「斎藤龍興」若くして家督を継承するも美濃を追われた悲運の将

「美濃のマムシ」という二つ名で非常に知名度の高い斎藤道三。彼が国盗りによって築き上げた「美濃斎藤氏」は、三代にわたって美濃を支配しました。しかし、彼の孫にあたる斎藤龍興(さいとう たつおき)の代、尾張の織田信長に敗れあえなく一家は滅亡してしまうのです。

ただし、最後の当主龍興については、道三らと比べるとあまり語られる機会がないように感じます。そこで、この記事では彼の生涯を史料や文献をもとに解説していきます。

父の急死で突如家督を継ぐ

天文16(1547)年、龍興は斎藤家当主である斎藤義龍の子として生まれました。彼の母については諸説あり、『美濃国諸旧記』では長井道利という家臣の娘とされていますが、隣国の浅井氏から嫁入りした近江の方という人物であるという説も存在します。

史料が乏しく確定するには至っていませんが、仮に長井道利娘が母であれば庶子(嫡男よりも身分が下の子ども)で、近江の方が母であれば嫡子(家督を継ぐことができる子ども)となります。

出自についてこれ以上のことは分かりませんが、彼は永禄4(1561)年に父義龍が急死したことで15歳にして家督を継承することになりました。当然ながらあまりに若すぎる家督継承であることは明らかで、実際に政治を取り仕切っていたのは義龍に仕えてきた重臣たちであったと推測されています。

しかし、家督を継承した義龍の眼前には数多くの問題が積み重なっていました。まず、これまでほぼワンマンに近い形で強いリーダーシップを発揮していた義龍が急死したことで、家中の政治面に大きな影響が出てしまったことです。家臣団との風通しが良い一家であればある程度彼の死にも対処できたのでしょうが、当時の美濃はそうした状態にありませんでした。

これは武田信玄死後の甲斐国の状況と似たようなもので、「主君のリーダーシップによって家をなんとかまとめている」という状況にあり、例えば織田家や徳川家のような「制度による家としてのまとまり」を欠いていたといえるでしょう。

また、これは義龍在任時からの問題でしたが、尾張から侵攻を強める織田信長の攻勢にも苦しめられていました。義龍は押されつつも粘り強く美濃を守っていましたが、彼の死を好機と見た信長は美濃への圧力を強めていったのです。

桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像
桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像

このように、龍興が家督を継承したタイミングは非常に政情が不安定な状態にあり、彼の若さでこれらの問題に対処していくのは極めて困難であったことでしょう。実際、龍興は苦しい政権運営を迫られていくことになりますが。

強敵信長への対処、浅井氏との駆け引き等

義龍の死からわずか2日後、これを千載一遇のチャンスと踏んだ信長は美濃への侵攻を開始しました。ここで信長がこれほどまで早く行動を起こせた理由として、数か月前にはすでに情報網を駆使して「義龍の重病」を把握していた可能性が指摘されています。そのため、あらかじめ軍備を整え、知らせが入ると同時に出陣が叶ったのでしょう。

こうして信長と龍興の間に森部の合戦が勃発しました。始めのうちは信長軍が終始優勢であったものの、義龍側もよく戦ったため最終的に信長は戦もそこそこに帰国。『信長公記』の記載はともかくとして、信長としては龍興軍の手ごわさを実感したようです。

美濃を守り抜いて勝利を手にした龍興でしたが、この戦では重臣の日比野清美や長井衛安といった人物らを失うことになりました。また、信長の侵入と並行する形で龍興は長井道利と抱えていた不和の解消にも腐心します。戦の最中にお家騒動が起こってしまっては戦うものも戦えないということで、この際は道利を筆頭家臣に据えることで彼と和解しています。

ただし、こうしたやり取りから斎藤家中が一枚岩ではないことも察せられ、この後も家臣団の統率には苦しめられていくことになります。さらに、信長配下の西美濃攻略軍が美濃国墨俣に滞在し、依然として彼らの脅威であり続けました。最終的に永禄5(1562)年には体制を立て直すため、信長軍は一旦撤退しています。

浅井氏との外交

しかし今度は父の代から引き続いていた新たな問題が浮上します。それは父が対立していた浅井家との折衝で、現状の斎藤氏は六角氏とともに彼らの領国である近江攻略を実行中でした。

このまま浅井を攻め続ければ、窮した彼らが信長と手を組む未来が想定されたため、龍興としては兵を早々に引き揚げたかったところでしょう。とはいえ、ここまで続けてきた戦をいきなり中断するわけにもいかず、対応には苦慮したことと思われます。

こうして綱渡り的な政権運営を強いられた龍興ですが、一方で永禄5年から6年にかけては美濃国内で戦が起こらなかったため、国内は士気が緩んでしまっていました。しかし、尾張国では信長がかねてからの悲願であった反対勢力を一掃したことで対外攻略の準備を着々と整えていることは明白になっていたのです。

クーデターにより、本拠・稲葉山城を乗っ取られる

士気が緩み切った現状を憂いた家臣の竹中重治(半兵衛)や安藤守就らは、龍興にたびたび綱紀粛正の申し入れをしていたようです。しかし、その言葉は龍興に届かなかったのでしょう。永禄7(1564)年、意を決した彼らは、なんと斎藤氏の本城である稲葉山城を占領するというクーデターを決行するのでした。

龍興としてはまさに青天の霹靂といった印象を抱いたようで、当時の史料などからは慌てふためく龍興や家臣らの様子が確認できます。もっとも、彼らの行いはあくまで「家のあり方を正す」ためのものであり、龍興を裏切る意図はなかったようです。

そのため、半兵衛は信長からの内応の誘いにも応じず、守就もまた事の重大さから出家することで誠意を見せました。最終的には半年程度城を占領したのちに稲葉山城を返還しており、彼らの意に添わなかった龍興や長井道利といった人物らに十分なインパクトを与えられたと判断したのでしょう。

竹中半兵衛の肖像画
斎藤氏の本拠地・稲葉山城を占拠した竹中半兵衛

しかし、龍興を快く思っていなかったのは彼らのような忠臣だけではありませんでした。信長が尾張統一を成し遂げたことを知った美濃国加治田城の城主である佐藤忠能という人物は、龍興を見限って信長と内応しています。これにより、美濃に味方を作った信長は侵攻を再開させるのです。

美濃中部における信長との攻防

美濃に侵入した信長軍はまず国境の木曽川を渡ると、対岸に位置する猿啄城(さるばみじょう)を攻めました。ここでは信長が作戦を成功させ、城主であった多治見修理という人物が逃亡。

さらに、内応していた佐藤忠能がすぐそばに位置していた堂洞城を攻め落とし、信長軍に有利な戦局となっていました。しかし、裏切りを察知した龍興軍もいったん帰国を試みた信長を攻め、忠能の息子である忠康を討ち取るなど無抵抗という訳ではありませんでした。

ただ、最終的に一連の戦は信長の一方的勝利という形で幕を閉じることになります。龍興は信長への対応で常に後手を踏み続け、美濃の中部大半を占領されるという痛手を負ってしまいました。ちなみに、ここで信長軍に善処できなかった理由として、「当座は尾張統一に注力している信長が美濃を本気で攻めてくることはないだろう」という龍興方の慢心が指摘されることもあります。

この敗北により、これまで龍興にとって大きな後ろ盾となっていた甲斐武田氏との同盟が揺らぎます。永禄9(1566)年には武田系の美濃における有力な国人・遠山氏が秘密裏に信長と同盟を結んでいました。もっとも、書状の書き方などから全く痕跡がなかったわけではないものの、龍興側はこれに気づくことができず、状況認識の甘さが浮き彫りになってしまいました。

信長はこの一連の戦を通じて斎藤家の出方をうかがっていたと考えられ、中立の意思なく攻撃を加えてきたことから上洛を阻む「リスク」だ認識したのでしょう。表向きは停戦の交渉を進めるように見せかけ、裏では美濃国人の調略など、攻略の準備を進めていたようです。

美濃を追われる

信長は「西美濃三人衆」として国内でも勢力を伸ばす稲葉良通(一鉄)・氏家直元(卜全)・安藤守就に内応の約束を取り付けると、永禄10(1567)年に美濃へと改めて侵攻。彼らが稲葉山城の戦いで大勝すると、龍興は討ち死にこそ避けられたものの国を追われる結果となりました。

ちなみに、江戸時代などでは稲葉山城の落城は永禄7年(1564年)と考えられてきましたが、近年の研究で永禄10年(1567年)というのが定説になっています。

金華山(稲葉山)の頂上に立つ岐阜城(稲葉山城)
金華山(稲葉山)の頂上に立つ岐阜城(稲葉山城)

美濃を追われた龍興は長良川を下って伊勢国の長島へ落ち延びていきました。しかし、彼は忠臣の長井道利とともに諸国を流浪する傍ら、大名返り咲きへの望みを捨てなかったとも伝わっています。

永禄11(1568)年には三好三人衆と結んで信長の上洛阻止に奔走し、元亀元(1570)年には一時京を追われた三好三人衆がふたたび中央に進出してくると彼らと共に行動。本願寺や根来・雑賀衆と結託して後の石山合戦に繋がる籠城戦を展開し、信長を苦しめました。

しかし、一連の戦いでは長井道利が討ち死にし、龍興は越前の朝倉氏のもとへ身を寄せていました。そこへまたもや信長が浅井・朝倉両氏の征伐を目指して侵攻してきます。

天正元年(1573年)、一乗谷城の戦いでは龍興も朝倉方の将として出陣しましたが、朝倉軍が破れたことで信長の追撃をかわしきれず、ついには討ち死にしてしまいました。享年は27歳と伝わっています。

彼の生涯は、一言で言えば「信長に苦しめられ続けた27年」であったといえます。家を滅亡させたことで「無能」「凡愚」という評をされがちな武将でもありますが、

  • 父の代からの懸案が多すぎた
  • 年齢的に政治を取り仕切っていたとは思えない
  • 家臣団の構造に問題があった

という点から、たとえ才覚があったとしてもそれを満足に発揮する場すらも与えられていなかったと考える方が自然でしょう。


【主な参考文献】
  • 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』戎光祥出版、2015年。
  • 木下聡「総論 美濃斎藤氏の系譜と動向」『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏』岩田書院、2016年。
  • 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中央公論新社、2017年。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。