「大内義隆」西国の覇者として全盛期を迎えるも、家臣のクーデターで滅亡へ。
- 2019/08/23
毛利元就が中国一の大大名になる以前、中国を支配していたのは山口の大内氏、そして山陰の尼子氏の二氏でした。とくに大内氏は古くから山口に根をおろしていた名門であり、大内義隆(おおうち よしたか)の時代には全盛期を迎えます。政治も比較的安定し、文化も華開いた義隆の時代。しかし、かつての寵臣によって滅ぼされることになるのです。
【目次】
名門・大内氏の生まれ
大内義隆は永正4年(1507)、代々周防・長門その他数か国を治める守護大名の一族に生まれました。大内と権力を二分した中国地方の戦国大名・尼子経久はもともと守護代の家系で下剋上により成り上がり、次いで台頭する毛利元就はもともと安芸の国人領主。彼らに比べると、大内義隆はまさに名門中の名門の家柄だったといえるでしょう。
先祖は百済系の渡来人
大内氏のルーツをたどると、武将としてはめずらしく先祖は渡来人であると自称しています。『大内多々良氏譜牒』などの書物によると、大内氏の先祖は百済の聖明王の第三子・琳聖太子(りんしょうたいし)とされています。琳聖太子は推古天皇19年(611)、百済から周防国佐波郡多々良浜に入り、聖徳太子に謁見して「多々良(たたら)」姓を賜り、周防の大内県(おおうちあがた)を賜ったとされています。そしてやがて大内を名乗るようになったとか。
南北朝期に守護となった名門一族の嫡男として
以来、在庁官人として代々続いていたとされていますが、平安末ごろ平家滅亡に功績があった大内氏は鎌倉幕府により代々周防権介に任じられ、南北朝時代に入ると周防守護職に。このころから大内氏は防長二か国を手中におさめ、勢力をのばし始めます。義隆の祖父、政弘の時代には周防・長門・石見・安芸の中国はじめ、豊前・筑前といった北九州の地域を支配するまでに成長していました。
これだけ巨大になった大内氏は代替わりの度に御家騒動がありましたが、義隆の時代には比較的落ち着いていました。というのも、代々そういうことがあったおかげか、義隆は後継者として大事に大事に育てられたのです。
義隆の幼名は「亀童丸(きどうまる)」といいましたが、これは歴代当主も名乗った幼名。義隆が幼いころから嫡子として大切にされていたことがうかがえます。元服の際、将軍・足利義晴の「義」の字を賜り、義隆と名乗ります。
義隆幼少当時の情勢は?
ちなみに義隆の幼少期における中央の細川政権はまさにカオス状態でした。管領の細川政元暗殺をきっかけに細川高国派と澄元派の2つの勢力が覇権争い(いわゆる永正の錯乱)を繰り広げ、そこに将軍職を巡る争いも加わっていたのです。前将軍の足利義尹はこの混乱に乗じて上洛し、晴れて将軍復帰(足利義稙と改名)を果たしていますが、実は彼を擁立して上洛のために軍勢を出したのが父の義興でした。
義興は高国派として細川の覇権争いに巻き込まれ、なかなか山口に帰国できなかったようですが、やがて尼子経久の侵攻に脅かされ、永正15年(1518)に帰国しています。
全盛期を迎えた義隆時代
少弐氏を滅ぼし北九州を平定
義隆が家督相続をする直前、大内氏は明との貿易の独占権を得て、優位に立ちます。享禄元年(1528)に父義興が亡くなると、22歳の義隆は家督を相続。重臣・陶興房に支えられながら着実に勢力を拡大していきます。まず力を入れたのが北九州の平定です。北九州を支配する大友氏や少弐氏らとの争いが数年にわたって続きました。もともと大宰少弐を世襲していた少弐氏は、大内氏が筑前守護となって以来、奪還を狙っていたのです。大友氏も、鎌倉以来の名門。大内が北九州へ進出してからというもの、幾度も争いと和睦を繰り返してきたという経緯がありました。
義隆は手っ取り早く大宰大弐の官職を得て平定しようと考えますが、一度は失敗。天文5年(1536)にようやく大宰大弐となり、少弐を滅ぼします。以後も北九州での大友との戦いは続きますが、長引くことを憂えた室町幕府が調停に入り、天文7年(1538)に大友氏と和睦しました。
もともと大内氏は明や朝鮮との貿易は行っていましたが、他国との貿易の玄関口である北九州を得た義隆は、天文8年(1539)から独占的に遣明船を派遣するなど、貿易面でも物を言わせます。
尼子氏にも勝利
西の大友・少弐氏はもちろん、東では尼子と対立していた義隆。中国の覇権を争って尼子とはライバル関係にありました。両者のはざまにあった毛利元就は、このころ尼子から大内へ鞍替えしています。嫡男の隆元を義隆のもとへ人質に出しており、また義隆自身元就を気に入っていたため好待遇で迎えたといいます。元就の離反を快く思わなかった尼子詮久は天文9年(1540)に元就討伐のため安芸へ遠征。義隆が九州方面に注力していた隙を狙って元就の居城・吉田郡山城を攻めますが、元就はなんとか持ちこたえ、義隆が援軍に送った陶隆房も加わったことで尼子軍を追い込みます。(吉田郡山城の戦い)
この戦いにより、周辺の国人領主たちのなかで尼子から大内へ移る者が多数いました。
後継者を失い、軍事への関心をなくす
尼子に勝利した大内家中では、「打倒尼子」の声が強まります。義隆自身も吉田郡山城の戦いで尼子詮久を追い詰めることができなかったことを悔いており、この好機に出雲へ出陣して尼子を滅ぼそう、という陶隆房の主戦論に耳を傾けました。文治派であった家臣の相良武任(さがらたけとう)は「今出陣すべきではない、尼子と同様に失敗する可能性が高い」と反対しますが、義隆は武断派の中心であった陶隆房を買っていたこともあり、出陣は決定します。
第一次月山富田城の戦いで嫡男・晴持が戦死
ところが、天文11年(1542)の出雲遠征は失敗に終わりました。尼子詮久の居城である月山富田城を狙いますが、屈指の名城はなかなか落ちず……配下に加わっていた国人領主たちが尼子に寝返り、ついには敗走を余儀なくされます。義隆は追ってから命からがら逃げのびますが、嫡男の晴持の乗った船は転覆して亡くなりました。晴持は養子でしたが、容貌うつくしく義隆同様に和歌や管弦といった文化面の才能に秀でていた晴持は、義隆にとても可愛がられていました。大切に育てていた後継者を喪った義隆は、敗北もあいまって意気消沈。
武断から文治へ……さらに遊興にふける
それ以来、義隆は政治への関心を失います。武断派の陶隆房らを重用していましたが、敗北以降は文治派の相良武任らを重用するように。おまけに都からやってきた公家たちと遊興にふけるようになり……義隆の振る舞いに家臣たちは不安・不満を抱くようになるのでした。公家とのつながり・雅な文化を好む家風
さて、ここで少し大内家の家風について触れてみましょう。義隆は雅な公家文化を好み、それが陶隆房のクーデターにつながったといわれていますね。そもそも義隆が和歌や連歌、催馬楽、今様、管弦といった京文化を摂取したのは、大内氏の血筋によるところが大きかったように思われます。
武家社会でも文化人として活躍した武将は細川藤孝をはじめ多数存在し、茶の湯や連歌などは武家のたしなみとして取り入れられていましたが、そんななかでも大内家の京文化好みは群を抜いていました。
義隆自身は上洛の機会がありませんでしたが、それ以前の当主たちは在京期間も長く、京の文化に触れる機会が多かったのです。また、歴代当主の多くは公家の娘を室に迎えるなど、当主の血筋には公家の血も流れていたのです。
義隆の妻妾も公家出身
義隆の生母は公家の出ではありませんでしたが、正室は公家の娘・貞子でした。父は万里小路秀房で、内大臣正二位。貞子は15歳のときに義隆の正室となりますが、天文18年(1549)には離縁して帰京しています。気位の高い賢夫人だったようですが、そういうところが義隆は気に入らなかったのか……貞子に仕えた「おさいの方」ばかりを寵愛したため、プライドが傷つけられ離縁したのかもしれません。義隆にはおさいの方のほか数人の妻妾がいたとされていますが、公家の女性を好んだのか、最も寵愛されたのはおさいの方だったようです。
「末世の道者」とたたえられた文化人・義隆
義隆は儒学や漢学などの学問をはじめ、和歌、連歌、神道、有職故実、芸能などあらゆる文化に明るい人物で、とくに仏教に関しては多数の寺社を保護したことから「末世の道者」と呼ばれました。学問やあらゆる文化に通じる
とくに力を入れていたと思われるのが学問です。大内氏は古くから朝鮮との交流があり、四書五経の古註(古い注釈書)を取り寄せるなど、熱心に儒教を学びました。また、父・義興が天皇から『古今集』を下賜される、連歌師の宗碩(そうせき/宗祇の弟子)から古今伝授を受けるなど、和歌や連歌に関しての興味は父譲りのところもあったのでしょう。
西の京・山口を整える
義隆自身は尼子氏に邪魔され上洛することは叶いませんでしたが、京の公家たちとの交流は多かったようです。というのも、この時代は応仁の乱で都がめちゃくちゃになっていた時代。多くの公家は荒れ果てた都から逃げ出し、地方に滞在しました。各地に「小京都」があるのもこの時代の名残だといわれています。
そもそも山口は京都に地形が似ていたのだとか。それを義隆の数代前の弘世が気に入り、京風の街づくりを進めたとされています。京都から人を呼び寄せて街を整えるという徹底ぶりだったとか。そういうわけで、京都を意識して作られた西の京には、多くの公家・文化人たちが集まってきたのです。有名な画僧の雪舟も訪れたといわれています。
義隆の時代には山口の町は2万戸にもなり、西国随一の都市に発展していました。義隆は築山御殿で公卿たちと交流を深め、連歌や管弦を学び彼らと遊び耽ったのです。
このころ、宣教師のフランシスコ・ザビエルも山口を訪れていました。彼から義隆のことを聞いたらしいルイス・フロイスは、義隆を「当時の日本の最も有力な王」と称しています。
天文17年(1548)には、当時の武家としては最高位の従二位となっており、権力・財力・文化、どれをとっても当時トップクラスの大名であったことがわかります。
陶隆房らが謀反!大寧寺での最期
ただ、山口で文化が発展していく一方、それを快く思わない人々もいました。その筆頭が武断派の守護代・陶隆房です。隆房といえばもともとは義隆の寵童であり、男色関係にあった愛人なのですが、主家を思うゆえの行動だったのか……(義隆はザビエルに面会した際、男色をののしられたことに怒り追い返したというエピソードが残っています)。
陶隆房のクーデター
隆房らは義隆が文治に傾き、さらに公家たちと遊びまわり政治をおろそかにする姿に不安を抱きました。不安を感じる程度ならまだよかったのですが、義隆が公家たちをもてなし知行まで与えたことで、領民たちが苦しめられるようになったのが問題でした。大内の家臣、とくに守護代の陶隆房らは領主的側面もあり、重くなる税に見て見ぬふりはできなくなっていました。隆房の野心は杉重矩らに早い段階で気づかれており、再三義隆に対処するよう訴えていましたが、義隆は大した措置をとらず……。
結果、もともと隆房と対立していた杉重矩や内藤興盛らも反乱軍に加わり、天文20年(1551)8月28日にクーデターは起こります。反乱軍が押し寄せたため義隆は逃れて九州へ渡ろうとしますがかなわず、長門の大寧寺に逃げ込みます。
義隆は大寧寺で自刃
義隆は家臣らを信じていたようですが、すでに遅く……。義隆はほら貝を吹いて兵を呼びますが、それに応えたものはひとりもいませんでした。追い詰められた義隆は大寧寺で反乱軍に取り囲まれ、9月1日に冷泉隆豊の介錯で自刃して果てました。享年45歳。
『多々良記』や『陰徳太平記』によれば、辞世の句は
「討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)」
だとされています。ただ真偽は不明で、討った陶隆房のその後を知る後世の作ではないかともいわれています。
大内家当主の血筋は途絶え、滅亡に向かう
義隆を討った隆房らは、実子の大内義尊も殺害しました。これにより大内の正当な血筋は途絶え、事実上大内氏は滅亡。このあと隆房は義隆の養子の義長(大友義鎮の弟)を当主に据え、義長の元の名「晴英」から一字もらって「陶晴賢」と改名します。その後は傀儡の当主を担いで晴賢が大内を実質的に支配し、毛利元就との戦いを経て間もなく滅亡に向かうことになるのです。
【主な参考文献】
- 米原正義編『大内義隆のすべて』(新人物往来社、1988年)
- 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
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