「武井夕庵」優れた実務家だった老近習。あの信長にもモノ申す?

織田信長の初期の近臣であり、信長に仕えていた頃は60~70歳の老齢だったと思われる武井夕庵。信長に多くの諫言をしたことでも有名ですが、その生涯や人物像はどのようなものだったのでしょうか?


信長に仕えるまで

諏訪出身といわれる武井夕庵ですが、誕生年や両親など、その出自は謎に包まれています。

彼ははじめ、美濃国守護である土岐氏に仕えていましたが、斎藤道三によるクーデターによって道三が下剋上を果たすと、斎藤家に仕えるようになったといいます。


道三、義龍、龍興の三代にわたって右筆として支えました。道三が義龍と不和になって弘治2(1556)年に勃発した長良川の戦いのときには、道三と袂を分かち、義龍に従っています。


永禄4(1561)年に義龍が病没し、幼少の龍興が家督を継いだ斎藤家の体制としては、長井道利を筆頭に6人の奉行衆が主要メンバーだったとか。このとき夕庵もその主要メンバーの一人に数えられ、美濃三人衆にも匹敵する重臣だったと考えられています。


尾張の織田信長との争いが激化し、永禄10(1567)年の稲葉山城の戦いで斎藤氏の居城・稲葉山城を攻めとられた後は、やむなく信長の軍門に降りました。以後、岐阜城に出仕して信長の側近として仕えるようになるのです。


なお、かつての主君である龍興はこのときに伊勢長島へ逃亡し、その後も反織田勢力に加わって抵抗していくことになります。



信長の秘書官として活躍

戦国当時のイエズス会宣教師・ルイスフロイスは、その書簡にて夕庵を信長の右筆としています。

右筆とはいわゆる書記のことですが、彼の役目はそれだけではなく、むしろそれ以外の秘書的・吏僚的なもののほうが多いようです。信長の近臣に仕えてから様々な任務が彼の下に降ってくることになります。


信長が足利義昭を奉じて上洛した翌永禄12(1569)年、夕庵は岐阜城を訪問した山科言継の案内役を務めたり、右筆兼奉行のメンバーとして京都周辺の政治に関与しました。


さらには毛利氏との外交がはじまると、その窓口も羽柴秀吉とともに務めていたようです。信長と15代将軍義昭が不和となり、反信長勢力が結集されても、これに毛利氏が加わらなかったのは、秀吉と夕庵の外交努力のたまものでしょう。

ただし、天下統一を目指す上で、のちに織田と毛利領が接する頃になると、両者は敵対関係となっています。


天正3(1575)年には秀吉とともに官位をもらって二位法印に叙せられ、「式部卿法印」と称しています。また、茶人としても活動しており、『信長公記』によれば、天正6(1578)年の元旦に安土城で開催された茶会で、信長嫡男の織田信忠に次ぐ位置だったと伝わります。


夕庵は天正9(1581)年の京都御馬揃えに参加したときには既に70歳を超えていたとか。このときの信長は48歳なので20歳余り年上にあたります。


安土城図(大阪城天守閣所蔵)
安土城図(大阪城天守閣所蔵)

夕庵は合戦そのものでは役に立ちませんが、深い教養をもっていて、さらにはとても優れた実務家でした。信長に諫言したというエピソードもあるので、信長とは相性がよく、もしからしたら父のような存在だったのかもしれません。

また、安土城の山上に屋敷を拝領されるという特別待遇を受けていたことからわかるように、信長から相当な信頼を得ていたのでしょう。


たびたび信長に諫言したエピソードとは

さて、ここで信長に諫言したというエピソードを紹介します。以下に一覧でまとめてみました。


  • 元亀元(1571)年、比叡山延暦寺を焼き討ちしようとした信長に対し、盟友の佐久間信盛と一緒にこれを思いとどまらせようとした。(『甫庵信長記』)
  • 天正4(1576)年頃、越前・加賀で一揆勢を虐殺した信長に諫言し、古典を引用して君子の道について説いた。(『甫庵信長記』)
  • 天正6(1578)年正月、宮中の節会や礼学の保護を信長に勧めた。(『甫庵信長記』)
  • 天正6(1578)年10月、茶道に力を入れ過ぎると武道が疎かになることを諫言した。(『当代記』)
  • 戦いに明け暮れて家中で礼儀が疎かになったので、信長に諫言して家中の礼法を正した。(『武家事紀』※年代は不明)

上記の話はいずれも伝承の域をでませんが、「火のない所に煙は立たぬ」ということわざがあるように、これだけ諫言のたぐいのエピソードがあるということは、事実なのかもしれませんね。


最期は消息不明…

そんな夕庵ですが、天正10(1582)年に本能寺の変が勃発したときの夕庵の所在はわかっていません。


燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年 作)
燃える本能寺で戦う信長(月岡芳年 作。出所:wikipedia

このとき信長・信忠父子とともに同じ運命をたどったとも言われていますが、実際には同10月に吉田兼見を訪問しているので、本能寺の変で難を逃れているのです。また、天正13(1585)年に山科言経を歓待したという記録も残っています。


しかし、その後の消息は不明です。世の趨勢が羽柴秀吉に傾いても、その家臣に加わることはなかったということなのでしょう。


ちなみに、夕庵の子の十左衛門は、のちに浅野家に仕え、紀伊国日高郡と有田郡の代官として活躍したとか。



【参考文献】
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書、1998年)
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』(中公新書、2017年)

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戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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