「石川数正」家老格の名門出身ながら徳川家を突如出奔?
- 2022/08/29
石川数正(いしかわ かずまさ)は、徳川家随一の家臣ながら突如として家を出奔したことで著名な人物です。石川家は古くから松平氏に仕えた最古参ともいうべき家臣であっただけに、数正の裏切りは今でも語り継がれるものとなっています。
しかし、数正の知名度は出奔の一件が先行し、その出自や生涯についてはそれほど知られていないのではないでしょうか。そこで、この記事では数正の出自を含めた生涯を史料から分析し、出奔に至るまでの歩みを考えていきます。
しかし、数正の知名度は出奔の一件が先行し、その出自や生涯についてはそれほど知られていないのではないでしょうか。そこで、この記事では数正の出自を含めた生涯を史料から分析し、出奔に至るまでの歩みを考えていきます。
【目次】
石川家は松平氏譜代の出自
数正が生まれた石川家は、古くから松平氏に仕える家臣中の家臣とも呼べる存在でした。その出自も古く、源平の戦いで活躍した源義時を祖としています。義時の子どもが河内国(現在の大阪府)石川を領有し、地名から石川姓を名乗りました。その子孫は後に下野国(現在の栃木県)の小山という地を領有してからは小山姓を名乗っていたとされます。しかし、「本願寺中興の祖」とされる蓮如が浄土真宗の普及活動を進める中で、当時家督を継承していた小山政康に三河国(現在の静岡県)での活動を指示。三河国に移り住んだ小山氏は、ふたたび石川姓を名乗るようになったとされています。
また、松平家に仕え始めたのは室町時代後期で、松平家四代目にあたる松平親忠のときとされています。これは親忠に請われてのことであり、仕え始めた当初から家老格の扱いを受けていたようです。この厚遇は代々石川家が継承していくことになります。
安城譜代(= 安城地域を古くから治めている古参)でもあった石川家は、重臣として松平家に貢献し、松平家が今川家への従属を余儀なくされた冬の時代にも忠義を守り続けました。
ちなみに、数正のほかに著名な石川家の人物としては、数正の叔父にあたる家成でしょう。一説に家成は叔父ながら数正と1歳しか変わらない年齢であり、数正同様に家康の家臣として活躍していたとされます。
家康に仕え、外交面で手腕を発揮
数正の生年は定かではありませんが、一説に天文2年(1533年)誕生説があります。若年の事績もほとんどわかっていませんが、天文18年(1549年)に人質として今川家に連れられる幼少の徳川家康に付き従ったといいます。このとき8歳の竹千代にお供した者は数正らわずか7人(いわゆる7人衆)だったといい、数正のほか、酒井正親・内藤正次・阿部重吉・天野康景・野々山元政・阿部元次・平岩親吉などが知られています。
数正は主に外交面で力を発揮した武将としても知られ、永禄5年(1562年)に家康が今川家から独立して明確に敵対関係となった際には、今川氏真と交渉の末に駿府に残していた家康の嫡男・信康と正室・築山殿を取り返すことに成功します。
その前年に家康が織田信長と同盟を結んだ際(いわゆる清州同盟)の従者を務めたという説もあり、徳川家内でも外交手腕が高く評価されていたのでしょう。
三河の一向一揆で忠義を示す
しかし、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が勃発。当時、三河国は禅宗・浄土宗・一向宗などが盛んであったため、家康の家臣の中には一向衆門徒も多くいました。このため、家康家臣団は分裂し、敵味方となって戦うハメとなります。実のところ、石川一族は三河の一向宗門徒の棟梁的な存在だったとされており、実際に宗家当主にあたる父・康正をはじめ、庶流の多くも一揆方に加担しました。しかも康正は小川城に籠城して一揆方の総大将的な人物だったとみられています。
それでも、数正や叔父の石川家成らは忠義を優先し、浄土真宗から松平家の信仰する浄土宗へと改宗することで一揆衆と距離を置き、家康に尽くすのです。
数正、西三河の旗頭へ
しかし、父が一揆に加担した影響により、石川家は叔父の家成の系統が台頭します。事実、家康が三河平定を果たした永禄9年(1566年)頃までに編成された ”三備” の軍制では、東三河の統率=酒井忠次、西三河の統率=家成、という構図になっています。あまり知られていませんが、先の系図でみてもわかるように、家康と家成とは従兄弟関係にありました。叔父の家成の抜擢には、こうした背景があったからかもしれません。
しかし数正にも、転機が訪れます。永禄12年(1569年)に今川氏真の籠もる掛川城を降伏・開城させると、叔父の家成が掛川城主に任命。数正が後釜として西三河の統括を引き継ぐことになります。
以後の数正は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、家康の著名な合戦ではたびたび先鋒を務める活躍を見せました。さらに、天正7年(1579年)には築山殿が暗殺された謎多き築山事件に関連して岡崎城主の松平信康が自害したため、その代役として岡崎城代に任命されています。
家康を震撼させた数正の出奔
こうして家康の家臣筆頭として地位を確立した数正ですが、天正12年(1584年)に勃発した小牧長久手の戦いでは、家康との不和を感じさせる一面も見せたと伝わります。この発端は、戦中に秀吉から和議の申し入れがあり、家康が諸将を集めて意見を求めたことです。このとき、徳川家中で影響力の強かった数正は秀吉からの和議を受け入れるべきだと主張。その理由として秀吉軍の軍勢が自分の倍近いことを指摘しました。しかし、家康は「倍近い軍だからといって恐れる必要などないだろう」と機嫌を悪くし、数正の申し出を受け入れなかったといいます。
この翌天正13年(1585年)、数正は突如として徳川家を出奔。その後は小牧長久手で交渉相手として接触があった秀吉のもとに身を寄せ、豊臣の家臣として生涯を送ることになります。
代々家老として徳川家に仕え、さらに改宗してまで忠義を貫いた家康を簡単に裏切った理由には諸説がありますが、やはり上記の和議に関する意見の相違が大きかったという見方が一般的です。
豊臣政権下での晩年
豊臣家臣としては小田原の落城後に信濃国8万石の領地を与えられ、同時に秀吉から偏諱(名や性を一字与えること)を受けています。数正はこれ以前にも家康から偏諱を受け、「康輝」を名乗っていましたが、このときに名を「吉輝」に改めています。晩年は天下を手中に収める秀吉の家臣として松本城を築城し城下町を整備するなど、後の松本藩に繋がる政治運営に活躍しました。最終的には文禄2年(1593年)に亡くなっています。
数正は秀吉が天下を治めている時勢に亡くなりましたが、関ケ原の戦い以後、徳川の天下になったことは皆さんもご存知のとおり。彼が天下の趨勢を見極めて秀吉の元へと走ったのかは不明ですが、仮にそうだとすれば、その目論見は大きく外れてしまったことになりますね。
裏切り者の数正の子孫たちにお咎めは?
数正の死後、彼の領地は主に子の康長が引き継いでいます。父と異なり、関ケ原が勃発した際には家康率いる東軍に味方したため、所領を安堵され、江戸時代を大名として迎えることになります。しかし、一説では康長の領内統治は苛烈を極めたとも伝わり、特に松本城の普請工事規模は8万石の大名として考えれば莫大なものでもあったようです。
自分たちを裏切った上に力に見合わない工事を進める石川家は、徳川家の立場からすれば我慢のならないものであったかもしれません。それでも、東軍に味方した手前、所領を奪い取る口実もなかったと考えられ、しばらくは大名として君臨することを許されます。
ところが、石川家を没落に導いたのは慶長18年(1613年)の大久保長安事件でした。
大久保長安という人物は大久保忠隣の与力として活躍し、全国の金銀山を支配したことなどから「天下の総代官」とまで称された人物です。しかし晩年は金銀の産出量が減少したことなどから家康に冷遇されるように。加えて生前に不正蓄財をこしらえていたという点が幕府の怒りにふれ、彼の死後息子7人は全員が切腹を命じられます。
不幸なことに石川家は大久保長安家と親戚関係にあり、康長ら数正の息子たちも連座として罪に問われることになりました。最終的に数正の息子たちは全員が切腹を命じられ、石川数正家は断絶するという末路を辿るのです。
この連座については「外様大名を整理したかった」という説や「普請工事を問題視された」という説がありますが、個人的には数正の「恨み」を返されたという見方もできると思います。実際、連座の処分などは厚遇されている人物や家であれば特例で赦されるということも珍しくなく、石川家の出自を考えればお家断絶というのはかなり苛烈な処分でしょう。
したがって、直接的な原因とまでは言い切れませんが、数正は死後に復讐を果たされることになってしまったのです。ある意味、数正が江戸時代を迎える前に亡くなったことは幸運だったといえるのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 二木謙一『徳川家康』(筑摩書房、1998年)
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版、2015年)
- 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(KADOKAWA、2016年)
- 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』(岩田書院、2014年)
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