「摺上原の戦い(1589年)」政宗、宿敵蘆名氏を滅ぼして南奥州の覇者へ!

ろひもと理穂
 2018/01/03

長く縁戚関係にあり、互いに助け合ってきた伊達氏と蘆名氏でしたが、伊達政宗が当主となってからは完全に敵対関係となります。蘆名氏は周辺大名と結託し、伊達氏包囲網を形成しますが、「摺上原(すりあげはら)の戦い」で大敗し、あっさりと滅亡してしまいます。

今回はこの摺上原の戦いの経緯についてお伝えしていきます。

蘆名氏を翻弄した政宗の陽動作戦

蘆名氏を攻める好機到来

ここまで四面楚歌の危機的状態だった伊達氏ですが、耐え忍んだ先の天正17年(1589年)になると大きく展望が開けてきます。

まず2月に大内定綱と弟の片平親綱が再び政宗に従属することを決めました。また、4月には奥州の名家である大崎氏も最上氏の仲介によって伊達氏に従属することを決めます。これだけでも伊達氏への圧力がかなり軽減されました。

しかもこの4月には常陸国で佐竹義重の家臣である小野崎照通が謀反を起こし、佐竹氏から蘆名氏への援軍がしばらく出せなくなります。

当時の蘆名氏の当主は佐竹氏から入嗣した義広でしたから、家臣の多くが佐竹氏を頼りにしていたはずです。佐竹氏からの援軍が期待できないと聞いて、当主を変える話も譜代家臣の中で浮上きたほど蘆名氏家中の足並みは崩れています。

この好機を政宗が見逃すはずがありません。4月22日には米沢城を出発し、4月23日には大森城に到着。いよいよ宿敵である蘆名氏の領土へ侵攻していくのです。

政宗は反転してなぜ相馬氏を攻めたのか

政宗は5月4日、大森城より南の郡山郡安子ヶ島城を攻め落とします。翌日の5月5日にはその南にあたる高玉城も陥落させました。

そのまま進軍して猪苗代湖を西へ進めば蘆名氏の本拠地である黒川城です。佐竹氏の協力を得られない蘆名氏としてはかなり動揺したことでしょう。

しかし、ここで政宗は兵を退き、反転して東の相馬氏の領土へ攻め込みます。黒川城の方角とは真反対です。なぜこのタイミングで政宗は相馬氏の領土に攻め込んだのでしょうか?

政宗は事前に岩城氏の動向を掴んでおり、彼らが蘆名氏などと共に伊達氏に刃向かうことはわかっていました。その岩城氏は相馬氏と結託して田村氏の領土に攻め込んでいます。つまり、相馬氏の領土はこのとき手薄になっていたのです。

相馬義胤も、政宗が蘆名氏攻めの最中にわざわざ反転してくるとは思っていなかったでしょう。これにより5月19日には駒ヶ嶺城、5月21日には新地城を陥落させています。そして新地城を亘理重宗に、駒ヶ嶺城を黒木宗元に、そして丸森城を高野親兼に与え、政宗は大森城へと帰還します。

この状況を見て、蘆名氏としては時間稼ぎができて喜んでいたはずです。蘆名氏と岩城氏は協力し、須賀川で合流。伊達勢が再び侵攻してくるのに備えます。相馬氏を攻めた流れからするとこの辺りが戦場になるだろうと予想したわけです。

これは政宗の陽動作戦でもありました。反転して相馬氏を攻めることで、蘆名氏を東に引っ張り出すことに成功しました。

おそらく蘆名氏側としては、安子ヶ島城より西には猪苗代城があり、伊達勢がこの城を攻めた場合、須賀川にいる連合軍で挟撃できるという計算もあったのだと思います。

しかしこのとき政宗は調略によって黒川城までの道筋をすでに切り拓いていました。猪苗代城主の猪苗代盛国は伊達氏に内応を決めており、この絶妙なタイミングで寝返ったのです。

摺上原の戦いの勝利

伊達勢は磐梯山中腹に布陣

6月1日、伊達勢は二手に分かれて黒川城を目指して出陣します。猪苗代方面には片倉景綱、檜原方面には原田宗時、新田義綱が向かいました。

盛国が寝返ったことで猪苗代城はあっさりと陥落。この報告を聞いた蘆名義広は6月3日には慌てて須賀川から撤退を開始します。政宗の本隊はこのときすでに本宮城に入り、6月4日には猪苗代城に移っています。

義広が黒川城に帰還したのが同じく6月4日ですから、蘆名氏としてはかなり後手に回っている状態でした。

6月5日、伊達勢は猪苗代城の北にある磐梯山に進み、その中腹の八ヶ森に布陣します。それに対して蘆名勢は日橋の北の丘に布陣しました。

『芦名家記』によると、このときの兵力は伊達勢が二万三千。蘆名勢が一万六千と記されています。やはり佐竹氏からの援軍のなかった蘆名方が兵力面でも劣っていたことがわかります。ただし義広は籠城するつもりがなく、あくまでも合戦を行って伊達勢を追い払う覚悟でした。

摺上原の戦いマップ。色塗部分は陸奥国

旗本同士が激突した摺上原の戦い

6月5日深夜2時に動き出した蘆名勢と迎え撃つ伊達勢は、早朝6時に激突しました。その際の伊達勢の陣容は、先陣が猪苗代盛国、二番手に片倉景綱、三番手に伊達成実、四番手に白石宗実、五番手に旗本、六番手に浜田景隆、左手に大内定綱、右手が片平親綱といったものでした。

蘆名勢の先陣の富田隆実が伊達勢の先陣に崩され、蘆名勢は磐梯山ふもとの摺上原に向かい、ここで伊達勢の三番手と四番手の突進を受けています。蘆名勢は旗本が死力を尽くし、この突進を退けました。そして互いに旗本同士の激突になったとき、風向きが西から東に変わり、形勢が逆転するのです。

この戦いの経緯には諸説あり、景綱の軍勢が高台で見物している百姓を追っ払おうとして鉄砲を放ったところ、蘆名勢の二番手の佐瀬河内守と三番手の松本源兵衛が味方の敗走と勘違いして逃げ出し、全軍が総崩れになったという話もあります。

どちらにせよ夕方の4時には勝敗が決しており、盛国が戦の最中に日橋を落としたため、蘆名勢は逃げ場を失い溺死する者が相次ぎ、配下三百騎を含め二千の兵を失いました。義広はなんとか黒川城に帰還できましたが、もはや籠城できる力はなく、6月10日には黒川城を捨てて白河へ逃げ、さらに佐竹氏を頼って落ち延びていきます。

こうして伊達氏の宿敵であった蘆名氏はあっけなく滅んだのです。

まとめ

政宗は6月11日には黒川城に入り、ここを関東侵攻の拠点と定め、母親や正室らを呼び寄せています。蘆名氏を滅ぼした政宗は、会津・大沼・河沼・耶摩の四郡の他、下野国の一部や越後国の一部などもその勢力下におくこととなり、全国でも有数の大大名となりました。

ちなみに摺上原の戦いでの功績を認められて、伊達氏に帰順した猪苗代盛国は五百貫加増、さらに准一家に列せられていますし、大内定綱、片平親綱の兄弟も一族に列せられています。

周辺の大名を敵に回したことで四面楚歌の苦しい立場となっていた伊達氏でしたが、この摺上原の戦いに勝利し、蘆名氏を滅ぼしたことで一気に奥州の覇者へ登り詰めます。

このとき政宗はわずか23歳。この勢いで佐竹氏を滅ぼし、関東にも領土を広げていく野心があったことでしょう。実際にそれが可能であることを、蘆名氏を滅ぼすことで証明してみせたのです。

しかし、天下の形勢はすでに決まったのも同然でした。秀吉という圧倒的な敵を前にして、この後は政宗としても打つ手を失ってしまいます。

もし、この戦いの勝利があと2年早かったら、秀吉による北条討伐の筋書きも大きく変わっていたでしょうし、北条氏と伊達氏の連合軍は秀吉にとって脅威となっていたかもしれません。


【主な参考文献】
  • 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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