「防長経略(1555-57年)」毛利元就、かつての主君・大内を滅ぼす

厳島の戦いでは大内氏の事実上のトップであった陶晴賢が自刃。この戦に勝利した毛利元就はその勢いのままに、1年半余の期間をかけて大内氏の周防・長門の二国の経略を行うのです。ちなみに「防長経略」とは周防と長門の一字ずつをとって一連の戦いをそう呼びます。それではその全貌をみていきましょう。

柱を失い、弱体化していった大内氏

かつては毛利元就の主家でもあった大内氏。当主の大内義隆は第一次月山富田城の戦いの後に政治への意欲を失い、天文20年(1551)には重臣の陶晴賢(当時は陶隆房)のクーデターにより、自害に追い込まれます(大寧寺の変)。

その後、晴賢が義隆の猶子であった大内義長を傀儡の当主として擁立し、大内氏の実権を掌握することに。しかし、この晴賢も弘治元年(1555)の厳島の戦いで対立した元就に敗れて自刃。柱を失った大内氏は弱体化していきます。

大内の血縁関係にあるとはいえ、養子でしかない義長はしょせんはヨソ者。大内家臣全体を引っ張っていくだけの力はなく、大内家中で起こる私闘を止めることもできずにいたのです。

元就は大内が弱りに弱ったこのチャンスを見逃さず、厳島の戦いの戦後処理を済ませると、月も変わらないうちに大内攻めを開始します。

防長経略の要所マップ。色が濃い部分は周防と長門国。赤マーカーは元就が攻略していった大内方の城。

玖珂郡の平定

大内陣営の調略

周防に進んだ元就は、まず玖珂郡の平定に乗り出します。まず、蓮華山城(山口県岩国市)主・椙杜隆康(すぎもり/すぎのもりたかやす)があっさりと降伏。また、隣接する鞍掛山城(山口県岩国市)主・杉隆泰(すぎたかやす)も降伏します。

ただ、一度は毛利に降った杉隆泰でしたが、実は大内義長と結んでいたとか。事実かどうかは不明ですが、杉隆泰はもともと椙杜隆康と仲が悪く(おなじ名前なのに……)、椙杜隆康は「杉は大内と通じている」と毛利に訴えます。これにより杉は討たれ、鞍掛山城は以後、隆康が任されることになりました(鞍掛合戦)。

山代一揆の鎮圧

続いて毛利は、折敷畑の戦いにも参加した山代一揆ら一揆勢を鎮圧します。もともと大内氏の下にあった一揆衆は反毛利の立場であり、いかに地下百姓といえども元就も彼らの鎮圧には慎重になる必要がありました。

元就は一揆を分断させる工作から始め、多くの勢力を味方につけます。一部は抵抗しましたが、抵抗勢力が立て籠もった成君寺城陥落で玖珂郡の平定が完了しました。

大友との密約

同じころ、元就は九州の大友氏とも交渉を進めていました。豊後の大友義鎮(よししげ/のちの宗麟)は大内義長の実の兄であり、放っておくと義長の味方として出て来る可能性があったからです。

元就は小寺元武を遣わし、大友氏が旧分国の豊前に兵を入れるのに干渉しない代わりに、毛利の防長侵攻には干渉しないという密約を交わしました。つまりは、大内旧領を分け合おうという約束です。義長は兄に助けを求めましたが、この密約があったため義鎮は動きませんでした。

大友宗麟の肖像画
キリシタン大名としても知られる大友宗麟

須々万沼城の攻防戦

続いて、毛利は須々万沼(すすまぬま/山口県周南市)城を攻めます。この城では城将の山崎興盛と江良賢宣をはじめとする1万余人が籠城していました。その中には周辺の一揆衆やその他生き残りもいたとか。

隆景・隆元らが苦戦

まず、弘治2年(1556)4月初めに小早川隆景の軍勢が攻撃しますが、抵抗にあい退却。続いて4月20日には隆元の本隊が5000の兵を率いて攻撃しますが、これも撤退を余儀なくされます。この城は名前からわかるとおり沼地であり、攻めにくい城だったのです。

元就の指揮で総攻撃

息子たちが数度挑んで落とせなかった城、年が明けて弘治3年(1557)2月、元就が指揮をとり、総攻撃を仕掛けました。元就は沼地を渡るために編竹と薦(こも)を用意し、子らが苦戦した沼地を攻略したのです。さらに毛利軍はこの戦いで初めて鉄砲を用意したことが記録されています。

こうして、3月3日に須々万沼城は陥落。城将の興盛父子は切腹し、江良賢宣は降伏して毛利方につきました。

大内はすでに内部から崩壊

若山城の長房はすでに亡く……

元就は富田若山城(山口県周南市)へ進みますが、ここはあっけなく陥落します。というのも、この城の主・陶長房はすでに亡くなっていたからです。

長房が須々万沼城陥落を知って自刃したという説、陶晴賢に父を殺された杉重輔によって殺されたという説があります。いずれにせよ、大内は内部から崩壊が進んでいました。若山城は3月8日に開城。元就は3月12日には本陣を防府へ移します。

大内義長は且山城(勝山城)へ逃亡

さて、追われる立場の大内義長は、高嶺城(こうのみねじょう)で毛利を待ち構えるつもりでいました。ところが毛利の侵攻は思った以上にはやく、さらに防府を守っていた石田隆量(たかすけ)が毛利に寝返ったため、高嶺城完成前に大内義長、重臣の内藤隆世(たかよ)はあっさりと城を捨てて且山城(山口県下関市)へ逃れます。

海では水軍の戦い

義長は兄の義鎮を頼ろうと下関の且山城までやってきたわけですが、ここはすでに毛利家臣の堀立(ほたて)直正がおさえており、さらに海は小早川隆景と来島の水軍が構えていました。

大内氏の最期

元就は福原貞俊を派遣し、山口を占領。且山城を攻撃します。この城はなかなか落とせず難航しました。そこで元就は、「謀反を起こした陶晴賢に加担した内藤隆世は許すことはできないが、大内義長の一命は助けるので開城するように」と呼びかけました。

これを信じて隆世は4月2日に自刃し、義長は開城。3日には且山城が陥落しました。義長は家臣らとともに長福寺に移りましたが、なんと毛利軍はこの寺を包囲し、義長に自刃を迫ったのです。毛利に騙された義長はしかし成すすべもなく、自刃して果てました。義長の死により、大内氏は滅亡。

辞世の句は、「誘ふとて何か恨まん時来ては嵐のそとに花もこそ散れ」でした。

まとめ

毛利両川体制へ

元就はこの戦が終わると、今後すべては嫡男の隆元に任せると宣言します。大内を討ったことで家中の状況も随分変わり、今が改革のチャンスだと見たのでしょう。

しかし、すでに隆元が家督を譲られ当主となってはいましたが、実権を握っていたのは元就です。それを急に隠居するとは……。隆元は驚き、隠居を思い留まるよう懇願します。それは「このまま隠居するなら自分も幸鶴丸に家督を譲って隠居してやる!」とまで言い始めるほどでした。

結果的には、隆元は父との話し合いによって当主として前向きにやっていく覚悟を決めます。その上で、他家に入った弟の元春、隆景が今以上に毛利のために働くことを条件としました。

すでに元春、隆景は毛利を支える両翼の片鱗を見せていましたが、隆元にとっては「弟たちは養家のことしか考えていない」と映ったようです。

こうして元就は世に知られる「三子教訓状」を三人の子に送り、兄弟間で結束力を高めるよう促しました。

毛利元就 三本の矢の逸話イラスト

以後、毛利家はいよいよ「毛利両川体制」で本格的に運営していくことになるのです。


【参考文献】
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
  • 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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