「第六天魔王」「軍神」「三日天下」? 戦国武将のあだ名・異名が面白い!

戦ヒス編集部
 2021/06/02

『釈迦御一代図会』(葛飾北斎画。仏法を滅ぼすために釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する第六天魔王。)
『釈迦御一代図会』(葛飾北斎画。仏法を滅ぼすために釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する第六天魔王。)

戦国武将たちの中でも優秀であったり、何か特色をもっている人物は大抵なにかしら異名を持っています。

「第六天魔王、甲斐の虎、軍神、相模の獅子、三日天下、槍の又左、海道一の弓取り、美濃の蝮 etc…」、本記事では、ざっと取り上げてますが、なかなかのボリュームなので目次から気になるものをチョイスしていただけたらと思います!

「第六天魔王」

この異名は織田信長が自らを称したと伝わります。

その由来ですが、信長は元亀2年(1571年)に比叡山焼討ちをした際、武田信玄が信長に書状を送ってその行ないを非難。信玄は信長宛の書状に「天台座主沙門信玄」と署名し、これに返書を送った信長は、 「第六天魔王」 と署名したといいます。

「天台座主沙門信玄」というのは、天台座主・覚恕法親王の下での修行者・信玄といった意味であり、仏教を信仰する信玄が神仏を深く敬って仕えることを表したものです。

一方、「第六天魔王」というのは、仏教において仏道修行を妨げる魔のことを指します。

神仏を敬う信玄に対し、信長は皮肉で自らをこう称したのでしょうか。ただし、この異名話の出所は、残念ながら信長自身の信玄宛の返書そのものではありません。つまり、信玄と信長の手紙のやりとりが史料として残っているわけではないのです。

出所の史料はたった一つだけ。『耶蘇会士日本通信』という、戦国当時のキリスト教宣教師 ルイス・フロイスの活動記録に記されているだけなのです。なので、信長自身が本当に「第六天魔王」を名乗ったかどうかは、全くわからないということです。

織田信長のイラスト
信玄の死後、のちに信長は武田家を滅亡に追いやっている。

ちなみに、この時期の信長と信玄、そして、信長と家康はそれぞれ同盟関係にありました。しかしこの後に信玄は信長への事前通告もなしに信長の同盟相手である家康への攻撃を開始したため、以降信長と信玄は敵対関係に入るのです。

「甲斐の虎」

これは甲斐(=現在の山梨県)を支配していた武田信玄の異名です。

信玄は戦国最強の騎馬隊を有したことで知られ、上杉謙信と並んで無類の強さを誇る将でした。「竜虎相搏つ」ということわざがあり、これは同じくらいの優れた実力を持つ英雄や強豪同士が勝敗を争うことのたとえです。

武田信玄のイラスト
風林火山で有名な武田信玄。

川中島の戦いでの激闘にみるように、信玄とライバル上杉謙信との優劣はつけがたいものがあります。竜と虎は強い動物の双璧のたとえであり、武田信玄と上杉謙信がまさにこれに例えられたのです。

「甲斐の虎」の由来は、江戸時代の近松門左衛門の作である『信州川中島合戦』という浄瑠璃作品の中で登場したことにあるようです。江戸時代中期にその作品が公演されて大人気となったことで世間に広まったとみられています。

「軍神」「越後の龍」

越後(=現在の新潟県)を支配していた上杉謙信の異名です。

上杉謙信のイラスト
義の武将で知られる信玄のライバル・上杉謙信。

「越後の龍」の異名は、謙信が合戦の際に 龍 の旗印を使用していたことからきているようです。

謙信は自らを「毘沙門天の化身」と称していました。

「毘沙門天(びしゃもんてん)」とは仏教における戦の神のことです。謙信は戦場で武田氏や北条氏といった猛者と互角以上に渡り合い、破竹の勢いで天下統一に最も近かった織田軍をも破るなど、圧倒的な強さを誇っていました。

もう一つの異名「軍神」は、そういったことから付けられたのかもしれません。

「三日天下」

ご存じ、本能寺の変で信長を討った謀反人・明智光秀のことです。「きわめて短い間しか権力や地位を保てない」という意味のことわざにもなっていますね。

「敵は本能寺にあり」の明智光秀イラスト
「敵は本能寺にあり」として信長を討った光秀。

光秀はほぼ天下を掌握していた信長を討った後、中国大返しと呼ばれる驚異的なスピードで京へと戻ってきた羽柴秀吉に敗れてこの世を去りました。信長の死からわずかな期間の出来事であったことから、このように称されたのです。

「槍の又左」

これは前田利家の若きころの異名です。

その由来は、加賀藩の史料『亜相公御夜話(あしょうこうおんやわ)』にあります。この史料によると、織田信長に仕えた若いころの前田利家はかぶき者で短気、日ごろは派手なこしらえの槍を持って歩いていたので「又左衛門の槍」と言って人々が避けたといいます。

又左衛門とは利家の名です。史料の記述が本当ならば、戦国当時に「槍の又左」の異名がついたのでしょう。ただ、この史料の成立年代は不明であり、信ぴょう性に疑問が残ります。

前田利家のイラスト
母衣を背負った若い頃の前田利家はこんな感じ?

若き利家は戦場で多くの功をあげ、赤母衣衆(信長の直属精鋭部隊)の筆頭になっています。槍の名手であったため、このように呼ばれて敵に恐れられたのかもしれません。

「相模の獅子」

これは北条3代目当主・北条氏康のニックネームです。

氏康は相模国(=現在の神奈川県の大半)にある居城・小田原城を拠点に、古河公方・山内上杉氏・扇谷上杉氏・里見氏・佐竹氏・宇都宮氏といった関東の諸勢力と戦い、関東における戦いの主導権を確保して勢力を拡大した実績をもっています。

北条五代のイラスト
向こう傷の男・北条氏康。北条歴代当主5代の中でも最強か?

あの上杉謙信や武田信玄と三つ巴の戦いを展開するほどの文武を兼ね備えた名将であったことでも知られています。

「美濃の蝮(マムシ)」

美濃国の戦国大名・斎藤道三は、僧侶・油商人を経て美濃長井氏に仕えるようになると、主君の長井氏→美濃守護の土岐氏と、続けて倒して美濃国を統一した経歴を持っています。

斎藤道三の肖像画(常在寺 蔵)
一介の油売りから美濃の戦国大名にのし上がった斎藤道三。

下克上の象徴のようなその人物像はマムシに例えられました。そんな 道三=マムシ のイメージが広がったのは実は昭和時代。山岡荘八の小説『織田信長』で「美濃の蝮」 の異名が使われたことがきっかけで世に広まったようです。

「日ノ本一の兵(つわもの)」

これは慶長19-20年(1614-15年)の大阪の陣において、豊臣方の将であった真田幸村が討死した後、薩摩藩初代藩主となった島津忠恒(しまづ ただつね)が手紙で幸村を評したものです。

真田幸村のイラスト
大坂の陣での戦いぶりが伝説となった真田幸村。

薩摩藩政史研究の根本史料である『薩藩旧記雑録(さっぱんきゅうきざつろく)』に以下のように記されています(一部抜粋)。

真田日本一之兵、いにしへよりの物語ニも無之由、惣別これのミ申事ニ候

このように島津が評したのは、真田幸村が最終決戦となった大阪夏の陣で敗れたものの、最期に家康本陣に三度もの突撃を敢行し、家康が自害を覚悟したほどに追い込むほどの戦いぶりをした、という点にあるからでしょう。

「土佐の出来人」

このあだ名を持つのは土佐出身、四国の戦国大名・長宗我部元親です。

長宗我部氏の興亡を描いた江戸時代の軍記物『土佐物語』に記されたのがその由来です。

元親は永禄3(1560)年の長浜の戦いで初陣を果たし、活躍したことで長宗我部家中で信頼を得て、それ以降は「土佐の出来人」とリスペクトされるようになった、と伝わります。

長宗我部元親のイラスト
初陣の前までは家中で軟弱扱いで、「姫若子(ひめわこ)」と評されていたらしい長宗我部元親。

初陣の後、やがて元親は土佐国を統一、さらには四国平定も達成(諸説あり)しますが、同時期に豊臣秀吉と戦い、降伏して秀吉の傘下となりました。

「海道一の弓取り」

このあだ名は駿河の太守・今川義元、そして徳川家康の2人が持っています。

「海道」とは東海道を指しており、義元も家康もその支配地域は東海道であった。「弓取り」とは武士を指し、鎌倉武士が弓騎馬で戦っていたことに由来します。

今川義元といえば、桶狭間の戦いで有名な将で信長の引き立て役といった印象ですが、実は歴代の今川氏の中で最大勢力(駿河・遠江・三河)を築いています。

今川義元のイラスト
実は今川家は足利将軍の血をひく名家。中でも今川義元は大物だった?

家康も当時は義元の家臣の一人にすぎませんでした。ただ、義元死後には今川氏から独立し、三河国(=現在の愛知県東部)の戦国大名として出発すると、信長死後には義元以上の勢力圏を築いています。

「女戦国大名」「戦国の姫君」

あまり知られていないかもしれませんが、今川義元の母である寿桂尼(じゅけいに)は、女戦国大名とか戦国の姫君と呼ばれました。

彼女は義元の兄である今川氏輝が当主となった時、氏輝がまだ若くて病弱でもあったため、後見人を務めました。そして今川領の統治の多くを代行していたとみられているのです。

一時的とはいえ、戦国大名としての役割を担っていたということでしょうか。

戦国武将たちの総称(おまけ)

ここまで戦国武将たちの異名とその由来をいくつか挙げてみましたが、ついでに「○○四天王」など、数多くある戦国武将たちの総称についても調べてみました。

総称は後世に表彰されたものだったり、その当時の政権運営における職制であったりします。

「三英傑」

これは信長・秀吉・家康の三人を顕彰する言葉です。

超有名人のこの三名は戦国時代、天下統一へ導いた功績を持ち、東海の尾張国と三河国(=ともに愛知県)出身という共通点をもっています。

こうしたことから主に中部地方や愛知県でこのように呼ばれるようになったのです。ちなみに「英傑」とは知恵・才能・実行力などにすぐれた人のことをいいます。

「織田四天王」「織田五大将」

織田信長は群雄割拠時代において誰よりも多くの国を支配したため、非常に多くの家臣を抱えました。中でも信長に仕えて天下統一事業に最も貢献したとされる4人の重臣は "織田四天王" と称されています。

すなわち柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀を指します。ちなみに、"織田五大将" というのはこれに羽柴秀吉を加えた呼称です。

「黒母衣衆」「赤母衣衆」

黒母衣衆・赤母衣衆は信長直属の精鋭部隊であり、永禄10年(1567年)に誕生したといいます。この年は尾張の織田信長がちょうど美濃国を制圧して2か国を保有する大名となり、「天下布武」を掲げて本格的に天下統一を目指したころです。

黒母衣衆・赤母衣衆のメンバーは史料によって若干異なる部分もあるようですが、小瀬甫庵(おぜ ほあん)の『信長記』に記してあるものをみると、黒母衣衆の筆頭は佐々成政、赤母衣衆の筆頭は前田利家となっています。

以下、メンバー一覧です。

  • 黒母衣衆:佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝介、水野帯刀左衛門、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、中嶋主水正、松岡九郎次郎
  • 赤母衣衆:前田利家、織田越前守、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時

「府中三人衆」

織田政権が勢力拡大する中で、北陸方面軍団の指揮官・柴田勝家の与力となった不破光治・佐々成政・前田利家の3人を指します。この3人は越前国の府中一帯を治めたことから "府中三人衆" と呼ばれました。

「賤ヶ岳の七本槍」

賤ヶ岳の七本槍とは、柴田勝家と羽柴秀吉が織田家の覇権をかけて戦った天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、武功をたてた秀吉配下の若手武将7人を指します。

すなわち福島正則、加藤清正、片桐且元、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則という面々です。ちなみに7人というのは語呂合わせであり、他にも石田三成や大谷吉継など、多くの若手武将が武功をあげたといいます。

周知のとおり、柴田勝家を倒したあとの秀吉は織田家を掌握し、のちに天下統一を果たしています。

「豊臣五大老」「五奉行」

五大老・五奉行とは、天下人の豊臣秀吉が死を目前に控え、将来の政権運営と実子・豊臣秀頼のことを心配して、秀頼を主君として政権維持を図るために設置した職制です。

そのメンバーは以下のとおり。

  • 五大老:徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家
  • 五奉行:浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家、前田玄以

文禄4年(1595年)、2代目関白であった豊臣秀次の切腹事件は、豊臣家中の亀裂を生みだしました。秀吉はこれに対処するために、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ったとされます。

このときに連署を行なった6人の有力大名(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)に秀頼への忠誠を誓わせました。ちなみに小早川隆景も実質は五大老の一人ですが、五大老の職制が制度化される前に死没しているため、入っていないものと思われます。

ただ、豊臣五大老とみなされたのは後世のことのようです。

「徳川四天王」「徳川十六神将」

「徳川四天王」とは、家康に仕えて江戸幕府創設に貢献した4人の重臣、すなわち酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政を指し、仏教の四天王に準えているといいます。ただ、この呼称の成立時期は定かではありません。

一方、「徳川十六神将」とは、徳川家臣の中で江戸幕府を創設するにあたり、功のあった16人の武将を指したものです。

武田二十四将と同様に江戸時代の絵画などでみられたものですが、選定基準は定かではありません。

なお、十六神将は以下のように徳川四天王+12人のメンバー構成となっています。

  • 米津常春
  • 高木清秀
  • 内藤正成
  • 大久保忠世
  • 大久保忠佐
  • 蜂屋貞次
  • 鳥居元忠(または植村家存)
  • 鳥居忠広
  • 渡辺守綱
  • 平岩親吉
  • 服部正成
  • 松平康忠(または松平家忠)

「武田四天王」「武田二十四将」

続いて甲斐・武田信玄の家臣団をみていきましょう。

まずは「武田四天王」。これは武田信玄と二代目の勝頼に仕えた重臣、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景・高坂昌信の4人を指します。

彼らはいずれも譜代家老層の出身で武勇に優れた名将であり、特に信玄が当主の代に活躍しています。しかし、勝頼の代に入り、天正3(1575)年長篠の戦いでは、高坂昌信を除く3人が惜しくも討ち死。一説に重臣筆頭の馬場信春と山県昌景は主君勝頼から疎まれていたといい、このときも撤退を進言したものの、勝頼に受け入れられなかったといいます。

一方、高坂昌信は海津城を守備していたため、長篠の戦いには参加せずに難を逃れています。武田信玄・勝頼時代の戦略・戦術などを記した軍学書『甲陽軍鑑』の原本は高坂昌信の口述記録によるものです。

次に「武田二十四将」。これは武田家臣の中で評価の高い24人を指しています。

江戸時代に『武田二十四将図』として絵画や浮世絵の題材となったことに端を発した呼称のようです。なお、二十四将図に描かれる武将は諸本によって差異がみられるといいます。

メンバーは以下のとおり。

  • 武田信繁・信廉
  • 一条信龍
  • 穴山梅雪
  • 山本勘助
  • 横田高松
  • 多田満頼
  • 原虎胤・昌胤
  • 飯富虎昌
  • 板垣信方
  • 甘利虎泰
  • 秋山信友
  • 小畠虎盛(小幡虎盛)
  • 小幡昌盛
  • 小山田信茂
  • 土屋昌続
  • 真田幸隆・信綱
  • 三枝昌貞

信玄の弟・武田信繁や信廉をはじめとする武田一門衆の他、飯富虎昌や武田四天王といった譜代家老衆、そして、外様の真田氏などが名を連ねていますね。

「上杉四天王」「二十五将」

これらは越後上杉氏の家臣の総称。これらは寛文9年(1669年)に江戸幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されています。

「上杉四天王」とは、上杉謙信に仕えた4人の重臣、宇佐美定満・柿崎景家・直江景綱・甘粕景持を指します。各々が四天王の名に恥じない経歴や逸話をもっているようです。

宇佐美定満は謙信の軍師・宇佐美定行 として知られています。柿崎景家は戦場において常に先陣を務めたといい、甘粕景持は川中島合戦であまりの強さに敵の武田方から謙信本人と勘違いされたというエピソードをもっています。

一方、「上杉二十五将」は上杉家臣団の中で評価の高い25人を指したものです。メンバーは以下のとおり。

  • 長尾政景
  • 長尾景秋
  • 宇佐美定満(定行)
  • 柿崎景家
  • 直江景綱
  • 新津勝資
  • 金津義舊
  • 北条景広
  • 色部長実
  • 本庄実乃
  • 本庄繁長
  • 甘糟景継
  • 水原親憲
  • 斎藤朝信
  • 安田能元
  • 高梨頼包
  • 千坂景親
  • 竹俣慶綱
  • 中条藤資
  • 岩井信能
  • 山本寺景長
  • 吉江定仲
  • 志駄義秀
  • 小国頼久
  • 加地春綱


いかかだったでしょうか?数多くの戦国武将たちの異名や総称について取り上げてみました。

まだまだ、ご紹介しきれないものはたくさんありますが、今後も随時更新していきたいと思います。


【主な参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 岩沢愿彦 『前田利家(人物叢書)』(吉川弘文館、1988年)
  • 北島正元 編 『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年)
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん

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