「三好義継」三好長慶の跡を継いだ三好氏最後の当主
- 2020/10/28
三好義継は、三好長慶の弟・十河一存(そごうかずまさ)の子でしたが、長慶の猶子となって三好宗家の後継者になった人物です。のちに織田信長に降りますが、信長が追放した将軍・足利義昭を匿ったことで怒りを買い、自害してしまいます。
【目次】
十河一存の子から三好長慶の後継者へ
三好義継は、天文18(1549)年に十河一存の子として生まれました。一説には天文20(1551)年生まれとも。母は九条稙通の娘(養女とも)です。幼名は孫六郎といい、最初の実名は重存(しげまさ)でした。
父の一存が永禄4(1561)年に病死すると、義継は伯父の長慶に引き取られて養育されることになりました。
それから2年後の永禄6(1563)年8月、長慶の嫡男である義興が急死すると、今度は義継が長慶の猶子となり、次期後継者とされました。
なぜ一存の子が選ばれた?
ところで、長慶の後継者に選ばれたのが義継だったのはなぜでしょうか。一存の子はほかにもいましたが、庶子であったため跡を継ぐことはできませんでした。そのため、義継が長慶の猶子になって空いた十河家の家督は、三好実休(一存の兄)の次男・存保(まさやす)が十河家に養子に入って継ぐことになりました。庶子の存之(まさゆき)は存保の家老に落ち着きます。
嫡出子がひとりしかいない十河家ではなく、最初から同じ弟の子でも実休や安宅冬康の子から猶子を選べばよかったものを、なぜこのようにややこしいことをしたのでしょうか。
これは義継の母の実家・九条家が関係しているといわれます。五摂家の一角である九条家は、五摂家は「近衛流(近衛家・鷹司家)」「九条流(九条家・二条家・一条家)」の二流があり、それぞれの祖である九条家と近衛家は対立する間柄でした。
将軍の正室を輩出する家といえば日野家ですが、五摂家筆頭の近衛家は12代の義晴、13代の義輝と二代続けて娘を将軍の正室にしており、結びつきを強めていました。九条家はこれに対抗するように、当時絶大な勢力を誇った三好氏の十河一存に娘を嫁がせたとか。
長慶の後継者に義継が選ばれたのは九条家との結びつきを重視したもので、「将軍家と近衛家」VS「三好氏と九条家」という対立関係が背景にあったためである、という見方があります。
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三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害
永禄7(1564)年6月22日、義継は三好長逸(ながゆき)、松永久通(久秀嫡男)らとともにおよそ4000人を引き連れて上洛し、翌23日に義輝にあいさつしました。それから間もない7月4日、病床の長慶が亡くなりました。長慶の死はしばらく秘され、葬儀は2年後に執り行われています。これは義継がまだ幼かったためであるとも言われます。
若年の当主・義継は、三好三人衆と呼ばれる三好長逸、三好宗謂(政康)、岩成友通らの後見を受けました。
永禄8(1565)年、義継は義輝の偏諱を受けて「義重」と名を改め、左京大夫に任官されます。しかし同年5月19日、義継は三好三人衆、松永久通らとともに義輝の御所である二条御所を包囲し、訴えがあるとして襲撃。そのまま義輝を殺害してしまいます。
いわゆる永禄の変です。義輝を殺害するつもりでいたのかは不明で、偶然起こったことであるともいわれます。
義輝殺害ののちに「義重」から「義継」へ改名。義継を支える三好三人衆らは松永久秀と対立するようになり、畿内で戦いを繰り広げます。
その間、三好氏は撃った義輝の次の将軍として足利義維(よしつな)の子・義栄(よしひで)を擁立し、義輝の弟・義昭派と次期将軍をめぐって対立していました。
三好三人衆から離れ、松永久秀とともに信長に協力
永禄10(1567)年、義継は義栄にかかりきりで当主である自身をないがしろにする三人衆らに不満を募らせ、側近とともに久秀に近づきます。これで三好三人衆と久秀の戦いは、にわかに久秀有利に傾きました。東大寺を焼いたことで有名な東大寺大仏殿の戦いでは久秀の軍が勝利しています。
義栄を擁立する三好三人衆に対抗するように、やがて義継と久秀は義昭を擁立する信長に近づきます。
信長軍の上洛に協力した二人はともに信長と対面。久秀は名物茶器の「九十九髪茄子」の茶入れを献上して信長に臣従。義継も信長の家臣となり、引き続き三好三人衆と戦っていくことになりました。
ただ、実際には二人とも15代将軍となった義昭の幕臣であって、信長に直接仕えていたわけではないと思われます。
上洛が成功したのは義継・久秀の協力あってのことともいわれていますが、二人の最期を考えると、この行動が大きな間違いであったのかもしれません。
信長と義昭が不和になり、反信長勢力に加担
永禄12(1569)年正月、三好三人衆らが将軍仮御所を襲撃した本圀寺の変では、義継は将軍側の戦力として戦い、三人衆らを追い払うと、同年3月には信長の媒酌によって義昭の妹と結婚しています。義昭やその妹にとっては、義継は兄義輝を殺した仇でしたが、信長のこの仲介が関係改善のいいきっかけになりました。しかし、この結婚はのちに義継の足枷になってしまうことになります。
元亀年間、信長と義昭との間に不和が生じ、いわゆる信長包囲網が形成されていきます。
元亀2(1571)年、久秀が甲斐の武田信玄(晴信)と通じ始めるなど、このころから久秀や義継は反信長勢力として、信長に叛く動きを見せます。
北の朝倉・浅井、西の石山本願寺・三好、そして東に武田に囲まれた状況で、元亀3(1572)年に武田が西に軍を向ける動きを見せ、反信長勢力は信長を滅ぼす絶好のチャンスを得ます。
しかし、翌年4月に武田信玄が突如亡くなったことで、逆に反撃の隙を与えてしまいます。最終的には義昭は追放となり、室町幕府は事実上崩壊となるのです。
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足利義昭を匿って自害
このとき京を追われた義昭を河内の若江城で匿ったのが義継でした。義継は義昭にとって妹婿ではありますが、もとは兄の仇です。そんな相手でも頼ってやってきた義昭を突き放すことなどできなかったのでしょう。
義昭は11月9日に若江城を出て堺に移りました。信長は上洛を促しますが、義昭は聞き入れず、今度は紀伊の興国寺に移ります。
信長は、義昭を匿った義継のいる若江城に佐久間信盛を派遣、包囲させました。これを命じたのは義昭が若江城を去る5日前でした。義継は籠城しますが、あえなく敗戦。最期は自刃して果てました。
『信長公記』は義継が謀反を企てたと伝えています。また、義継の最期は、もはや守り切れないと覚悟し、妻子を刺し殺し、腹を十字に切って果てたとしています。
義継の死によって、三好宗家は事実上滅亡しました。久秀とともに信長に協力したこと、信長の仲介で義昭の妹を妻に迎えたこと。どれかが違えば結果も変わっていたのかもしれません。
ただ、そうであったとしても義継の行動を振り返れば長慶ほどの器量は持ち合わせておらず、若いこともあってか家中で自分の存在感を示すこともできませんでした。
評価は高くありません。結局義継は当主になる器ではなかったのかもしれません。
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【参考文献】
- 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
- 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
- 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
- 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)
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