「どうする家康」徳川家康はなぜ江戸を選んだのか?
- 2023/10/10
天正18年(1590)7月、関東で勢力を誇った小田原の北条氏がついに豊臣秀吉により、滅亡に追い込まれます。7月13日、秀吉は北条攻めの論功行賞を行うのですが、徳川家康には、北条氏の旧領の多くが恩賞として与えられることになりました。家康は関東に移る(関東移封)ことになったのです。
後北条氏の本城であった小田原城ではなく、家康は江戸城に入ることになります。それに関連して、『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)は、次のような逸話を載せています。
────小田原城が未だ落城していない時、家康と織田信雄(信長次男)は、秀吉と笠掛山の陣におりました。そうした時、秀吉は両人(家康と信雄)を誘います。
秀吉:「この山の端に、(小田原)城中がよく見える所がある。行って見ようではないか」
3人は、そこに行き、敵の城を見ながら、軍議したそうです。すると秀吉は家康に突然、尋ねます。
秀吉:「この城(小田原城)が落城したならば、それをそのままにして、徳川殿に進上しようと思うのだが、徳川殿は、ここに住まわれるかな」
家康:「後日は分かりませんが、さしあたっては、この城に住むしかないでしょう」
家康が返答すると、秀吉は
秀吉:「それは、宜しくない。ここは、東国の咽喉、枢要の地である。よって、家臣の中で、軍略に優れた者に守らせて、御身(家康)は、これより東の江戸という景勝の地を本城とすれば良かろう」
と家康に語りかけたといいます。────
『徳川実紀』のこの逸話を踏まえれば、家康ではなく、秀吉が江戸を選んだことになるでしょう。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には「国替をされるなら、関東に替えられよ。嫌だとお考えならそれでも良い」との秀吉の言葉はありますが、特に江戸を指定したとの記述はありません。
秀吉は、小田原攻めの際、江戸城に御座所の設置を指示しているので、秀吉は江戸の重要性をよく認識していたと思われます。「豊臣政権の重鎮として、徳川家康が関東・奥羽統治の要の役割を担う」ー秀吉の頭にはそういった構想があったのではないでしょうか。世上においては、家康は「小田原を本拠にするのではないか」「鎌倉ではないか」との噂があったようですが「江戸に決まった」と聞いて、人々は「驚嘆」したようです。
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