勝家を越中魚津城で撃退したという事績です。この頃に家督を嫡子の景信に譲り老齢で隠居したといわれ、文禄元年(1592年)頃に亡くなったといわれています。

息子の景信は新発田重家の乱などで活躍したそうですが、病にかかったため、景勝の会津転封には従えなかったようです。しかしそれから45年後の寛永20年(1643年)に景勝の息子であり米沢藩2代目藩主となった上杉定勝が景信の子を呼び寄せ再度上杉家に仕官することになり斎藤一族は以後、米沢藩士として明治維新を迎えたのです。




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