信長との内通疑惑で最期を迎えた? 上杉謙信の最強の矛「柿崎景家」の虚と実
- 2025/10/29
上杉謙信の重臣・柿崎景家(かきざき かげいえ)は、「越後最強の将」として武勲華々しいイメージがある一方で、その生涯には多くの謎が残されています。主な原因は、江戸時代に米沢藩で編纂された史料に明らかな「歴史改ざん」の跡が確認できるためです。
そのため、彼の正確な実像を知ることは困難ですが、有力な史料から読み解ける部分も存在します。派手な伝説を排し、確かな記録から浮かび上がる景家の生涯と、彼を巡る「虚」と「実」を追っていきましょう。
そのため、彼の正確な実像を知ることは困難ですが、有力な史料から読み解ける部分も存在します。派手な伝説を排し、確かな記録から浮かび上がる景家の生涯と、彼を巡る「虚」と「実」を追っていきましょう。
歴史の表舞台に躍り出た永禄年間
景家は、多くの上杉家臣と同様に生年が不明です。しかし活躍した時期から逆算すると、16世紀初頭には誕生していたと考えられます。出身は越後の国衆である柿崎家です。若年期は、当時越後国内で繰り広げられていた守護と守護代の勢力争いに加担していたと推測されます。天文5年(1536)の三分一原の戦いでは、当初は上杉為景(謙信の父)と敵対していたにもかかわらず、戦いの最中に突如寝返って為景の勝利に貢献したという説もあります。ただし、この寝返り説は後世の史料にしか見られず、近年では創作であるという見方が有力です。確かな史料で景家の名が確認できるのは、永禄年間(1558~70)に入ってからです。この頃には、謙信の本城である春日山城の留守役を任されるなど、一躍、活動が表舞台に登場します。
永禄2年(1559)には、彼の文書における署名が確認でき、そこでは「奉公衆」の一員として見なされていたようです。また、謙信が京都から帰国し、関東管領就任式を行った際には、太刀を献上しており、主君とは極めて良好な関係を築いていたことがうかがえます。
史料に登場する機会は少なかったものの、それ以前から国内で一定の勢力を保っていたと推測されます。この後、景家は「上杉四天王」にも称される有力家臣として、謙信の重要な軍事行動のあらゆる場面に登場するようになります。
川中島合戦での活躍が語り草に
景家の「越後最強の将」という評価を決定づけたのが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いでの活躍です。両軍合わせて実に八割が死傷したとされるこの激戦は、「啄木鳥戦法」や「車懸りの陣」といった伝説的な戦術とともに名高い戦いです。
しかし、この戦の詳細な経過を伝える有力な史料が、信ぴょう性に欠ける部分も多い『甲陽軍鑑』しかないため、その実像を知ることは非常に困難です。そのため、景家の川中島での活躍もまた、この『軍鑑』に多く基づいている点には注意が必要です。
『甲陽軍鑑』によれば、景家は第四次川中島合戦において、上杉軍の先手隊(一番槍)として活躍しました。謙信の本隊は、武田軍による急襲を察知すると、陣を敷いていた妻女山からあらかじめ下山。攻勢を仕掛けてきた武田軍の背後を逆に脅かす形をとりました。この際、先陣を務めたのが景家であり、彼の部隊は猛然と武田軍に襲いかかったとされています。
最終的には謙信と武田信玄が一騎打ちを行うほどの死闘となりましたが、上杉方は領地を得られず、武田方も多くの有力家臣を失い、両者痛み分けの形で決着しました。
川中島の戦いで武名を轟かせた景家は、上杉家中において極めて重要な地位を占めたと推測されます。
景家は軍事面での活躍が目立ちますが、武力一辺倒の人物ではありませんでした。元亀元年(1570)に上杉氏と北条氏が「越相同盟」を結んだ際、景家は人質として子の晴家を北条家に送り、外交面での重要な役割を果たしています。さらに、国内で発給された内政文書にたびたび名を連ねており、外交・内政の両面で謙信を支えていたことがうかがえます。
信長との内通疑惑
景家は天正2年(1574)に亡くなったとされ、家督は北条家の人質から帰国した子の晴家が継承しました。景家の最期を巡っては、一つの不穏な説があります。『景勝公一代略記』によれば、景家が越中国の水島に従軍していた際、織田信長との内通の噂が流れたために、謙信の疑いを招き、死罪になったと記されています。
しかし、景家の死後も子の晴家が上杉家臣として名を連ね続けている事実から、この「内通疑惑による死罪説」の可能性は低いと思われます。
結局のところ、彼の最期に関する詳細な記録は明確ではないまま、歴史の闇に葬られてしまっています。その評価や生涯をめぐって「虚」と「実」が混在する柿崎景家こそ、上杉謙信の時代を象徴する謎多き名将と言えるでしょう。
【参考文献】
- 矢田俊文『上杉謙信:政虎一世中忘失すべからず候』(ミネルヴァ書房、2005年)
- 歴史群像編集部/編『戦国時代人物事典』(学研パブリッシング、2009年)
- 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』(洋泉社、2011年)
- 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』(洋泉社、2011年)
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この記事を書いた人
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。
ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。
卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...
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