「三好義興」期待を背負った三好長慶の後継者

天下人として畿内に名を轟かせた三好長慶には、自身の後継者として期待を寄せる嫡男・義興がいました。父のみならず一族に将来を嘱望されていたであろう義興ですが、しかし父・長慶よりも先に、22歳の若さで亡くなってしまうのです。

三好長慶の嫡男

三好義興は、天文11(1542)年に三好長慶の嫡男として誕生しました。母は長慶正室・波多野稙通の娘です。幼名は孫次郎。元服すると、当初は慶興と名乗ります。

永禄元(1558)年に対立していた長慶と13代将軍・足利義輝が和睦すると、翌2(1559)年2月2日、義興は長慶とともに上洛し、将軍義輝と謁見しました。

同年12月18日、義輝から将軍家の通字である「義」の字を賜り「義長」と名を改めています。

家督を継ぐ

永禄年間前半は三好長慶の全盛期でした。永禄3(1560)年正月、長慶は御相伴衆に、義興は御供衆に列し(義興が任ぜられたのは松永久秀と同時で2月)、長慶は修理大夫に昇任、義興は筑前守に任官しています。

同年中に長慶が河内飯盛山城に移ると、義興は摂津芥川山城を受け継ぎます。三好氏当主代々の官途である筑前守、芥川山城を継ぎ、また判物の発給も受け継いだ義興は、事実上家督を譲られた形です。


足利義輝との関係

永禄4(1561)年1月、義興は上洛して年賀のあいさつに義輝のもとを訪れた際、御相伴衆になったことの礼を述べています。

父に続き、義興も御相伴衆に列したのです。また、三好氏の優遇は長慶だけにとどまらず、義興や松永久秀らにも及んでいました。

同じころには正五位下から従四位下に昇叙され、また長慶・義興・久秀は桐紋の使用を許されました。桐紋はもともと皇室が使用する紋のひとつでしたが、後醍醐天皇が足利尊氏に下賜して以降、足利将軍家およびその一門の紋となっていたものです。

桐紋の中でもっともベーシックな「五三桐」
桐紋の中でもっともベーシックな「五三桐」

同年2月23日、義興が北山の鹿苑寺(金閣寺)を見物に訪れていた時のこと。将軍義輝も同じ場所に居合わせていました。義輝に呼ばれた義興は伺候し、盃をもらって優待を受けました。

将軍に優遇される義興は何か返礼をせねばと考え、義輝の御成(将軍が家臣の邸を訪れること)を請いました。

三好氏が優遇されているとはいえ、形式上は細川氏の家臣に過ぎない三好氏。その邸に将軍が訪れるというのは極めて異例のことです。しかし義輝は求めに応じて三好の邸を訪れ、歓待を受けました。このとき義興は銘刀七腰を献上しています。

このように義輝は若く年も近い義興と親交を深めました。それはもちろん義輝・長慶双方の政治的思惑あってのことでしょう。長慶にしてみれば、義輝は長く対立してきた相手です。

和睦したとはいえ、ぎくしゃくしていたでしょうし、そこは年齢の近い嫡男を近づけ、三好を背負って立つ若い義興が義輝と良好な関係を築いて擁立していく関係を構築したい、おぜん立てしてやりたい、という気持ちがあったのかもしれません。


義興の死

しかし、嫡男に期待する長慶のそんな思いとは裏腹に、義興は父よりも先に早世してしまいます。思えば永禄4(1561)年の将軍御成が三好の栄華の極みだったのか。その後は転がり落ちるように衰退していきます。

同年4月、長慶の弟・十河一存が亡くなったことを皮切りに、それからわずか3年の間にもうふたりの弟・三好実休、安宅冬康、そして嫡男の義興が亡くなってしまったのです。

義興は永禄6(1563)年に病にかかり、8月25日に居城の芥川山城で亡くなりました。軍記物『足利季世記』によれば、義興の病は黄疸であったとか。

松永久秀毒殺説

病名を伝える一方、足利季世記』は毒殺の風聞についても伝えています。

「如何なる故ありしにや近く召仕ふ輩の中より食物に毒を入れて奉り、かく逝去ありと後に聞えけり。又松永のわざとも申しける」

久秀が毒殺したのでは、という風聞については『続応仁後記』も触れていますが、これを「雑説」としたうえで否定しています。

毒殺説について触れているのは後世の軍記物ばかりで、一次史料には見られません。義興が急死したこと、また長慶の近親が続けざまに亡くなったことから、長慶らと同等の勢力をもつ久秀がまず疑われたのでしょう。

久秀には、義興だけでなく一存も暗殺したのではという噂もありますが、これも信憑性がありません。

長慶の後継は義継へ

あまりにも早く亡くなってしまった義興。『続応仁後記』は毒殺の噂を否定する一方、義興の早すぎる死について、

「此人父祖に不劣器量勝れて一度は天下の乱をも可相鎮人なりしに、角死去せられたりと云て其此人惜合けり」

と、父祖に劣らない器量をもち、天下を治めるべき人であったのに、と義興の才覚を讃えて早世したことを惜しんでいます。

義興は妻帯していたものの、後継となる子はいなかった(義資という嫡男がいたが幼すぎて後継にはなれなかったという説もある)ため、長慶は十河一存の遺児で扶育していた熊王丸(のちの義継)を猶子とし、後継にしました。

子に先立たれた長慶はその悲しみによってか、翌永禄7(1564)年7月に義興の後を追うように亡くなりました。




【主な参考文献】
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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