前田利家ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る
- 2023/06/16
そんな大河ドラマでも主役となった前田利家とはどんな人物なのでしょうか。豊臣秀吉の親友で、信長の忠臣として働いた人物というイメージの方が多いのではないでしょうか。しかし、その人柄は年齢によって大きく変わります。若年の頃は「かぶきもの」と称される変わり者でしたが、晩年は秀吉政権の五大老の1人として、徳川家康の勢力拡大を防ぐ政権の重石の役割を任されていたとされています。
そこで今回は、そんな前田利家という人物について、彼の発言や逸話を基に解き明かしていきたいと思います。
元服から信長の上京
天文7年(1539)に荒子城主・前田利昌の四男として生まれたといわれています。これだけ有名な人物ながら『三州誌』の天文5年(1536)説など、生年については諸説あるそうです。菅原道真の子孫を自称していますが、美濃国前田村(現在の岐阜県神戸町)の住人が祖先ではないかと言われています。利家は元服前、まだ名前が犬千代だった頃に天文21年(1552)の萱津合戦で初陣(初めての戦)を務めます。この際、利家は自分の身長より長く派手な色の槍を持参して合戦に参加しました。初陣でまだ13歳という年齢ながら目立とうとしたその姿勢に、信長はこう言って称賛したと言われています。
「肝に毛が生えておるわ」『亜相公御夜話』
武勇についてはこの頃から評判が良かったのですが、永禄2年(1559)に信長お気に入りの拾阿弥という同朋衆(茶坊主)を殺害し、出仕停止となり収入を失ってしまいます。前年に妻であるまつと結婚しており、この頃は妊娠中でした。そのため利家は信長に許してもらうために自腹で永禄3年(1560)の桶狭間の戦いや森部の戦いに参加して戦功をあげ、なんとか許してもらうことになるのです。
この頃の経験から、利家は金勘定に細かい性格になっていきました。当時まだ普及していなかった算盤を愛用し、よくこう言っていたそうです。
「ともかく金を持てば、人も世の中もおそろしく思わぬものだ。逆に一文なしになれば、世の中もおそろしいものである」『亜相公御夜話』
また、出仕停止となった結果、それまで仲の良かった織田家臣のほとんどと縁が切れてしまったと言います。数少ない残った上司が柴田勝家、友人が秀吉だったと言われ、以後も彼らの関係は常に良好だったと伝わっています。妻のまつと秀吉の妻であるねねも仲が良かったそうで、利家は後年こう言っていたと伝わっています。
「ともかく人間は、浪人となった時、助けてくれる者は稀であると言える」『亜相公御夜話』
また、後に外様大名となった前田氏では、次のような家訓が受け継がれています。これは前田利家の晩年に作られたと伝えられています。金勘定もしていた利家が、槍働きだけの武士に意味はないと考えていたことがよくわかるものです。
「武道ばかりを本とする事は役に立たない。文武両道の侍になるようによくものを見て聞くこと」『日本教育文庫 家訓篇』
余談ですが、利家とまつが婚儀を行った時、まつの年齢は満11歳。第1子も11歳11カ月で誕生しています。まつは11人の子どもを産んでおり、夫婦円満という大河ドラマ像は本当だったと見てよさそうです。ただし、風評被害的に「利家は小児性愛者」という一面を切り取った見方も一部でされることがあります。実際は11人も子どもが生まれるまで愛し続けたわけですから、単純に2人の仲がずっと良かったというだけのことでしょう。
前田利家は長く「赤母衣衆」と呼ばれる親衛隊の一員として活躍しました。信長はこの母衣衆と呼ばれる親衛隊を重視していたため、永禄8年(1565)に兄の前田利久の妻が早世した際に信長の命で家督を継ぐことになりました。利久は前田慶次郎を養子にして家督を継がせようとしましたが、信長はこれを許さなかったと言います。このときの経験から、利家は家督相続で揉める状況をつくらないことを重要視しています。
死の間際に利家は、嫡男の利長が早世した場合、弟の利政に後を継がせるよう家臣に伝えています。何があっても家を継ぐ人間が明確なようにしていたのは、この時の経験があったからだと言えるでしょう。
信長が足利義昭を奉じて京に入った際もその側にいました。その後、信長包囲網の一角である朝倉氏を滅ぼした後、天正3年(1575)に利家は旧朝倉領の府中の領主となることが決まりました。
府中時代から本能寺の変まで
信長の命により北陸方面軍の一翼を担うことになった利家は、北陸方面軍の総指揮を担う柴田勝家と良好な関係を築きます。一方、同じ北陸方面軍の中で仲が悪かったのが佐々成政でした。理由はかつて斬った拾阿弥と佐々成政の仲が良かったからです。そのため、利家と勝家の2人は、仲の悪かった佐々成政がいる宴会において、彼をおちょくるような話をしています。利家:「勝家様は家来も多く先陣で何度も勝利しましたが、端武者(雑兵)のごとく度々槍をふるった回数は今の世で並ぶ者はいないでしょう」
勝家:「世間では二、三度手柄をあげる者は多いが、心が荒々しくても合戦がないと活躍できない。今は武勇を示したければいくらでも機会がある。俺や利家は信長公にも同僚にも恥ずかしくないぞ」
『亜相公御夜話』(一部省略)
この話は佐々成政への当てつけだろうと言われており、この話を何度もした利家と勝家に佐々は涙を流し、何も話さなかったと伝わっています。利家と佐々はこの後、秀吉が佐々に切腹を命じるまで険悪な状態は変わらなかったと言われています。
合戦に対する利家のこだわりは強く、合戦に関わる名言を多く遺しています。息子の前田利長や義理の甥である前田慶次郎に戦いとはどうすべきかを語ったものとして、次のような言葉を遺しています。
「合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった」『亜相公御夜話』
信長の親衛隊として活動していた利家は、信長の戦い方を間近で見ていました。そのため、信長の戦に対する考え方が強く反映されていることが感じられます。
「(息子の利長と利政の兄弟に対し)先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす」『亜相公御夜話』
信長は自身の信頼する親衛隊である母衣衆を戦場で巧みに利用しました。金で集めた兵だけでなく軍団の核となる親衛隊を自ら率いて戦ったため、利家もそうした戦い方を第一と考えていたのでしょう。
「戦場に出ては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し」『亜相公御夜話』
こうした話は柴田勝家の影響があると見られます。自分の戦い方に自信をもっていた勝家と長年ともに戦っていた利家は、勝家の考え方も自分に取り入れていたと考えられます。
前田利家はこの後、柴田勝家とともに北陸方面軍の主力となり、上杉謙信やその後継者の上杉景勝と戦い続けました。しかし天正10(1582)年の本能寺の変でその運命は大きく変わることになります。
織田家中での覇権争いにおいて、明智光秀を討った秀吉と家臣団筆頭格だった柴田勝家が対立。利家は当初は柴田勝家の下にいたため、そのまま勝家に味方していましたが、天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いの最中、戦場から離脱して勝敗に大きな影響を与えました。その後、秀吉に降伏した利家は、秀吉の家臣として戦場で活躍していきます。
秀吉の家臣となって五大老へ
利家は秀吉との昔からの友情もあって信頼されていました。そのため、76万5千石という大領主となり、北陸方面の重鎮になりました。秀吉が関白に任命された後も強く信頼され、九州征伐に秀吉が出発した際は畿内の留守を任されています。朝鮮出兵の準備も家康と利家が主体となって進めており、秀吉にとって利家が重要な立場だったことがわかります。秀吉の信頼が高かった証と言えるのが、後に「天下五剣」と呼ばれる大典太光世を秀吉から譲り受けていることです。秀吉は自身の箔付けも兼ねて名刀を収集していました。天下人の刀(足利義輝から足利義昭に受け継がれていた)と呼ばれた童子切安綱も足利義昭から譲り受け、武士としても自身が天下を治める立場だと示しています。そんな秀吉が保有していた名刀の1本が大典太光世でした。
この大典太光世は秀吉から利家に譲られています。こちらも足利義昭が保有していた刀であり、秀吉にとって自身の権威付けにぴったりの名刀でした。しかし、利家はそれを譲り受けていたわけです。この一事だけでも、両者の信頼関係の深さが感じられます。この名刀が譲られた理由に、利家が伏見城の悪霊を退治した説と、娘の豪姫の病を治すためだったという説があります。
文禄4(1595)年、利家の娘で3歳の頃に秀吉の養女となっていた豪姫が病にかかります。病の様子が異常で『狐憑き』という錯乱状態が疑われたため、秀吉は利家に大典太光世を貸したと言われています。豪姫の枕元にこの大典太光世を置くと、豪姫の病状は改善したと言われています。そのため秀吉はそのまま利家に大典太光世を譲ったというものです。
また、もう1つの説は、伏見城の霊に臆さなかったため褒美として与えたというものです。伏見城を建築した文禄元(1592)年以後、秀吉の傍で夜に番をしていた加藤清正と黒田長政が何か霊のような者に出会うという話をしていました。これを利家は笑いながらこう言いました。
「そんなことがあるとは納得できない。そんなことがあるものか。臆しているからではないか」『享保名物帳』
加藤清正は自分の扇を渡して霊が出る廊下で夜を過ごしてほしいと言います。その証拠に廊下に扇を置いてきて欲しいと。利家はその夜霊が出るという一帯で一夜を過ごしました。見事一晩を過ごしたその豪胆さに、秀吉は大喜びで大典太光世を与えたという話です。
異説として、秀吉は一晩を過ごす利家のために大典太光世を貸し、一夜が明けた後にそのまま与えたという説もあります。いずれにせよ、利家が50歳を過ぎても昔と変わらない勇猛さを備えていたのは事実でしょう。
秀吉は息子の秀頼についても利家に後見人を任せると発言しており、家族以外で誰よりも信頼していたことが推測されます。利家も秀吉の思いに応えて、秀吉亡き後の秀頼を支えていました。五大老では家康に並ぶ実力者として秀頼を守ることを第一と考えており、伊達政宗の娘と家康の息子の婚約という法度破りで諸大名が集まった際、嫡男の利長にこう語っています。
「秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている。儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ」『浅野家文書』
結局この話し合いは細川忠興・浅野幸長の仲介で和解し、五大老・五奉行で誓紙(約束を記した文)を交わして揉め事を収めました。利家はこの後長く持たずに慶長4(1599)年に病死し、家康を止める人はいなくなってしまいます。その結果、対立の深まった石田三成と家康は関ケ原の戦いへと突き進んでいくことになりました。
誓紙を結んだものの、家康は自分の勢力拡大を狙って活動を継続していました。しかし、これを止める手段が限られていた利家は、自分の衰えていく中でこのように家臣に語ったと言われています。
「見ぬ世の末の変わりゆく有様をつらつらと思いつくれば胸苦しい」『両亜相公遺誡』
秀吉がつくりあげた政権が揺らぐのを理解しながら、その巧妙さに手が出せないことにもどかしさを感じていた当時の利家の思いを感じられる一言になります。
利家は死の間際、息子の利長にいくつかの遺言をしています。その内容は戦上手で知られた人物ながら、戦に関わる遺言はほぼありませんでした。
「貸した相手に催促はせず、返せないようなら借金をなかったことにするように」『両亜相公遺誡』
これは、秀吉の新城築城(本拠地の大坂城・朝鮮出兵の前線基地である名護屋城)や朝鮮出兵で金銭的に苦しい思いをした各地の大名に、利家は多くの資金を貸していたことが関係しています。その取り立てについて遺した言葉になります。利家はお金で苦労した分、周囲で金に困る者に手を差し伸べていたことがわかります。家臣にも資金を貸しており、周囲が金に困らないようにしようとしていたようです。
「人には出来不出来はあるものにて候」『両亜相公遺誡』
家臣の中には優秀な者とそうでない者がいる。それを理解して家臣団を統制せよという利長への遺言になります。
「御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ」『亜相公御夜話』
この言葉とともに、様々な書類に自ら署名をして後で問題が起きないようにしたと伝わっています。また、自分が使用していた鎧の下に着る鎖帷子については、息子の利長に受け継がせるためこう伝えていたといいます。
「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」
また、利家は自身の死によって大きく情勢が動くことを予感していました。そのため、利長にこう言葉をかけています。
「三年加賀に戻らずともよい。その間に何とか決着がつくであろう」『亜相公御夜話』
事実、亡くなった翌年である慶長5(1600)年に関ケ原の戦いが発生しています。利家は自分が秀吉亡き後の微妙なバランスを保っていたことを自覚していたのでしょう。そんな自分が死ねば何かが起こることも理解し、嫡男である利長にはその時流から置いて行かれないように大坂滞在を継続するよう遺言したのです。
しかし、利長は家康との関係悪化などもあって関ケ原の戦い前に加賀に戻り、中央の激変に大きく関わることはありませんでした。関ケ原の戦いで東軍に味方したために戦後前田氏は100万石の大名となりますが、秀頼を守るという利家の願いはその後の豊臣氏の滅亡で叶うことはありませんでした。
おわりに
前田利家の人物像を逸話や言動からまとめてきました。合戦で活躍することで出世した人物らしく、戦場での動き方などに確かな考え方があるのがわかる言動が多い印象ですね。また、若い頃に苦労した分、お金についても当時の武士らしくない考え方を持っていたことが特徴的だと言えるでしょう。
また、自身が家督争いに巻き込まれたこともあり、死の直前に書類の整理や遺言を明確に伝えていることも特徴的です。秀吉との友情を大事にしていたため、その子である秀頼を守ろうとしていました。最終的に利家の死が秀頼を守る道を閉ざしたような状況を考えると、利家が家康と同い年まで生きていれば秀頼も元服まで無事成長し、歴史が変わっていたかもしれないと考えてしまいます。
前田利家について、織田信長は若い頃よく寝所に呼んでいたことが知られています。衆道と呼ばれる男色の一種だと考えられる場合もありますが、寝ずの番をさせていたと見る研究者が多いようです。信長に信頼されていたことと幼名が犬千代だったことを考えると、「忠犬」に番をさせることで敵の多い中でも安心して夜を過ごしていたのかもしれません。
【主な参考文献】
- 『日本教育文庫 家訓篇』(同文館、1910年)
- 岩沢愿彦『人物叢書 前田利家』(吉川弘文館、1966年)
- 西ヶ谷恭弘『前田利家 北陸の覇者』(JTB、2002年)
- 羽皐隠史『詳註刀剣名物帳』(嵩山堂、1917年)
- 日置謙『御夜話集』(石川県図書館協会、1933年)
- 村井勘十郎『亜相公御夜話』(国史研究会、1916年)
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