「前田利家」加賀百万石の祖は意外にも武勇だけの武将ではなかった!

前田利家のイラスト
前田利家のイラスト
前田利家(まえだ としいえ)という武将は実に面白い。豊臣秀吉の親友にして政権の重臣であり、加賀100万石の祖であるという極めて知名度が高い武将でありながら、その実像はよく知られていないのだ。

メジャーであるがゆえのイメージ先行の人物像が独り歩きしている感もある。史料が語る前田利家とはどのような武将なのだろうか。

かぶきもの

前田利家は天文7(1539)年1月15日に尾張国(現在の愛知県西部)の荒子村で生まれたとされるが、生年には諸説ある。

父は荒子城主前田利春であり、利家は四男であったという。幼名犬千代はわりと良く知られているのではないか。


『利家記』によれば、この当時前田家の所領は2000貫。後の大大名ぶりを彷彿とさせるものは微塵も感じられない。そもそも前田家は織田家の家老、林秀貞の与力であったと『信長公記』にある。

若い時分の利家は、なりは「かぶきもの」と言われる異様な出立ちであったという。気性は短気で喧嘩っ早かったというから、現代ならさしずめ「ヤンキー」というところか。

天文21(1552)年、織田一族間の抗争である萱津の戦いが利家の初陣とされる。この戦いで首級1つを挙げる武功を立てたと『村井重頼覚書』にはある。このとき利家の齢は10代前半。十字槍の名手で戦には滅法強かったようだ。

この頃、利家は信長の小姓となったばかりであり、直属の家臣として、当に「槍ばたらき」で頭角を表していく。その後元服して「前田又左衞門利家」と名乗る。

槍の又左

織田家の内部抗争は、まだ収束の兆しすら見えていなかった。特に信長と実の弟である信行(信勝)との争いは次第にエスカレートし、弘治2(1556)年、稲生の戦いで両者は激突する。

この戦いに利家は出陣し、信行方の小姓頭宮井勘兵衛を討ち取ったという。敵の矢を右目の下に受けながらの大奮闘であった。

続く永禄元(1558)年の浮野の戦いでも武功を挙げる。この獅子奮迅ぶりに、いつからか「槍の又左」と称されるようになったと伝わる。

母衣を背負った若い頃の前田利家の騎馬像(石川県金沢市尾山町)
母衣を背負った若い頃の前田利家の騎馬像(石川県金沢市尾山町)

これら一連の功績が評価されたのか、信長の親衛隊としての役割をもつ赤母衣衆筆頭に抜擢されたのである。賢妻として知られる正妻「まつ」を娶ったのもこの頃であった。

出仕停止

順風満帆な中、一大事が起こる。信長の同朋衆である拾阿弥と諍いを起こした利家は、拾阿弥を斬殺してしまったのだ。

これに激怒した信長は、当初は利家を成敗するつもりであったようである。これは、柴田勝家や森可成らの嘆願もあり、出仕停止の沙汰となる。

浪人の身となってしまった利家であったが、再起を図るべく意外な行動に出る。何と、信長の許可なく戦に参戦し出したのだ。あの桶狭間の戦いにも参戦し、首級3つを挙げる武功を挙げるが、信長の帰参許可はおりなかった。

それではと永禄4(1561)年、森部の戦いにも参戦。足立六兵衛という武将を始め計2人を討ち取ったという。実は、この足立六兵衛という武将は「頸取足立」と云われる剛の者で、さしもの信長もこれには驚き、300貫加増の上で帰参を許された。

家督継承

この頃、前田家の家督は父利春から、嫡男利久に譲られていたが、利久は病弱で武将としてしっかりした働きができなかったようだ。「村井重頼覚書」ではこの件を「武者道少御無沙汰」と伝えている。

そんな中の永禄12(1569)年、信長は突然、「利家を当主とせよ!」との命を下す。これは朝倉や石山本願寺との合戦を見据えてのことであったと思われる。それを裏付けるかのように、利家は数々の戦で功を挙げる。

元亀元(1570)年4月の金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の寝返りにより窮地に陥った信長を護衛しながら見事に撤退させている。また、同年6月の姉川の戦いでは浅井助七郎を討ち取る武功を挙げたという。

圧巻なのは、9月の春日井堤の戦いであった。本願寺勢と対峙した織田軍は退却を余儀なくされるが、味方が撤退する中で、利家は1人奮戦し、敵を倒す功をあげたというのだ。槍の又左の面目躍如といったところであろうか。

柴田勝家の与力へ

天正2(1574)年には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の平定に従軍。翌年には一揆を鎮圧し、佐々成政・不破光治と共に府中10万石を拝領する。いわゆる府中三人衆の誕生である。

当初は3名による共同統治という形態であったというが、発給文書などから天正4(1576)年頃から所領の分割が行われた可能性が高い。これで、利家は数万石を領する武将となる。

ちなみに、この頃親友の秀吉はどういう状況にあったのであろうか。

秀吉は天正元(1573)年に浅井攻めの功により近江長浜12万石の城主となっていたから、出世に関しては秀吉に少々水を開けられた感はあるが、共に織田政権において着実に序列を上げていったことは確かなようである。


勝家か秀吉か

天正10(1582)年本能寺の変が勃発し、信長が自害に追い込まれる。この当時秀吉は毛利攻めの最中であった。中国地方は京にも近く、変の報は翌日には秀吉のもとに届いていた。この当時の秀吉の石高は『織田武鑑』によると50万石程度であったという。

実は、この石高は明智光秀よりかなり少ない。しかし、信長の弔い合戦の大義名分のもと、中国大返しで迅速に帰京した秀吉につく武将は意外なほど多かった。ここで形勢は逆転し、山崎の合戦で光秀は敗れ、落ち延びる途中で非業の死を遂げた。

片や、この時に能登一国を拝領していた利家の石高は23万石と伝わる。京からの距離差が両者の立場を大きく変えることになるのだ。

同年6月27日の清洲会議では、信長亡き後の織田家の運営について話し合われたが、秀吉が巧みな戦略で柴田勝家を抑え、実質的に信長の後継者となったことはよく知られている。これによって、秀吉と勝家の対立は不可避となった。

清州会議で三法師を擁し、領地再分配で重臣筆頭の地位となった秀吉
清州会議において、信長の嫡孫である三法師を擁し、領地再分配で重臣筆頭の地位を得た秀吉。(『絵本太閤記』より)

この対立がやがて、賤ヶ岳の戦いに発展していくのであるが、両者とも関係が深い利家にとっては難しい選択を迫られることとなる。実は賤ヶ岳の戦いにに先んじて、秀吉は利家に自分に味方するよう勧誘していたといわれている。

『川角太閤記』には秀吉が「自分に寝返ってほしい」と率直に切り出し、利家は「寝返りはできぬが中立を保とう」と返したとある。さすがに、男の中の男と評されていた利家は、寝返りだけは避けたかったと思われる。しかも勝家は烏帽子親にして上司でもあるのだ。

この複雑な心境が賤ヶ岳の戦いでの利家の行動に反映されているようだ。

当初から利家は大した動きも見せず、槍の又左らしからぬ振る舞いがみられる。秀吉方の軍勢と交戦しようものなら中立の約束が反故になるし、勝家方からの寝返りだと思われれば、男が廃るのである。

そんな中、美濃で織田信孝が挙兵したとの報に秀吉は自ら美濃に出陣する。これを好機と、佐久間盛政は猛攻を開始し、大岩山砦を守る中川清秀が討ち死にし、砦は陥落。これを知った秀吉は急遽美濃より反転し、わずか3時間ほどで木ノ本に帰還した。

世に言う「美濃大返し」である。


賤ヶ岳の戦いの布陣図。青が秀吉、赤が勝家派。※拡大すると部隊の武将名が表示されます。

この時点で、桑山重晴が守る賤ヶ岳砦は丹羽長秀の機微な反転策により、佐久間盛政隊の猛攻をしのいでいた。取って返した秀吉は盛政勢を強襲。この強襲に何とか盛政は持ちこたえるが、その最中、何と、茂山に布陣していた利家が退却し始めたのだ。

背後の陣形が崩れた盛政隊は秀吉に撃破され敗走する。この結果、勝家の軍勢は総崩れとなる。秀吉方から見れば、利家の退却は絶好のタイミングだったと言ってよいだろう。

退却した利家は越前府中城に籠る。賤ヶ岳での秀吉と利家の動きを見ていると、あらかじめ呼応していたことは明らかなように思われるが表向きは、勝家方として行動する必要があったのだろう。

『賤岳合戦記』によれば、敗走し北ノ庄城に向かっていた勝家が府中城に立ち寄り、湯漬けを所望したという。勝家は利家の戦線離脱を責めることなく、労をねぎらい北ノ庄城へ退却していったと伝わる。

勝家がなぜ人望が厚かったのかがわかる逸話である。その後、利家は堀秀政を通じて秀吉に降伏するが、これはおそらく手はず通りの行動だろう。

勝家が籠る北ノ庄城は天正11(1583)年、秀吉方の軍勢に包囲される。その先鋒は利家であった。

勝家は妻お市とともに自害する。それは、秀吉の天下が決まった瞬間でもあった。利家は本領を安堵されたうえ、加賀半国を与えられ、居城を金沢城に移す。


加賀100万石

賤ヶ岳の戦いでの加増によって、前田家の石高は倍増する。さらに、天正12年(1584)年の小牧長久手の戦いでの活躍、および翌年の富山の役で佐々成政を降伏させると、越中を加増された。

歴史学者の本郷和人氏によると、この時点での石高は「加賀半国」20万石、「能登」20万石、「越中」40万石、計 80万石であったという。意外なことだが、豊臣政権下での前田家の石高は80万石程度で推移している。

金沢城跡
かつて加賀一向一揆の拠点だった金沢城跡

ちなみにこの頃の上杉家と毛利家の石高はそれぞれ120万石、112万石であり、徳川家は200万石ほどであった。なるほど、上杉・毛利と前田が組めば石高の上では家康と対抗できたというわけだ。

これを見ると、家康が利家の死後に前田家に難癖をつけ、東軍に引き込む策に出た理由がわかろうというものだ。のちの関ヶ原の戦いの後、前田家は大聖寺領6万石及び小松領12万石を加増される。これで所領は約100万石となる。

五大老

五大老の制度を紐解くと、「連署した6名」に行き着く。文禄4(1595)年の秀次事件により、成人した後継者豊臣秀次を失った秀吉は政治不安を払拭するため、「御掟」と「御掟追加」を発した。

徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景ら6人がこれに連署したのであるが、これが、五大老の原型であるようだ。

秀吉は家康を相当に警戒していたようである。そのため、家康を含めた5名の大老によって政権運営することで、家康を牽制しようとしたと思われる。

五大老はこの連署した6名から選ばれているが、当初は徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景の5名で構成されていたという。その後、小早川隆景が病死したため、上杉景勝が選ばれることとなったのである。

五大老はいわば、まだ幼い豊臣秀頼を補佐する「顧問」であり、その下には石田三成を始めとする実務家の「五奉行」が控えていた。

家康や利家から見れば、輝元や景勝らは、石高は多いものの、どちらかと言えばジュニア世代の武将であり、経験値では劣る存在だったろう。家康には野望が大いにあったろうから、豊臣政権の実質的な中心人物は利家であったと言ってよい。

動乱の最中の死

慶長3(1598)年8月、秀吉はこの世を去った。

『言経・利家夜話』によると、秀吉の遺命は家康は伏見城に入り、利家は秀頼の守役として大坂城に入るというものであったという。利家はこれ以降、大坂城の実質的な城主として政権運営に携わることになる。

利家 vs 家康

ところが、というべきか、やはりというべきか、家康が不穏な動きに出始めたのだ。そのとっかかりは、婚姻政策であった。家康は伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則との婚姻政策を無断で進めたが、これは当然秀吉の法度に違反している。

利家は、このあからさまな法度違反に猛反発したという。これに反応して、諸大名が利家・家康双方の屋敷に集結する事態となる。

毛利輝元など豊臣政権の中心的人物や武断派のほとんどが、利家方についたとされる。これは、人望と言う点では利家に軍配が上がったということではないか。

ここで、武力をもって家康を排除出来なかったのは、256万石とも言われる石高を背景とした動員兵力のせいもある。しかし、最大の理由は小牧長久手の戦いで秀吉が家康を敗北に追い込むことができなかったというところにあると思われる。

秀吉亡き後、果たして家康を武力討伐できるのかという不安があったのであろう。結局、慶長4(1599)年2月2日政権の要人と家康は誓紙を交換し、利家が家康を訪問して和解することでこの騒動は幕を閉じる。

利家の最期

ところが、前年頃より病を得ていた利家は、この家康訪問後に病状が悪化する。利家の病状については様々な記述が残されている。

例えば、41歳ころから度々腹痛に悩まされていたという記述が残されていて、これは、胆石による発作ではないかと推測される。

さらに病床の利家についても、薄墨色の尿が出たとの記述が見えるが、これは現代医学ではメラニン尿と呼ばれ、肝硬変や内蔵系の癌が疑われるそうだ。

これらのことから利家は胆嚢癌であったとする説がある。この病状の悪化に、家康は利家を見舞うのであるが、『浅川聞書』によると、この際利家が抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。このとき利家は家康を暗殺するつもりであったという説もある。

その後、利家の病状が快方に向かうことはなかった。同年3月3日利家はこの世を去る。享年62であった。

あとがき

利家はその武勇から、どちらかと言うと武断派よりの人物と思われがちである。それ故、計算に長けた経理に明るい人物という側面はほとんど知られていないと思われる。

意外にも、利家は頭脳派だったのだ。家康にとって武勇・人望・頭脳全てを兼ね備えた利家は厄介な存在だったに違いない。

ここまできて、ふと、豊臣秀長の死の件を思い出した。以前にも書いたが、秀長の死にはヒ素による毒殺の可能性が指摘されている。


その後、所謂秀次事件で関白秀次が切腹し、秀吉の後継者は秀頼のみとなってしまうのであるが、これは家康にとって誠に都合のよい出来事であったろう。

利家にしても、家康の邸宅を訪問した後に病状が急変し、その死後ほどなくして関ヶ原の戦いが勃発する。利家の嫡男利長も大坂冬の陣の直前に急死するが、『懐恵夜話』によればその死因は服毒自殺だというが、毒殺説も存在する。

もしやと思い、利家の死因に関する史料を探すと、『石明余史』に「苦しみ、血をはき、卒然として逝去せらる。世人、毒殺の疑いありといふも、その実知りがたし」との記述を見つけた。

抜き身の太刀を忍ばせた際、利家が何よりも恐れていたのは家康の抱える底知れない闇だったのかもしれない。


【参考文献】
  • 大西泰正『前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説』平凡社 2019年
  • 本郷和人『戦国武将の明暗』 新潮新書 2015年
  • 太田牛一 中川太古 『現代語訳 信長公記』KADOKAWA  2013年
  • 岡村青『「毒殺」で読む日本史』現代書館  2005年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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