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  • 豊臣秀吉
 2017/11/16

「後藤基次」通称・後藤又兵衛。大坂の陣で散った稀代の猛将

後藤又兵衛の肖像画

後藤基次といえば、大坂の陣で豊臣方に味方し、そして死んでいった悲運の猛将というイメージが強い人物です。しかし、彼の実像についてはその多くがハッキリとしておらず、特に「敗者」として語り継がれたこともあり、彼の人格面を否定するような記述も目立ちます。

では、実際のところ「後藤基次」という武将はどのような人物であったのか。この記事では、その実像に迫っていきましょう。
(文=とーじん)

あいまいな生年や出自

基次は、永禄3年(1560年)に播磨国の春日山城主であった後藤基信の次男として誕生したと言われています。ただし、この生年や出自は非常にあいまいなものであり、実際に『大日本史』という史料では父を後藤基国と記述しているものの、これは誤りであるという指摘もあります。

従来語られてきた出自については父を基国としたものであり、例えば主君である別所家の三木城が落城した際、基次がわずか10歳前後であったというのも真実ではないという見方がなされています。実際のところはこのとき20数歳であったというのが正しいようで、これを踏まえれば基次は後藤勢の一人として三木城を攻めた秀吉と争っていたことになるでしょう。

ところが、秀吉の軍勢の前に三木城は落ち、主君の別所家とともに後藤家も事実上壊滅してしまいました。彼は当時春日山城の支城である南山田城に本拠を構えていたようですが、秀吉に降伏して一時仙石秀久のもとへと身を寄せます。その後、天正10年(1582年)になってようやく黒田官兵衛のもとに仕えることとなりました。

基次の出自は「幼少期に父を失い、黒田家で養育された」と語られることも多いですが、これは「基国の子である」という前提をもって語られた内容であり、実際はこの時になってようやく黒田家に入ったと考えるべきでしょう。

黒田家臣として名を上げ、世間で高く評価されていた

官兵衛に仕えた基次は、戦に強かった黒田家臣団の一角をなし、数多くの戦で活躍を見せました。記録に残っているところで古いものは、天正15年(1587年)の九州攻めにおける戦功が挙げられます。

ここで戦果を挙げた官兵衛は秀吉より豊前国への転封を告げられ、基次もこれに同行して九州の地へと赴きました。しかし、領地召し上げに反発する土着の勢力も多く、彼らはまずこれに対処する必要があったのです。

特に城井氏は黒田家に対して強烈な抵抗を見せ、天正15年(1587年)には城井鎮房との間に戦勃発の機運が高まりました。強固に討伐を主張したのは官兵衛の息子・黒田長政でしたが、基次や吉田長利といった黒田家の家臣らが反対意見を表明。

ところが、長政はこれを聞き入れず出陣を強行し、結果として黒田軍は大敗を喫してしまったのです。官兵衛はこれに激怒したと伝わっており、彼を恐れて長政以下は山籠もりや坊主頭にすることをもって誠意を見せようとしました。が、基次だけは何食わぬ顔で出仕し続け、その訳を問うと「戦には勝ちもあれば負けもあるもので、一度負けたからといって弱気になるのは武士の恥」と切り捨てたと言います。官兵衛はこの言葉に「もっともな言い分」として理解を示し、長政らを許しました。

さらに、同年に基次は長岩城という城を攻めましたが、このときには瀕死の重傷を負ってしまいました。それでも九死に一生を得た基次は引き続き官兵衛に仕え、後には無事に長岩城を攻略することになります。

続いて、基次は主君が官兵衛から長政に代わった後の文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、戦況を即座に判断する優れた判断力で敵味方の勝敗を次々に言い当てたと伝わっています。

さらに、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは長政軍の先鋒を務め、東軍の戦勝によって日本中に武勇を知らしめる結果となりました。

こうして黒田家中で名を上げた基次は、後世で黒田家臣の中でも特に武勇の優れた人物であることを示す「黒田二十四騎」の一員に数えられるなど、武勇を天下に轟かせていたのでしょう。

長政と不仲になり、黒田家を出奔

黒田家中でも武辺者として知られていた基次ですが、主君長政との間に不和が生じ、これを原因として黒田家を出奔したということは有名です。しかし、その詳細な動機はハッキリしておらず、様々な逸話などから不仲説が浮上してきました。以下では、その中の代表的なものをご紹介します。

まず一つは、先に述べた長岩城の戦いに際して自分だけが坊主にならなかったことで、長政によって恨みを抱かれたというものです。先に頭を丸めたことで恥をかいたという長政の気持ちは、逸話が真実であれば納得できるでしょう。他にも、こうして「長政に恥をかかせた」という類の逸話はいくつか存在します。

次に、長政が基次の武勇を警戒していたというような逸話もいくつか確認できます。家臣らと長政が雑談していたところ、彼が戯れに「自分に代わって大功を立てられる指揮官が家中にいるか」と家臣らに尋ねます。すると、家臣らは「基次なら…」と口々に答えたと言われ、これを長政は不快に感じました。恐らく、彼は「殿に代わる家臣などいない」という返答を期待していたと思われ、自分に代わる存在と目されている基次の武勇を警戒したのかもしれません。

最後に、基次が他家と積極的に関わっていたことを長政が快く思わなかったという説もあります。彼は長政との仲が良くなかったと言われている細川忠興と交流を重ねていたらしく、内通を疑われるほどに親密な関係だったようです。

以上のような逸話に加えて基次の命令無視など品業の悪さが災いした結果、慶長11年(1606年)に一家揃って黒田家を退去したと言われています。

しかし、上記で語られてきた逸話などはどれも信ぴょう性が低く、そもそも「本当に長政と不仲だったのか」ということすらも定かではないというのが実情です。確かなことは慶長11年に黒田家を出奔したということだけであり、個人的には「基次や長政の不仲」というよりは、その2年前に官兵衛が亡くなったことにより「自分だけでは扱いにくい重臣の追放」という意味のほうが強かったように思えます。

いずれにしても、黒田家を去った基次は浪人生活を余儀なくされるのです。

仕官の申し入れはあったようだが、奉公構によって実現せず

黒田家を去った基次は、まずかねてより付き合いのあった細川家を頼ります。しかし、この行為によって黒田家と細川家の関係性が大幅に悪化してしまったため、基次は細川家を去らなければならなかったと言われています。

その後は播磨国の池田輝政を頼りましたが、慶長18年(1613年)に彼が死ぬと、基次は池田家を去りました。以後、基次は黒田家より「奉公構」という刑罰(要約すると、他家に基次を雇うな、と触れ回ること)を受けていたことが影響し、なかなか仕官先が決まらない浪人生活を送ることになりました。

ただし、池田家を去ったのは徳川家が間に入って協議のうえで決定された事項であり、基次は池田家を含む縁者から相当の支援を受けていたようです。そのため、浪人の立場でありながらそれほど生活に困窮していたとは考えにくく、彼の苦労を示すような一部の逸話は事実ではないと思われます。

その後、翌慶長19年(1614年)には江戸幕府と豊臣家の対立が深刻化。豊臣家は幕府と一戦を構えるべく、全国の浪人たちを大坂城へと迎え入れます。すでに武勇がとどろいていた彼の到着は豊臣方に歓迎されたとされ、大坂方を代表する「大坂城五武将」の一角に数えられました。

また、彼は五武将の中で最も家康・秀忠親子に警戒されていたといい、戦の勃発する直前まで引き抜きの調略を受けていたと言われています。

大坂の陣で、華々しく戦場に散る

いよいよ大坂冬の陣が勃発すると、彼は木村重成らと協力して上杉景勝などの軍勢と対峙しました。この時は基次を含めて大坂方が奮戦に奮戦を重ね、家康は予想外の苦戦を強いられることになります。

最終的に幕府方から講和の申し入れがあり、基次はこれを受け入れることに賛成しました。ただ、彼は戦場で家康の狙撃に反対したため、豊臣方の武将たちからは内応の疑いをかけられることもあったようです。

講和そのものは無事に成立しましたが、幕府方は当初の取り決めであった「外堀」だけでなく、城防御の要である「内堀」までを埋め立ててしまったため、大坂城は丸裸同然の城になってしまいました。ここで豊臣方はふたたび開戦を決意し、大坂夏の陣が幕を開けます。

夏の陣では野戦ではなく山岳戦を主張し、絶対的な兵力差によって追い込まれていく豊臣軍の中で孤軍奮闘しました。ところが、濃霧のために後援を約束していた軍勢が現れず、毛利勝永や真田幸村らは遅参してしまいます。

そうこうしているうちに10倍とも伝わる幕府軍に囲まれてしまった基次は、最終的に伊達軍から放たれた一発の銃弾によって命を落としました。

ただ、乱戦の中での死であったことからでしょうか、基次の「生存説」は各地に伝わっています。奈良県宇陀市には、隠棲した基次がこの地で生涯を終えたことに由来する「又兵衛桜」が現存しているほか、大分県中津市にも彼の生存伝説を示す「後藤又兵衛の墓」があります。

以上のような伝説の存在からも読み取れるように、「謎の猛将」後藤又兵衛の伝説は、軍記物や講談などによって江戸時代を通じて愛されました。そのため、現代に伝わっている彼の事績や逸話などには、創作されたものが少なくありません。

ただし、それを反証できるような良質な史料も多くなく、その生涯は未だに明確なものではないといえるでしょう。


【参考文献】
  • 小嶋太門『後藤又兵衛の研究:最後の戦国武将とその系譜』人間社、2014年。
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 『国史大辞典』



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