丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

「松永久秀」爆死?梟雄?悪人と切り捨てるにはもったいない武将

  • 明智光秀
  • 室町幕府
 2020/01/15
松永久秀の肖像画(落合芳幾 作)
松永久秀の肖像画(落合芳幾 作)

織田信長や真田幸村など、好きな武将・偉人に名前が上がることが多い人物がいる一方で、嫌われ役として定着している戦国武将もいます。今回紹介するのは、戦国下剋上三悪人のひとりとして数えられる松永久秀です。

長年仕えた三好氏に謀反、そしてその後仕えた信長も二度裏切っており、「裏切り者」のイメージが強い人物。そして久秀の有名なエピソードといえば、死ぬときに茶道具を抱えて爆死したというものです。この逸話のおかげで「ボンバーマン」なんて呼ばれたりもしますね……。

でも、こうした久秀のイメージは、江戸時代の書物によってつくられたものだったのかもしれません。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、久秀を吉田鋼太郎さんが演じます。

今まで「謀反人」という印象が強かった光秀を主人公に据えて新たな光秀像を描こうという作品。同じく謀反人のイメージしかない松永久秀についても、新たな一面が見られるのでは?と期待しています。
(文=東 滋実)

出自は不明

松永久秀は永正7(1510)年(もしくは永正5年)に生まれたとされていますが、実はよくわかっていません。没年ははっきりしており、68歳で亡くなったことから、生年はそこからの逆算で導き出されているだけなのです。

どこで生まれたのかも諸説あります。阿波(現在の徳島県)、山城国(現在の京都府)西ヶ岡、丹波国、近江国……などなど。

身分については、百姓、商人、土豪とさまざまな説がありますが、のちに三好長慶の右筆として仕えたことから、低い身分の出ではなかっただろうと思われます。

久秀は父の名すら不明の人物であるため、直接久秀のルーツをたどることはできませんが、久秀の孫説もあった江戸時代の俳人・松永貞徳(ていとく)と先祖につながりがあるのでは? という見方があります。

そして久秀の数代前に下冷泉藤原為孝(藤原定家の子孫の分家・冷泉家のさらに遠い分家)と縁があるのではないか、という説もあります。

天下人・三好長慶の寵臣として

どうも裏切り者イメージが先行しがちですが、最も長く仕えた主君・長慶にとっては忠臣だったであろうと思われます。

近年では戦国時代最初の天下人だった、と言われる三好長慶。三好氏は管領の細川晴元に仕えていました。久秀はこのころ、長慶の右筆を務めていたとされています。

つまり、長慶の秘書的存在。どっちかというと戦場で活躍する武将としてよりも行政面で才能を発揮した久秀は、このころからそちら方面で力をふるっていたようです。

三好長慶の肖像画(大徳寺・聚光院蔵)
細川晴元から政権を奪取した三好長慶。本来晴元は長慶にとって父の仇だった。

京都代官に

天文18(1549)年に対立していた細川政権が崩壊し、長慶は畿内をほぼ制圧しました。翌年には13代将軍の足利義輝に勝利し、いよいよ長慶の時代がやってきます。

久秀の存在が目立ち始めるのは、そんな将軍義輝、細川晴元らを京から近江へ追いやったころのこと。久秀は「松永弾正」の名でも知られますが、「弾正忠」の官位を与えられたのが天文21(1552)年のこと、そして永禄3(1560)年には弾正少弼に昇格しています。

久秀は京都の行政を任されていて、「三好政権の実権を握っていた」、「長慶の躍進は久秀のおかげだ」という評価もあります。

大和を任される

久秀がやっと武将らしい立場になってくるのが、永禄2(1559)年ごろのこと。この年に、久秀は大和国と河内国の境にある信貴山城に入り、大和を支配していきます。

そのとき、大和の戦国大名の筒井氏や十市氏は陥落。筒井城を拠点にしていた筒井順慶はたった1日で城を追われたといいます。あとにも述べますが、筒井順慶とはこの先もライバル的存在として火花をバチバチに散らし合うことになります。

筒井順慶の肖像画(伝香寺 蔵)
この後、長年にわたって久秀と戦った筒井順慶

この永禄年間は三好長慶の全盛期でした。その間、久秀は武将としての活躍も見せ、大和の支配を進めると同時に将軍・義輝の御供衆にもなって将軍と長慶の仲介役に。そして三好家中では一門でないにもかかわらず長慶に重用され、家中でも頭ひとつ抜きんでた存在になっていました。

三好三人衆と対立

永禄7(1564)年に主君の長慶が亡くなると、次第に状況は変わっていきます。

当初、久秀は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)とともに新たな当主の三好義継(長慶の甥)を支えていました。しかし、永禄8(1565)年の、室町御所での将軍・義輝殺害事件(永禄の変)以降から三好三人衆と対立し始めます。

永禄10(1567)年には奈良の象徴のど真ん中、東大寺大仏殿で三好三人衆や筒井順慶らの連合軍と戦いを繰り広げることになりました(東大寺大仏殿の戦い)。

この戦には勝利したものの、この後も三好三人衆、筒井順慶らとの小競り合いは続いていくのです。

松永久秀関連マップ。色塗エリアは大和国。青マーカーは久秀の居城となった城

さて、久秀の悪事といえば、三好長慶死後のものが目立ちます。

江戸時代の書物『常山紀談』に、信長が久秀を家康に紹介するこんなエピソードがあります。信長は久秀本人がいる前で、「この松永弾正というご老人は、人がとてもしないようなことを三つやってのけた」と言ったのです。その三つが以下の内容。

  • 13代将軍・足利義輝を殺害した
  • 主家に謀反
  • 東大寺の大仏殿を焼失させた

確かに、久秀が関わったことに違いはありません。この悪事と、信長への二度の謀反をもって久秀は悪人、と言われるのですが、ちょっと久秀寄りの目で見てみると、全部久秀のせいにされるのはどうなの?と思う部分もあるのです。

悪行その1:義輝殺害

久秀はこの事件に関わっていましたが、当日に兵を指揮したのは久秀の子の久通でした。義輝の御供衆を務め、近しい存在だった久秀はこの作戦に積極的に参加してはいない、とも言われています。

そして、殺した義輝の代わりに義維(11代将軍・義澄の子)を時期将軍に担ごう、と強引に動いたのは三好三人衆でした。このトリオはとにかくいろいろと強引です。

また、長慶の家臣としては義輝は仇敵でもありました。関係が良好な時期もありましたが、敵対したときには義輝によって長慶の弟・実休が殺されています。それを考えると、敵討ちと言えないこともありません。

悪行その2:主家への謀反

繰り返しますが、長慶時代、久秀は忠臣でした。長慶の嫡男・義興を毒殺したとのうわさもありましたが、実際は病死です。

久秀が三好と距離を置き始めるのは長慶の死後でした。三好三人衆との対立です。主君・義継をいただいた三人衆と対立したなら、それは謀反では?と思うかもしれませんが、その主君であるところの義継自身が、永禄10(1567)年に三人衆の元を離れて久秀を頼ってきているのです。

とすれば、主家への謀反というなら三好三人衆のほうでしょう。結局どの件を見ても、謀叛というより御家騒動、内輪もめというのが妥当でしょう。

悪行その3:東大寺大仏殿を焼いた件

東大寺の大仏は国の宝です。この寺院が焼かれるのはなにもこれが初めてのことではありませんが、やっぱり大事です。

戦国当時の大仏殿の模型
戦国当時の大仏殿の模型(出所:wikipedia

これ以前の焼討で有名な平氏による南都焼討、大河ドラマ「平清盛」でも描かれましたが、嬉々として焼討の詳細を清盛に語る五男・重衡の様子に、「この野郎……!」と思ったものです。

そんなお宝いっぱいの奈良のど真ん中で戦い、あらゆる堂宇が焼失、さらに大仏の頭部を失う事態になったことは確かに悪事と言っていいでしょう。

現在の奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)
現在の奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像。出所:wikipedia

ただ、久秀の立場で弁解するならば、悪いのは大仏殿廻廊を火薬庫がわりに使っていた三好三人衆のほうである、ということ。

これに火が付いたため大炎上したのだと考えると、久秀ひとりに責任をかぶせるのもいかがか、と思えてきはしないでしょうか?

松永久秀の人物像

悪人久秀を別の角度から見たところで、政治以外の面についても見ていきましょう。

築城の才

久秀は永禄3(1560)年に多聞山城を築城しています。この城は絢爛豪華で、ルイス・フロイスも『日本史』の中で美しさを称えています。多聞山城は信長の安土城築城よりも先に築城された、近世城郭の先駆けでした。

多聞山城跡の碑
多聞山城跡の碑。現在は奈良市立若草中学校の敷地となっている。

公家文化を好んだ教養人

久秀は和歌・連歌・茶の湯を好んだ教養人でした。

とくに、信長に「九十九髪茄子」をプレゼントして臣従し、二度目の裏切りの際に「お前の平蜘蛛釜をよこすなら命は許してやる」と言われるなど、久秀は茶道具の名品コレクターでした。彼が所有した名物茶器は30種以上にもなるといわれます。

また、千利休の師匠である武野紹鷗(たけのじょうおう/ほかの弟子には足利義輝・荒木村重細川藤孝ら)に師事しており、茶道の世界では顔が広かったと思われます。

永禄9(1566)年に一度三好三人衆に敗れた際は、茶道でつながりのある境の有力商人たちに助けられています。

好色

久秀は戦地にも数人の側女を伴い、世話をさせたといいます。これだけならほかの武将もやっているようなことですが、久秀の場合はそれだけではありません。

房中術(性交によって不老長生を得ようという古代中国の養生術)をアレンジした『黄素妙論(こうそみょうろん)』という書物を医師の曲直瀬道三から伝授されたといい、久秀自らもどんな性交はダメで、どういうタイミングがいい、といった感じの性交規範を執筆していたとか。

ケチ

久秀は吝嗇(りんしょく)、つまりケチな性格だったといわれます。

ふたつの城を築城する際、領民が納めた串柿の串を城壁の芯に使ったり、空の酒樽をばらして板塀に使ったり、鉛で庭石を作っておいて、いざ戦争になったら鉄砲玉に作り直して使おうとした、というエピソードがあります。

合理的な考え方で、ケチなのは欠点ではないように思えます。

信長に仕え、二度裏切る

永禄10(1567)年に三好三人衆との戦いに勝利した後も、三人衆はチョロチョロしていて久秀は落ち着けませんでした。

そんなタイミングで上洛したのが、15代将軍・足利義昭を奉じてやってきた織田信長です。久秀はこれ幸い、と「九十九髪茄子」を信長に献上して臣従しました。

一度目の謀反

元亀元(1570)年、久秀は金ヶ崎の戦いにおいて、浅井の裏切りにあった信長のため、朽木元綱を説得して味方に引き入れ、信長を救いました。ところが翌年元亀2(1571)年、久秀は武田信玄と通じ、離反の動きを見せ始めます。

そして元亀3(1572)年、敵対していた三好三人衆と再び手を組み、信玄を頼りにして信長への叛意を明らかにします。このころ、信長との関係が悪化した義昭が信長包囲網を形成しており、久秀もそれに加わろうとしたものと思われます。

その一方で、ライバルの筒井順慶はこの頃に明智光秀の斡旋で織田信長に仕えるようになります。さらには、頼りにしていた信玄が陣中で急死するという予想外の出来事が起こりました。

久秀は「こりゃダメだ…」と結局は長に降伏。あの立派な多聞山城を信長に明け渡すことで許されました。ここに ライバル同士だった久秀と順慶の2人は信長の下に属したのです。

二度目の謀反

しかし、久秀は懲りずにふたたび信長に叛きます。

天正3(1575)年に信長によって大和の一部を取り上げられました。その翌年に大和守護の原田直政が死んだことを受け、信長は空いた大和守護の席に筒井順慶を座らせました。これは、同じ信長の配下となっても長年ライバル関係だった相手のこと、久秀は気に入らなかったのではないでしょうか。

信長の石山本願寺攻めの際中、反・信長の立場の上杉や毛利の動きと合わせるようにして久秀は離反したのです。天正5(1577)年、石山本願寺攻めの陣に参加していたときのことでした。

久秀の最期

残忍なイメージのある信長ですが、意外と柔軟なところもあります。

長年戦った石山本願寺とは戦いが終わると関係を修復しに動いていますし、この久秀の謀反に対しても二度目の謀反であるにもかかわらず即断罪することなく、まずは理由をきこうとするのです。

しかし、信長が理由をきこうと送った使者に久秀は会おうともしませんでした。信長はじゃあしょうがない、嫡男の信忠を総大将にして信貴山城を包囲させました。

信長はまたチャンスを与え、「平蜘蛛釜をくれたら命は許す」と伝えますが、久秀は天守に火をかけ、平蜘蛛釜と一緒に最期を迎えました。

「平蜘蛛釜もこの首も信長に渡してやるものか」と釜に火薬を仕掛けて爆死して果てた、という話は有名ですが、江戸初期に書かれた『川角太閤記』が出典(火薬を仕掛けて云々はさらに後の第二次世界大戦後に生まれた創作)。

久秀が最期、平蜘蛛を割る場面(月岡芳年 筆)
久秀が最期、平蜘蛛を割る場面(月岡芳年 筆)

大変興味をそそられる死にざまではありますが、これは創作です。きっと信長は平蜘蛛釜が惜しかったというより、久秀を失うのが惜しかったのでしょう。二度裏切られた相手にこれだけ粘って手を差し伸べているのです。

まとめ

久秀はどこか信長と似たところがあります。下剋上三悪人の一人である久秀ですが、信長自身、分家にすぎない立場で織田本家の上に立ち、のし上がってきた人物。なにかシンパシーを感じるところがあったのではないでしょうか。

久秀は悪人というけれど、よく見るとそんなことはないよ、という内容を見てきました。濡れ衣のような出来事もありました。が、そうはいってもなぜこれほどまでに「悪人」「裏切り者」でキャラクターが定着してしまったのか。

戦国武将たちのエピソードが書物に多く書かれるようになるのは近世に入ってからですが、徳川の世のこと。忠義こそ正義で、久秀のような状況によってコロコロと立場を変える人物は好ましくない存在だったのかもしれません。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 藤岡周三『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』(文芸社、2007年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

該当カテゴリと関連タグ



おすすめの記事


 PAGE TOP