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  • 豊臣秀吉
 2019/01/28

【入門】5分でわかる豊臣秀吉

豊臣秀吉の肖像画

安土・桃山時代の中心人物といえば、やはり戦国時代に終止符を打ち、天下を統一した「豊臣秀吉」でしょう。日本人であれば誰もが知っている英雄のひとりです。しかし、秀吉がどうやって天下統一を成すまで成長し、天下統一後はどうだったのかまでは知らない人も多いかもしれません。

今回は「超入門編」として、豊臣秀吉の生涯を5分でわかるようにまとめてみました。
(文=ろひもと 理穂)

信長配下の武将として頭角を現す

木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名

実は、秀吉の出自についてははっきりとはわかっていません。父・木下弥右衛門と、なか(のちの大政所)の子として誕生したと伝わっています。足軽の子、または農民の子という下層階級に生まれました。

継父から虐待を受け、家を飛び出し、侍になるために遠江国へ赴いたようです。はじめは「木下藤吉郎」と名乗り、今川氏家臣・飯尾氏の配下の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕えました。
その後、遠江国を飛び出し、尾張国に戻って「織田信長」に小者として仕えると、清洲城の石垣普請や薪奉行などで功績をあげ、信長に気に入られるようになり、次第に織田家中で頭角を現していきます。

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府将軍となる足利義昭を擁して上洛した際には、秀吉は戦場で功をあげ、上洛後には「明智光秀」や「丹羽長秀」らともに京都の政務を任されました。その後、伊勢攻略や浅井氏、朝倉氏と戦いでも活躍し、浅井氏滅亡後にはその旧領を拝領し、長浜城主となったのです。

驚くほどに目まぐるしい出世です。秀吉は、下層階級に生まれても活躍次第では城持ち大名になれることを証明したのです。まさに足軽の希望の星でした。

また、この頃には木下から「羽柴」へ改姓し、羽柴秀吉と名乗るのです。秀吉は長浜で人材発掘に励み、旧浅井家臣団だけでなく、石田三成などの有望な若者を積極的に登用していきました。信長が才能を買って秀吉を重用したように、秀吉もまた身分に捉われず、能力によって人材を用いたのです。

中国攻めの指揮官として毛利氏と対峙

織田政権は引き続き、勢力を拡大していき、天正元年(1573年)には不仲となった将軍足利義昭を追放。その中で秀吉も各地を転戦してさらに功を重ねていきました。

こうした中、天正4年(1576年)頃より、毛利氏の庇護下に入っていた将軍足利義昭が再び、各地の大名を糾合して信長包囲網を再構築して、本願寺勢力・甲斐国の武田氏・越後国の上杉氏・中国の毛利氏や宇喜多氏などが包囲網に参加して敵対していきます。

天正5年(1577年)より中国攻めの指揮官に命じられた秀吉は、播磨に入国し、交流のあった小寺孝高(後の黒田官兵衛)から姫路城を譲り受けて、中国攻めの拠点とします。

秀吉の中国攻めマップ(※緑部分は1582年武田滅亡後における織田政権のおおまかな勢力範囲)

同年の「第一次上月城の戦い」で、毛利勢力圏の東の最前線である上月城を陥落させて播磨を一旦は平定させましたが、別所長治、続いて荒木村重が相次いで信長勢力から離反し、秀吉もそちらに兵を割かなければならなくなります。
こうした背景から天正6年(1578年)の「第二次上月城の戦い」では、信長の命令もあって援軍を出せなかったため、織田傘下の尼子氏は滅亡しました。

天正7年(1579年)には、荒木村重を逃亡させて有岡城を陥落。さらに、毛利方であった備前国・美作国の宇喜多直家を服属させると、翌天正8年(1580年)には補給路を断って「三木の干殺し」と呼ばれた兵糧攻めで別所長治を自害に追い込みました。

その後、再度播磨国を平定すると、続いて弟の羽柴秀長に但馬国を攻略させ、守護山名氏を抑え、その統治を秀長に任せます。そして、天正9年(1581年)の鳥取城攻めと淡路平定を経て、備前国・備中国に侵攻しました。

天正10年(1582年)の「備中高松城の戦い」では攻めあぐねたため、水攻めの策を施しています。 信長が「本能寺の変」で光秀に討たれたのは、その最中のことでした。

信長の後継者としての道のり

本能寺の変後の中国大返し

信長軍団の中で信長の死を知っていち早く動いたのは秀吉でした。秀吉は備中高松城の戦いで水攻めの最中でしたが、本能寺の変の報を聞いてすぐさま清水宗治の自害を条件に城兵を助命する講和を毛利輝元と結びます。そして不眠不休の続く中、凄まじい速度で京都に軍を返しました。世にいう「中国大返し」です。

本能寺の変の当事者である光秀はすぐに信長・信忠父子の残党追捕を行い、さらに、安土城への入城と近江を抑えようとしましたが、光秀の誘いを拒絶した瀬田城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて甲賀郡に避難したため、仮橋の設置に3日間かかってしまいました。

このような「時間」が秀吉と光秀の明暗を分けることになります。
中国大返しの最中、秀吉にとって懸念材料は去就をためらっている中川清秀・高山右近ら摂津衆の動向でした。これについては、秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、摂津衆の多くを味方につけることに成功しています。

一方で光秀も新政権を整えるため、細川藤孝・忠興父子や筒井順慶、摂津衆などを味方に引き入れようと説得を試みましたが、こちらは失敗しています。流れはどんどん秀吉に傾いていったのです。そして摂津国と山城国の境に位置する山崎で秀吉と光秀は激突します。天下分け目の「山崎の戦い」です。この戦いで秀吉は光秀を撃破し、光秀は落ち武者狩りに遭って命を落としています。

秀吉が信長の仇を討ったことで、織田家中の勢力バランスが大きく崩れていきました。秀吉が強力な発言権を持つようになったからです。

清洲会議で存在感を発揮

織田家では、信長の後継者と遺領の分割を決定するため、清洲城にて会議が行われました。映画にもなった「清洲会議」です。

集まった織田家家臣は秀吉の他、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人で、同じく重臣である滝川一益は、本能寺の変の後に起きた天正壬午の乱に巻き込まれ、敗走中であったために参加できませんでした。

後継者問題では信長三男・織田信孝を擁立する勝家と、信長嫡男だった織田信忠の子で、信長の嫡孫にあたる三法師を擁立する秀吉とで意見が対立することになります。しかし秀吉の巧みな人心掌握が功を奏し、三法師が後継者になることが決定しました。

この会議で、織田家筆頭家老としての勝家の影響力は低下。さらに、信長の遺領分割では光秀の旧領が秀吉に与えられたことで領地でも秀吉に劣ることとなり、勝家と秀吉の立場は完全に逆転することになったのです。

『絵本太閤記』清州会議で三法師を擁する秀吉
『絵本太閤記』清州会議で三法師を擁する秀吉

清洲会議の終了後、勢力を増した秀吉と、勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まります。秀吉は調略を進めていく一方、勝家は一益や織田信孝を味方につけて対抗しました。そして秀吉は京都で信長の葬儀を行い、信長の後継者が自分であることを世間に強く印象付けることに成功するのです。

さらに秀吉は年末に、越前国にいる勝家が雪で動けないのを好機と見て、信孝が三法師を安土に戻さないことを大義名分として挙兵しました。そして勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲し、調略をして長浜城ごと寝返らせます。

勝家を滅ぼし、最大勢力へ

12月になると、秀吉は美濃国に侵攻してさらに兵力を増強させました。年が明けた天正11年(1583年)正月には伊勢国の一益がすぐさま挙兵し、秀吉に対抗しました。秀吉も2月には北伊勢に侵攻し、戦いは激化していきます。

3月になると、ついに勝家が前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて挙兵し、近江国で秀吉軍と対峙しました。4月には秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国の寝返り、そして、一度は降伏した信孝が岐阜で再挙兵したことで、秀吉は近江、伊勢、美濃の3方面同時作戦を強いられることになるのです。

ここで秀吉軍が近江から離れたのを機に、勝家の重臣・佐久間盛政の奇襲で大岩山砦の中川清秀を討ち取り、情勢は勝家方が優勢になっていきました。しかし、盛政は勝家から撤退命令が出されますが、これを拒否して前線に軍勢を置き続けました。

その間に長秀の軍が戦地に合流し戦局が一変します。美濃国から迅速に引き返してきた秀吉軍の反撃と、利家の裏切りが発生し、この「賤ヶ岳の戦い」に大敗した勝家は、本拠地である越前国に撤退していきます。そして、利家を先鋒とする秀吉軍に包囲され、勝家は夫人のお市の方らとともに自害しました。

秀吉はこうして反対勢力を一掃し、織田家の家臣で筆頭の地位を確立します。三法師を傀儡として、実質的に織田家中を掌握することになったのです。

賤ヶ岳の戦いで自害した信孝の代わりに、信長の次男・織田信雄が三法師の後見につき、安土城へ入城しますが、秀吉はすぐに信雄を退去させ、秀吉と信雄との関係が険悪化していきました。
信雄は秀吉に対抗するため、妹・徳姫の縁もあって徳川家康に接近して同盟関係を結びます。こうして秀吉と家康が激突することになるのです。

豊臣政権の誕生

関白に就任

天正12年(1584年)、秀吉は信雄家臣の三家老を懐柔して傘下に組み込もうとしましたが、信雄は秀吉と内通したとしてこの三家老を処刑しました。これに激怒した秀吉は信雄に対して出兵を決断。 こうして秀吉 vs 信雄・家康連合の戦いが勃発するのです。

この「小牧・長久手の戦い」については、家康は小牧山城を占拠し、長久手では池田恒興・森長可を討ち取るなどして尾張国では優勢を保っていましたが、伊勢国では秀吉軍の侵攻を受けた信雄が家康に無断で講和してしまいます。こうして家康は大義名分を失い、決着のつかぬまま戦いは幕を閉じました。

天正13年(1585年)には、3月から4月にかけて紀州征伐を行ない、雑賀衆、根来衆といった抵抗勢力をねじ伏せて紀伊国を平定します。さらにその後、四国をほぼ統一していた長宗我部元親に対して挙兵し、わずか数か月で長宗我部氏を降伏させて四国を平定しました。

この四国攻めの最中に、かねてから朝廷で紛糾していた関白職を巡る争いに介入した秀吉は、近衛前久の猶子となって「関白」宣下を受けました。ここに「豊臣政権」が誕生したのです。

関白となった秀吉は各地で「検地」を実施、また、朝廷権威をもって九州地区での私闘禁止令を発します。これを大友氏は受け入れましたが、九州制圧を優勢に進めていた島津氏は拒否したため、秀吉は九州征伐を進めていくことになりますが、そのためにも家康を臣従させる必要がありました。

徳川家康を臣従させることに成功

天正14年(1586年)、秀吉はなんとか家康を上洛させたいのですが、家康はなかなか従いません。そこで秀吉は人質を差し出すという驚きの選択をします。実妹・朝日姫(南明院)を離縁させて、家康の正室としたのです。それでも上洛しない家康に対し、秀吉は最後の手段として、生母・大政所を朝日姫の見舞いの名目で家康のもとへ送りました。

秀吉は妹と母を人質と家康に差し出したわけです。これにはさすがの家康も根負けし、上洛して秀吉に臣従しました。秀吉にとって家康はそれほどまでの脅威であり、逆に味方につければこの上ない心強い存在だったということでしょう。

同年、秀吉は正親町天皇から「豊臣」の姓を賜り、さらに太政大臣に就任します。これより秀吉は、「豊臣秀吉」を名乗ることになるのです。

九州征伐と各種法令

九州平定

九州では、秀吉から占領地のほとんどを大友氏に返還するという国分案が島津氏に提示されますが、島津氏はこれを拒否し、大友氏への攻撃を再開して九州制圧を進めていきました。秀吉は毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示しています。

勢いのあった島津軍でしたが、秀吉の援軍である輝元が安芸国より、小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ出陣したため、島津軍は撤退します。また、秀吉の命令によって十河氏、長宗我部氏も豊後国に出陣して大友氏と合流し、徐々に秀吉側の勢力が拡大していきました。

同年の12月には、豊前国のほとんどが秀吉の支配下となっており、ここで秀吉は諸国に対して自らも島津討伐に加わることを伝えました。そして、畿内および北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道などの約37か国に対して、計20万の兵を大坂に集めるように通達するのです。

天正15年(1587年)、ついには秀吉自らが出陣し、肥後方面軍は秀吉本隊、日向方面軍は秀長隊が、合計20万の大軍で侵攻しました。圧倒的な兵力差を前に、島津氏当主の島津義久は戦線の縮小を図って豊後国から完全に撤退し、その後の戦いでも負けが続くことになり、ついに降伏しました。

こうして九州全域をほぼ支配しつつあった島津氏を屈服させ、秀吉は西国を完全にその支配下に収めたのです。

天下統一に向けて各種法令を発布

もはや残された領土は関東と奥羽だけでした。秀吉は残った勢力を倒す大義名分を得るため、豊臣政権より関東・奥羽(陸奥国・出羽国)の「惣無事令」(私闘を禁じた法令)を発し、家康に監視をさせます。

また、九州平定後、九州において強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊などといった神道・仏教への迫害や、ポルトガル人による日本人の奴隷売買などが行われていたことが発覚しました。
秀吉はイエズス会の布教責任者ガスパール・コエリョを呼び出し、問い詰めた後、博多で「バテレン追放令」(キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書)を発布します。

秀吉は信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していました。ですから、この法令は個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは規制しておらず、下層の民については自由であることを定め、建前としては信仰の自由を保障するものでした。また、一定の領地を持つ大名についても秀吉の許可があれば信仰を許しています。

その他、布教に関係しない外国人商人の渡来に関しても規制しておらず、また、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰するとしています。キリスト教に対してそこまで厳しい対応ではなかったと言えます。

京都では、関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として着工していた「聚楽第」が完成します。 九州征伐を終えた秀吉は大坂より移り、ここで政務を執りました。また、後陽成天皇の行幸を迎えて饗応したり、天正少年使節や家康の謁見もこの聚楽第で行われています。

『聚楽第図屏風』の一部分。三井記念美術館所蔵。
『聚楽第図屏風』の一部分(三井記念美術館所蔵。wikipediaより)

天正16年(1588年)には、秀吉はさらに「刀狩令」と「海賊禁止令」を同時に発布しています。兵農分離を徹底し、下剋上の再発を防ぐのが目的でした。こうして天下統一に向けて、秀吉は次々と法令を発布していくのです。

秀吉の天下統一

小田原征伐

天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、秀吉は後継者を得ます。そして翌天正18年(1590年)、「小田原征伐」が開始したのです。秀吉自らが関東へ遠征し、後北条氏の本拠小田原城を包囲しました。 後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略されていき、北条氏政、氏直父子はついに降伏します。

後北条氏を滅ぼした秀吉は、最後に東北地方に対し、「奥州仕置き」と呼ばれる領土仕置を実施しています。この時点で伊達氏は奥羽に150万石近い大領国を築いていましたが、当主・伊達政宗が小田原征伐の際に遅参したことに加え、惣無事令にも違反していたことから72万石に減封されています。

小田原征伐並びに奥州仕置によって、ついに秀吉の「天下統一」という大事業が完成しました。数多の戦国武将が夢見ながら成し遂げられなかった天下統一を、一兵卒に過ぎなかった秀吉が立身出世の末に見事果たしたのです。

天下人となった豊臣秀吉のイラスト

羽柴秀次の関白就任と切腹

しかし、人生幸せなことばかりが続くわけではありません。秀吉はこの年に後継者に指名していた嫡男・鶴松を病で失ってしまいます。落胆した秀吉は、甥である羽柴秀次を家督相続の養子とし、関白職を譲りました。
ただし、全権を譲らずに二元政を敷いたため、秀吉は「太閤」(前関白の尊称)と呼ばれ、実権を握り続けました。そして秀吉と淀殿との間に「豊臣秀頼」が誕生すると、秀次はどんどんと存在感を失い、追い詰められていきます。

文禄4年(1595年)には秀次は謀叛の罪によって切腹させられ、その子や側室などが処刑されています。秀頼にすべてを継がせるため、後の禍根を断っておきたかったのでしょう。人たらしとも言われた秀吉の魅力がこのあたりから急速に衰え始めていくのです。

朝鮮出兵と禁教令

文禄の役

話は前後しますが、文禄元年(1592年)、秀吉は「朝鮮出兵」を開始しました。来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず、肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始めます。そして、同年3月には明の征服と朝鮮の服属を目指して、宇喜多秀家を元帥とする16万もの軍勢を朝鮮に出兵させるのです。「文禄の役」の始まりです。

序盤は秀吉軍が朝鮮軍を撃破し、漢城や平壌などを占領するなどして優位に進めていましたが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となっていきます。

文禄2年(1593年)には明との間で講和交渉が開始されました。この時、秀頼が誕生しており、秀吉は京都の伏見城に淀殿と秀頼を伴って移り住んでいます。『言経卿記』には、秀吉は伏見城にて、日本を5つに分け、その4つを秀次、残り1つを秀頼に譲ると言ったと伝わっているので、この時点ではまだ秀次を信頼していたようです。

文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂してしまいます。秀吉は「明が降伏」、明朝廷は「日本が降伏」という、それぞれが偽りの報告を交渉担当者から受けていたため、秀吉は来朝した明使節と謁見して自分の要求が全く受け入れられていないのを知って激怒したのです。そして、使者を追い返して朝鮮への再度出兵を決定しました。

その他の対外政策では、土佐国にスペイン船が漂着し、奉行の増田長盛を派遣しています。長盛は船員たちに「スペイン人たちは海賊で他国を武力制圧したように、日本でもそれを行うため、測量に来たに違いないと都にいるポルトガル人に聞いた」という秀吉の書状を告げています。そして秀吉は再び禁教令を公布することになるのです。

慶長の役

慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島へ再度兵を送り出しました。慶長の役です。この不毛な戦は秀吉の死まで長期化することになります。

一方で、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると秀吉は考え、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう、京都奉行の石田三成に命じています。最終的に日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人(日本二十六聖人)が長崎で処刑されました。

このように晩年の秀吉は、甥の秀次だけでなく、諸外国に対してもかなり厳しい姿勢を示しています。秀吉は近づいてくる自分の死を前にして、焦っていたのかもしれません。

秀吉の死

過酷な対外政策を続ける最中の慶長3年(1598年)3月、秀吉は秀頼、北政所、淀殿ら近親の者たちや、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を招き、「醍醐の花見」と呼ばれる盛大な花見を催しています。

醍醐の花見で最後の力を振り絞ったのでしょう。その後、秀吉は病に伏せるようになっていきます。心残りは幼い秀頼の行く末でした。

同年5月には家康ら五大老、及びその嫡男らと、五奉行のうちの前田玄以長束正家に対し、十一箇条からなる遺言書を渡します。これを受けた彼らは起請文を書き、血判を付けて返答しました。

7月には居城・伏見城に家康、他の諸大名を呼び、家康に対して秀頼の後見人になるように依頼しました。そして、8月には五大老宛てに二度目の遺言書を記しましたが、これが最後の遺言となり、8月18日、秀吉は没しています。享年は62です。秀吉は自身を八幡神として神格化することや遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言したと伝わっています。

秀吉の死後、豊臣氏は秀吉の嫡男である秀頼が継ぎましたが、わずか6歳だったため、豊臣家中では加藤清正福島正則ら武功派と、石田三成や小西行長ら文治派の対立が表面化し、分裂していきました。そして家康に天下を譲るような形で、豊臣氏は秀頼の代で滅んでいくのです。

晩年には衰えを見せるものの、下級階級からたった一代で天下を大きく変えるまでに成り上がった豊臣秀吉は、まさに「下剋上」の象徴だったと言えるでしょう。




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