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  • 武田信玄
 2019/03/28

「上田原の戦い(1548年)」信玄が初めて敗北を喫した屈辱の一戦とは?

上田原古戦場(石久摩神社)の碑
上田原古戦場(石久摩神社)の碑

甲斐武田氏の信濃国を巡る攻防は、信玄の父親である武田信虎の代より、諏訪氏や村上氏と結んで行われていました。

やがて信虎を追放して当主になった信玄は、かつて同盟も結んだ諏訪氏や高遠氏を滅ぼし、順風満帆に信濃国に勢力を拡大していくのですが、そこに立ちはだかったのが北信濃に勢力をもつ天敵・村上義清でした。

信玄が初めて敗北を喫したという、村上との「上田原の戦い」とは、どのようなものだったのか、みていきましょう。
(文=ろひもと 理穂)

強敵・村上義清との衝突

天文10年(1542年)以降、信玄はしきりに信濃国に侵攻を繰り返し、佐久郡制圧を試みていましたが、天文15年(1546年)からは一気に制圧が加速していきます。

同年5月に佐久郡の内山城を陥落させて大井氏を降すと、さらに翌天文16年(1547年)7月には佐久郡の志賀城を攻めました。

志賀城の笠原氏は関東管領の上杉憲政の援助を受けるも、肝心の援軍が小田井原の戦いで大敗を喫し、このときに武田方が討ち取った3000の首級を志賀城の周囲に並べたことで、守兵の士気は大いに低下してしまいます。そして志賀城は陥落し、将兵らは討ち死に、捕虜となった兵は奴隷扱いとなり、女子供は売られたのです。

このような過酷な侵略と処分によって、信玄は佐久郡をほぼ制圧することに成功しました。

北信濃で最大勢力の村上氏

信玄の信濃国での勢力拡大はとても順調に進んでいましたが、佐久郡を制圧したことで、北信濃最大勢力を誇る村上義清の領地と隣接することとなり、両者の激突は避けられないものとなりました。

村上氏は清和源氏の流れを汲む名族であり、鎌倉期には幕府の御家人となり、室町期には本拠地を植科郡の葛尾城に移し、植科郡の他、高井郡、水内郡、更級郡、そして当主が義清の代になると、小県郡にまで勢力を拡大し、海野氏を追い出す勢いでした。

佐久郡と小県郡は隣接しています。勇猛果敢な武田勢に対し、怖気づく豪族が多くいましたが、義清は違いました。義清もまた猛将として知られていたのです。先祖代々の領土を守るため、信玄に降る気などまったくなかったに違いありません。

そして天文17年(1548年)、信玄と義清が最初の激突をします。これが「上田原の戦い」です。

戦いの経緯1:千曲川を挟んでの布陣

1月18日、信玄は諸将らに「信州(信濃国)が思い通りになったら、働きに応じて所領を与える」と約束し、士気を大いに高め、2月1日には5000の軍勢を率い進軍を開始しました。

そして上原城(上田市)で、城代を務める板垣信方や諏訪衆、郡内衆を率いる小山田信有と合流しています。武田勢は8000ほどの大軍となり、そのまま大門峠を越えて小県郡の南に進軍し、千曲川南に布陣しました。

それに対し、義清は本拠地である葛尾城と砥石城の守りを固め、さらに南の上田原まで兵を展開し、防衛ラインを築いています。信玄と義清は千曲川を挟んでにらみ合う状態になったわけです。村上方の軍勢はおよそ5000ほどだったと『甲陽軍鑑』には記されています。

この時、もと小県郡を支配していた海野氏の一族である真田幸綱が進言に先陣を願い出ていますが、信玄は最も信頼していた板垣信方に先陣を任せました。

2月14日には、戦場での経験豊富な板垣信方を先頭に、信玄の実弟である武田信繁、小山田信有らが上田原に進撃し、村上方の守りを突き破っています。

戦いの経緯2:信玄の油断か、板垣信方の油断か

ここまでは武田方の優勢なのですが、守りを突き破った時点で勝鬨をあげた板垣信方は早々と首実検を始めたといいます。義清を討ったわけではないのですが、もはや味方の勝ちは確実と考えたのでしょう。

板垣信方は武田四天王のひとりとして抜群の手柄をあげてきましたが、やや増長していたようです。信玄は事前に板垣信方を諫めるべく和歌を送っています。

ここで油断した板垣信方の隙を突き、村上勢が反撃に転じました。馬に乗る前に板垣信方は討ち死。先陣が乱れたことで、武田方は浮足立ち、本陣にまで攻め込まれます。信玄はこの時二箇所の傷を負ったようです。

武田四天王のひとり、甘利虎泰もまた信玄を守るべく討ち死にしています。『勝山記』によると、さらに初鹿野伝右衛門尉、才間河内守といった名のある武将も討ち死にしており、武田方は700~1200人の戦死者を出して敗れたと伝わっています。

一般的には信玄の驕りによって生んだ敗戦とされていますが、どうやら敗戦の原因は板垣信方の先陣の采配にあったようです。一説には守りを破って、そのまま深入りしたところを討たれたとも伝わっています。

志賀城の一件もあり、緒戦を勝利して打ち破れば、敵は恐れおののき、逃げ出すものと思い込んでいたのかもしれません。しかし、村上勢の士気はこれまでの敵以上に強かったということでしょう。もしかすると義清はその隙を誘う戦略を練っていた可能性もあります。

戦いの経緯3:20日間シハヲ踏む信玄

追撃したい村上勢でしたが、損害は大きく、300~1700人の戦死者を出していました。信玄がすぐに退却していれば勢いで追撃できたかもしれませんが、信玄は退かずに陣を固くし、20日間以上戦場に滞在し続けました。
『甲陽軍鑑』では戦場に留まることを、「シハヲ踏む」と表現しています。

信玄が負けたとなると信濃国一帯で反乱が起きることは目に見えていました。当時は、「合戦の終了時に先に戦場を去った方が負け」という認識だったため、負けを認めたくない信玄は戦場に留まったとも言われています。

その後、信玄の母親である大井の方の説得によって引き上げ、3月5日には上原城に戻りました。そして26日には甲府へ向けて帰国するのです。

まとめ

信玄の予想通りに、上田原の敗戦の報は信濃国一帯に伝わり、信濃国の国衆は、村上氏や小笠原氏を中心にして一斉に反撃に転じました。信濃国攻略の拠点にしていた諏訪郡でも西方衆が反乱を起こしています。

板垣信方や甘利虎泰の戦死もあり、信玄の信濃国制圧は予想以上に手間取ることになってしまいました。もし早々と村上氏を滅ぼし、越後国の上杉氏と対峙していれば、その後の展開も変わっていたでしょうし、信玄の上洛も早まっていたかもしれません。

しかし、常勝の信玄相手に一歩も引かずに戦い続けた村上義清という人物の闘争心や戦略は、高く評価すべきではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書、1997年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)





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