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幕臣・明智光秀と足利義昭 ~本能寺の変・義昭黒幕説もあるけど、どこまでの関係だった?

足利義昭の肖像画

光秀は信長家臣団の一員であったと同時に、室町幕府十五代将軍・義昭の幕臣でもありました。信長の家臣であり、一方で幕臣でもあったという両属体制がよく知られているところです。実際に同じ時期に両方に属していたかは不明ですが、義昭の幕臣であったことは間違いありません。

そんな関係にあったことから、「本能寺の変の黒幕は足利義昭だ」という説もあるほどです。しかし、本当にそう言えるのでしょうか?幕臣としての光秀と将軍・義昭との関係性についてみていきましょう。
(文=東 滋実)

幕臣としての光秀

光秀と義昭の関係でよく知られているのは、義昭が朝倉義景を頼って越前にいたころ、義昭は一向に上洛戦に出ようとしない義景にしびれを切らして信長を頼った。(義景、信長だけでなく、義昭は方々の大名に助けを請うている)このとき信長との仲介役を果たしたのが光秀と細川藤孝でした。以後、信長の家臣であり、義昭の奉公人でもあった光秀は、信長と義昭をつなぐパイプとして活躍します。光秀が窓口の役割を担っていたのです。

義昭が無事幕府を再興したあとも、光秀は義昭の幕臣として活躍しています。1569(永禄12)年1月5日、本圀寺の変と呼ばれる事件です。三好三人衆が本圀寺に宿泊していた義昭を襲撃しましたが、明智十兵衛(光秀の通称)を含む13名が撃退した、という記録が『信長公記』にあります。これは『明智軍記』にも記述がある情報ですが、一級史料である『信長公記』にも見えるため信用していいでしょう。

その後、光秀は義昭の近臣として仕え、信長が義昭の権力を制限する(信長の傀儡とする)かの殿中御掟の追加五か条も、宛て先は光秀と朝山日乗でした。パイプ役として動いていたことがわかります。

義昭と信長は対立を極め、やがて義昭は京を追われることになり、光秀が信長についたのは広く知られているところですが、光秀がいつ義昭に見切りをつけ、幕臣を辞めたのかははっきりしていません。

1573(元亀4)年には、義昭は京を追放されています。遅くともこの時点では完全に信長の家臣として行動していました。それ以前、光秀は幕府の摂津攻めには加わらず、信長の比叡山焼き討ちに加わっています。これが1571(元亀2)年のこと。この時点ではまだ信長と義昭は決裂していませんが、光秀はこのときの武功により近江の志賀郡を信長から与えられています。ここから坂本城を築城することになるのです。思うに、およそ五万石の志賀を与えられた時点で光秀は義昭に見切りをつけていたのではないでしょうか。

時期はいつかわかりませんが、光秀は幕臣を辞する意を表す書状を義昭の家臣に宛てて書いています。その時期は、比叡山焼き討ち前後だったのではないでしょうか。義昭の幕臣の中には、京を追放されたのちも追従する者は多くいました。早々に幕臣を辞した光秀は、彼らに比べると義昭への忠誠心が薄かったのかもしれません。もともと光秀の上司で、義昭の側近であった細川藤孝は光秀にやや遅れて信長の家臣となり、以後は三成の与力となっています。藤孝が信長の家臣となったのは、義昭が京を追放されたあとのことでした。

幕府・信長両属について

定説では、光秀が幕府と信長に両属していたことになっていますが、当時の武家社会では普通のことだったのでしょうか。高柳光寿氏も『明智光秀』(吉川弘文館)の中でこの矛盾に触れており、中世武家社会ではよくあることだが、戦国時代ではまれなことだったとしています。

高柳氏は「この特殊が認められるところに、光秀の微妙な人間価値を認めないわけには行かない」としていますが、当時普通のことじゃなかったけど、それが認められるところが光秀のすごさだよね、とそれだけで片付けてよいものなのか、少々疑問が残ります。

明智憲三郎氏は『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)において、光秀が信長に仕え始めたのは定説の義昭上洛時(1568/永禄11年)ごろではなく、比叡山焼き討ちのころからであるとしています。つまり両属ではなく、きっちり義昭に別れを告げてから信長に仕官したというのです。

この説に寄り添うとするなら、定説の二重になっている期間は幕臣であり、信長やその家臣団とつながりがあったのはあくまでも義昭の奉公人として、その窓口として行動していたと考えられるでしょう。二人の主君に仕えるという矛盾について、実は両属ではなかった可能性もあり得るように思います。

幕臣となった時期

光秀が幕臣となった時期を示す史料として、『永禄六年諸役人附』が挙げられます。『群書類従』に収録されている記録で、1563(永禄6)年の幕府役人名簿です。永禄6年というとまだ義輝の代なのですが、この「足軽」の欄に明智の名が記されているのです。義輝の代だから、光秀はまず義輝の奉公人で、義輝暗殺後に朝倉義景に仕えたという見方もあるようですが、そうではありません。最近ではこの『永禄六年諸役人附』後半部分は後年の書き加えであるとされているからです。

つまり、この名簿を引き継いだ義昭が将軍に立ってから付け加えられたのだろうということ。前半は名前まで書かれているのに、後半は「明智」のように苗字だけ急いで書いたようで、前半と後半には違いが見られるのです。 この記録を見ると、光秀は足軽。同じく幕臣であった細川藤孝は御供衆で、将軍に近侍する側近です。のちに光秀の部下となる藤孝ですが、もともとは逆の立場、しかもその身分にはかなりの開きがあったことがわかります。

後半部分は後年の書き加えであるため、書かれた時期を断定することは難しいです。明智憲三郎氏は、義昭が将軍になったとき、幕府は人材不足で、これを補うために急いで人材登用を行った。欠員を補うため、藤孝が中間だった光秀を幕臣に加えたのだとしています。幕府再興時ということは1568(永禄11)年ごろでしょうか。その一年半後、永禄13年1月には、『言継卿記』の記録によれば、光秀は『永禄六年諸役人附』で御供衆や御部屋衆だった者たちと同列に扱われており、かなり出世していたことがうかがえます。

早い段階で幕臣を辞した光秀に再度義昭を担ぎ上げる考えはあったか?

さて、義昭の奉公人として仕えていた光秀。両属期間がなく、永禄13年ごろまで幕臣だったと考えると、光秀と義昭の関係は定説よりもかなり近かった可能性があります。しかし、義昭が信長と対立を深める過程で、光秀はほかの幕臣よりも早く義昭に見切りをつけ、信長の家臣となっているのです。

幕臣として、信長に追いやられる義昭を支えて再起させたいという強い思いはなかったのでしょう。その点、同じく信長の家臣となった藤孝は義昭追放まで幕府側に属しており、側近として長らく仕えた分どうにかしたい思いはあったのかもしれないと思わせてくれます。

本能寺の変を語るとき、秀吉黒幕説・朝廷黒幕説に並んで足利義昭黒幕説がささやかれますね。簡単に言えば、再び上洛することを狙う義昭が光秀と結託して計画的に本能寺の変を起こしたという説ですが、義昭が京に戻ることを画策していたかどうかはともかく、光秀が義昭と共謀し、義昭を担ぎ上げようとしていたかどうかは微妙なところでしょう。

光秀は本能寺の変の後、味方に付くと思った武将が誰も味方せずかなり危うい状況に立たされますが、それでもなお義昭をエサに味方をかき集めようという様子はありませんでした。最近、新たな光秀直筆書状が確認され、本能寺の変の目的が幕府再興だったのではというニュースもありました。しかし、幕臣の中で早々と義昭に別れを告げ敵対した光秀に、幕府再興を願う思いがあったかどうか、怪しいように思えるのです。





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