「どうする家康」徳川重臣・石川数正はなぜ家康を裏切ったのか?

 大河ドラマ「どうする家康」第33話は「裏切り者」。小牧・長久手の戦いの終結と、家康の重臣・石川数正が羽柴秀吉のもとに出奔する様が描かれました。天正12年(1584)3月に勃発した小牧・長久手の戦い。徳川方の岡崎城を突こうとした秀吉の軍勢(大将は、秀吉の甥・三好信吉)は、逆に徳川軍に急襲され、池田恒興・森長可を失うという結果となります(4月9日)。

 その後も、尾張・美濃・伊勢国において、両軍の攻防は続きますが、兵力に優る秀吉方が有利な展開になっていました。とは言え、なかなか戦の決着が付かない現状で、秀吉が目を付けたのが『徳川実紀』によると織田信雄(信長次男)でした。秀吉は信雄を「すかし」(機嫌をとり、言う事を聞かせる)て、ついに信雄と和議を結んだというのです。家康は、信雄の要請もあり、秀吉との対決に臨んでいました。

 その信雄が降伏したとあっては、これ以上、頑強に戦うことはないでしょう。家康は浜松に帰還したと『実紀』にあります。続けて、秀吉は浜松にいる家康に使者を派遣してきます。

 秀吉は

「信雄と和平に及んだからには、徳川殿には怨みは何もない。速やかに和平して、末長く、好を結ぼうではないか。よって、徳川殿に上洛を求む」

と家康に使者をもって伝えたのです。しかし、家康からは承知したとの返事はありません。家康の態度を憂慮した秀吉は、信雄を通して、次のようなことを家康に申し入れます。

「徳川殿の御曹司の1人を我が子(養子)としたい。一家の好を結べば、天下大慶であろう」

と。

 家康も悩んだでしょうが「天下のため」と言われたら、拒否する訳にもいかず、次男の於義伊(後の結城秀康)を秀吉のもとに遣るのです。実質的な人質でした(1584年12月12日)。徳川の重臣で、岡崎城代である石川数正の子息(勝千代)も、秀吉のもとに送られました。そして、翌年(1585年)の11月、その数正が、突然、岡崎を抜け出し、大坂の秀吉のもとに走るのです。

 徳川家中は、秀吉への対決姿勢を強めていました。対秀吉強硬派(例えば、酒井忠次・本多忠勝)が幅をきかせていたのです。そうした中にあって、数正は、これまで秀吉のもとに使者として派遣されたこともあり、秀吉の実力をよく知っていました。融和派である数正は、家中で孤立していたと考えられます。よって、数正は長年仕えた主君のもとを去り、秀吉に仕えることにしたのでしょう。

 『三河物語』(江戸時代前期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、この数正出奔を

「天正13年の暮、石川伯耆守(数正)が裏切って、女・子供を連れて、岡崎から退去した」

と表現しています。同書には、数正の裏切りに衝撃を受け、大変なことになるのではないかと焦る大久保一族の姿が描かれています。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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