「第二次月山富田城の戦い(1565~66年)」毛利元就、中国8か国の大大名へ

厳島の戦い、防長経略を経て大内を下した毛利元就は、次に山陰の大豪族・尼子へと目を向けます。すでに厳島の戦いの前から石見を手に入れるための計画を着々と進め、およそ10年に渡る尼子との攻防の末に石見・出雲を手に入れるのです。

尼子氏の本拠である月山富田城は最後の砦。地形を生かした月山富田城は難攻不落の城であり、かつて大内配下としてこの城を攻めた元就は手痛い敗北を経験していました。いよいよ月山富田城にせまった元就は、中国制覇へ王手をかけます。

尼子を滅ぼすまであと一歩へ

新宮党を自滅させる

毛利元就による尼子攻めの第一歩は、すでに厳島の戦いの前年、天文23年(1554)からスタートしていました。元就はまず、尼子の精鋭である新宮党(しんぐうとう)を崩壊させるための作戦を開始します。

新宮党とは、月山富田城の北、新宮谷を拠点とする一党であり、そのトップは尼子経久の次男・尼子国久でした。元就は総勢3000人にもなるこの新宮党と戦うのではなく、お得意の謀略によって内側から自滅させにかかります。

元就は、「新宮党が毛利に近づいている」という噂を流しました。もちろん、尼子の結束が強ければこんな噂は鼻で笑われておしまいですが、尼子は一枚岩ではありませんでした。もともと精鋭の新宮党と、尼子当主の尼子晴久とは折り合いが悪かったようです。

尼子晴久の肖像画
尼子晴久の肖像画

力のある新宮党は驕り高ぶり、晴久はそれを疎んじていたとか。そういう背景もあり、また元就の第二の矢、「毛利と通じている証拠の密書」を晴久の手に渡らせることで、疑念を抱かせたのです。

晴久は元就の策にまんまとハマり、新宮党の国久とその子・誠久(まさひさ)、敬久(たかひさ)を粛清。これで新宮党は自滅してしまいました。毛利にとっては不安材料がひとつなくなったことになります。

尼子晴久の死

毛利が石見経略に手を焼いているころ、尼子晴久が死去しました。永禄3年(1561)12月24日、居城の月山富田城で息を引き取りました。享年47。

元就は結局晴久の存命中に石見を手に入れることができず、晴久の死を惜しんだといいます。とはいえ、晴久の嫡男で若輩の義久が急遽当主に立ち、しかも新宮党粛清によって精鋭を欠いた尼子の状況は毛利にとって隙だらけ。ここを狙わない手はありません。侵攻の手を緩めることなく、着々と石見経略を進めました。

その一方で、同年中に元就は陸奥守、隆元は大膳大夫、吉川元春は駿河守に。さらに隆元は将軍・義輝から安芸守護に任じられるなど、尼子を攻める一方で中央との関係もうまく築いていました。

石見全土を手に入れる

永禄5年(1562)6月、毛利はついに石見全土を手中におさめます。忍原崩れから数年、それから石見銀山をめぐる攻防は数度続き、ようやく尼子から奪うことができたのです。毛利は山吹城の本城常光を説得し、戦うことなく関係を結びました。

石見銀山の清水谷製錬所跡
明治時代に建設された石見銀山の清水谷製錬所跡。世界遺産に登録されている。

石見を制圧した元就、次に狙うのはもちろん出雲一国です。

白鹿城の戦い

同年7月3日、元就は吉川元春、小早川隆景ら1万5000の将兵を率いて吉田郡山城を出発しました。これは前年に尼子と結んだ雲芸和議を無視したものでした。そのまま石見路へ。まずは赤穴から洗合(あらわい/松江市国屋町)へ入り、本陣を築きます。宍道湖の北岸に位置する白鹿城(しらがじょう)は尼子の最大の支城であり、商業の要衝です。まずは月山富田城と白鹿城の連絡・補給を絶つ持久戦に出たのです。

大友と講和を結ぶ

その一方で、元就は豊後(大分県)の大友氏との講和を結びました(芸豊和談)。尼子を攻めつつ九州の大友も気にしなければならない状態は毛利にとって不利なため、朝廷や幕府に斡旋を依頼して講和を結んだのです。これで元就は心置きなく白鹿城攻めに集中できるようになりました。

大友宗麟の肖像画
北九州で一大勢力を築き上げ、元就と敵対した大友宗麟

嫡男・隆元の急死

元就は毛利の全勢力で戦おうと、大友の対応をしていた嫡男・隆元を呼びます。芸豊和談がなったため、ようやく全勢力で出雲に集中できるようになったためです。

毛利隆元の肖像画
毛利隆元の肖像画

隆元は永禄6年(1563)7月には吉田へ戻り、嫡子の幸鶴丸としばし対面。そこから8月5日には出雲へ出発する予定でいましたが、予期せぬ出来事が起こります。

8月3日、隆元は備後の和智誠春の饗応を受け、一晩酒宴を楽しみます。ところがその夜、隆元は急に激しい腹痛に苦しみ始め、翌4日に急死してしまったのです。

この知らせはすぐに元就の元へ届けられましたが、元就は嫡男の死に悲嘆。一時はものも言えないほどであり、自分もこのまま果ててしまいたいと思うほどだったとか。隆元の死は元就だけでなく、毛利軍全体の士気に関わる出来事でした。

元就は隆元の急死に毒殺を疑い、のちに和智誠春ら数名を誅殺しています。和智らが隆元の側近・赤川元康らと謀って暗殺したと考え、赤川も切腹に追い込みます。ただ結局暗殺の確たる証拠はなく、これらの処分も隆元の死から数年経った後に行われました。

隆元の弔い合戦!白鹿城を陥落

隆元の死からおよそ10日。8月13日にようやく元就は立ち上がり、白鹿城に総攻撃をかけます。松田誠保、牛尾久清が守る白鹿城の兵力は1800余り。対する毛利は1万5000です。

二の丸を破るところまでは順調に進みますが、なかなか本丸が落ちません。そこで元就は石見銀山の鉱夫を数百人ほど呼び寄せ、城への水路を立つ作戦に出ます。これを知った白鹿城勢は妨害しますが、とうとう10月29日に降伏します。

なお、この戦いのさなかに毛利軍と籠城軍の間で矢文合戦が行なわれたと言われています。矢に結び付けた和歌の返歌をやりとりし、元就を挑発するような内容もありました。

戦場においてこのようなやりとりがあったというのはなんだかちぐはぐな感じがしますが、休戦状態のときに行われたのでしょうか。

いよいよ本命・月山富田城の戦い

さて、要の白鹿城が落ち、いよいよ月山富田城攻めに入ります。まず総攻撃をかけるのではなく、じわじわと尼子の拠点をおさえ、永禄8年(1565)の春までに補給路を断って籠城軍を苦しめました。

白鹿城の戦い・第二次月山富田城の戦いの要所マップ。色が濃い部分は出雲国。

三方からの総攻撃

4月17日、毛利軍は総攻撃をかけます。なお、この戦いには隆元の嫡男・輝元も参加していました。元服して間もない13歳の輝元の初陣です。

輝元は元就とともに第1軍に入り、第2軍には吉川元春・元長、第3軍には小早川隆景が。この3軍に分かれて三方から攻撃をしかけました。正面を元就、南を元春、北を隆景が担当したのです。

尼子はこの攻撃に耐え、28日に総攻撃は一時中断。元就は全軍を星上山に引き上げ、さらに本陣を洗合まで後退させました。

満を持して攻撃再開、投降する者多数

そこから数か月のちの9月、元就は兵を十分に休ませ、満を持して攻撃を再開します。このころには、長引く攻防戦に疲れ果てた尼子軍の兵が続々と降参し始めます。兵糧攻めに苦しめられたこともあり、城から脱走する兵が続出したのです。とくに永禄9年(1566)ごろから顕著で、一度に数十人単位で城を抜け出し始めました。

尼子義久の敗北

いよいよ尼子軍は首が回らなくなり、同年11月21日、尼子義久は降伏します。使者を立て、「自分が切腹するので城兵の命は助けてほしい」と申し入れました。

これに対して元就は、名家・尼子氏を断絶させるわけにはいかないと考え、義久、倫久、秀久の三兄弟を助命します。これには元春や隆景が反対し、切腹させるべきだと主張しましたが、元就の一存によって尼子一族は助けられたのです。

尼子攻めの前、かつて元就は防長経略において「大内義長の一命を助ける」と言いながら自刃に追い込んだ過去があり、その件で何か思うところがあったのかもしれません。義久らは安芸へ送られ、以後毛利の監視下に置かれて暮らすことになります。命はあるとはいえ、これで事実上尼子は滅亡。4年数か月をかけ、元就はついに出雲を手に入ることがかなったのでした。

尼子を破った元就は中国最大の戦国大名へ

大内に続き尼子にも勝利した元就は、いよいよ中国地方最大の大名になりました。中国8か国、安芸の小領主からスタートした元就の大躍進です。このとき元就はすでに71歳。晩年にしてやっと中国制覇がなりました。

実はこの合戦中に、体調を崩して生死をさまようこともありました。そこからなんとか持ち直した元就でしたが、数年後の元亀2年(1571)に息を引き取ります。以後、嫡孫の輝元を毛利家当主として、吉川元春・小早川隆景の兄弟が支えながら運営していくことになります。


【主な参考文献】
  • 河合正治『安芸毛利一族』(吉川弘文館、2014年)
  • 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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