戦国大名の中で最強の呼び声も高い甲斐の虎こと「武田信玄」は、信濃国平定において2度の敗北を喫しています。しかも相手はどちらも同じ北信濃の戦国大名「村上義清」です。
二度目の大敗の際は、影武者を身代わりにして、信玄自身も命からがら上原城に撤退しています。なぜ、信玄はここまで苦戦することになったのでしょうか?
今回は、信玄2度目の敗北となる「砥石崩れ」についてお伝えしていきます。
武田信玄が信濃侵略において、村上義清に1度目の敗北を喫したのは天文17年(1548年)2月の上田原の戦いです。この大敗によって信濃国では武田氏に従属していた家臣の離反など、反乱が起こります。
しかし、信玄は同7月には諏訪郡に侵攻してきた信濃国守護・小笠原長時を塩尻峠の戦いで打ち破るなど、再び信濃での形勢を有利に進め、その勢いで小笠原氏の領土である筑摩郡、安曇郡攻略に取り掛かります。
塩尻峠に布陣した際に長時と仲たがいをしていた仁科氏に対して、信玄は巧みに調略を行い、天文19年(1550年)4月頃には仁科盛康、盛政親子を帰属させることに成功。これにより安曇郡の一部を切り崩すと、7月には甲府を出発し、長時の拠点である林城攻略のため、村井城に入りました。
7月15日夕方に小笠原方の出城である乾城を陥落させたところ、その深夜には林城を含めた5城の城兵が戦うことなく逃亡。島立、浅間の2城は降参したため、武田勢は戦うことすらなく、小笠原氏の本拠地を占領しました(『高臼斎記』)。さらにこのとき、安曇郡の森城城主である仁科道外が信玄に帰属しています。
信玄は林城を破却。その支城であった深志城(のちの松本城)を改築し、ここを筑摩郡と安曇郡制圧の新しい拠点と決めたのです。
19日には鍬立式を行ない、23日には総普請を開始しました。城代には譜代家老衆の馬場信春が選ばれています。
ところでなぜ信玄は戦いもせずに、小笠原氏の本拠をあっさりと占領できたのでしょうか?
それは小笠原の家臣団の統制がとれておらず、多くの小笠原家臣が寝返ったことに起因します。武田軍は寄親・寄子制を採用して主従関係が安定していましたが、小笠原軍はそうした組織制度がなく、小笠原氏と他の諸豪族との結びつきも弱かったようです。
武田軍の勝利は、敵の弱点を巧みにつけ狙い、事前に得意の調略などを行なっていた結果の勝利といえるでしょう。ちなみに小笠原長時は逃亡して安曇郡の平瀬城に入りますが、のちに武田勢の侵攻を受けて没落していくことになります。
信濃国中南部を制圧した信玄にとって、最後の障害は東部、北部に勢力を持つ村上義清だけでした。
武田勢が小笠原勢と争っている間、どうやら一時的に信玄は義清と和睦を結んでいたようです。信玄が筑摩郡、安曇郡を制圧するのに対し、義清は中野城に拠点を持つ高梨政頼と戦っています。
村上氏と高梨氏は高井郡、水内郡の領土を巡って長く対立していました。義清としては、自国の統治を固めてから、信玄と戦う予定だったのかもしれません。おそらく信玄の筑摩郡、安曇郡制圧にはもう少し時間がかかると予想していたのでしょう。
しかし、長時があまりにもあっさりと倒されてしまったことで、村上氏の本領に隙ができてしまいます。信玄は当然のようにこの好機を逃すはずがありませんでした。村上氏の領土の最前線の出城である小県郡の「砥石城」攻略を目論みます。
信玄は筑摩郡、安曇郡に侵攻している間にも、小県郡出身の真田幸綱(幸隆)に命じて村上方の家臣の引き抜き工作を始めていました。信玄得意の戦う前の事前調略です。成果はあり、寺尾城の清野清寿軒や須田城の須田信頼らが武田方に帰順しました。
このように、上田原の戦いのリベンジの機会はすぐ目の前に迫っていたのです。信玄としても雪辱を果たすべく、いつも以上に気合が入っていたのではないでしょうか。
『高臼斎記』をもとに武田軍の動きと戦いの経過について確認してみましょう。
本格的な攻城戦が始まっておよそ20日後に信玄は撤退を決めています。武田勢は7千ほどの兵力でしたが、撤退時の10月1日には村上勢の激しい追撃を受け、殿軍の1千余人が討死する甚大な損害を受けました。足軽大将の横田高松、郡内衆の渡辺出雲守らが討ち取られています。
この大敗は「砥石崩れ」と呼ばれ、信玄の大失策として後世に語り継がれていきました。(『甲陽軍艦』)
武田勢が7000に対し、砥石城を守る兵力は500ほどでした。なぜ信玄は砥石城を落とせず、撤退時に大きな損害を受けることになったのでしょうか?
砥石城は上田市街の北東約4kmにあり、東西が崖という要害堅固な山城でした。攻め口は南西の崖しかなく、砥石のようになっていたと伝わっています。さらに村上勢は寡兵ながら士気は高く、登ってくる武田勢に対し石を落としたり、煮え湯を浴びせるなどして対抗しました。
力攻めで陥落させるのが難しい城だったのです。しかも高梨勢と戦っていた義清が、和睦を成立させ、主力2000を率いて迫っていました。武田勢は村上勢の挟撃を受ける態勢になってしまったのです。この危機に対し、信玄は撤退を選択したと考えられます。
おそらく砥石城のような小さな出城などすぐに陥落させられると信玄は考えていたはずです。実際にこの砥石城を落とせば、村上勢は戦線を後退させなければならなくなり、信玄はその後の展開を有利に運ぶことができました。
しかし、砥石城の城兵は信玄の予想を上回る粘りを見せました。ここが誤算だったのでしょう。これは天文16年(1547年)に武田勢が佐久郡志賀城を攻めた際に、滅びた笠原氏の家臣の残党が多く混じっていたためだと言います。籠城した者たちを奴隷として売り払うなど過酷な処分をしたために、武田方に激しい憎悪を持っていたのです。
信濃国の国人の意地を見せ、信玄を撃退した難攻不落の砥石城でしたが、天文20年(1551年)、真田幸綱の調略によって、あっさりと陥落しました。足軽大将を務めていた矢沢頼綱(幸綱の弟)が内応したためだと伝わっています。
砥石城が陥落したことによって村上勢の勢いは一気に低下し、義清は信濃国から落ち延びていきます。落ち延びた先は越後国の戦国大名である長尾景虎(上杉謙信)でした。そしてここから信玄と謙信が激突する川中島の戦いが幕を開けるのです。
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