幕臣・明智光秀と将軍・足利義昭の関係性、距離感はどのくらいだったのか?
- 2025/12/12
明智光秀は、織田信長家臣団の一員であったと同時に、室町幕府十五代将軍・足利義昭の幕臣でもあったという「両属体制」がよく知られています。この両者の関係性から、「本能寺の変の黒幕は足利義昭だ」とする説も存在するほどです。しかし、光秀と義昭は具体的にどのような関係を築いていたのでしょうか。幕臣としての光秀と将軍・義昭の関わりに焦点を当てて検証します。
光秀はいつ幕臣になったのか?
光秀が幕臣となった時期を示す史料として、永禄6年(1563)の幕府役人名簿である『永禄六年諸役人附』が挙げられます。これはまだ13代将軍・足利義輝の時代ですが、この名簿の「足軽」の欄に”明智”の名が記されています。しかし、この史料の後半部分は、後年に書き加えられた可能性が高いとされています。前半が氏名まで記載されているのに対し、後半は「明智」のように名字のみで急いで書かれた形跡が見られ、様式に違いがあるからです。このことから、後半部分は足利義昭が将軍に就任した後、人材不足を補うために追記されたものと推測されています。
光秀は”足軽”として記載されており、同時期の幕臣であった細川藤孝(のちに光秀の部下となる)が将軍側近の「御供衆」であったのと比べると、当初の身分にはかなりの開きがあったことがわかります。
明智憲三郎氏の見解では、義昭が将軍に就任した頃に幕府の人材不足を補うため、藤孝が武士の最下級であった光秀を幕臣に加えたとしています。義昭の将軍就任といえば、永禄11年(1568)10月頃ですね。それから約1年半後の永禄13年(1570)1月には、光秀は『言継卿記』に御供衆らと同列に扱われた記録が残っているので、短期間でかなりの出世を遂げたことがうかがえます。
幕臣光秀と義昭の関係
光秀と義昭の関係で特筆すべきは、義昭が越前にて朝倉義景を頼っていた頃、上洛を渋る義景に見切りをつけ、織田信長を頼る際の仲介役を光秀と細川藤孝が務めたことです。その後、光秀は信長と義昭をつなぐパイプ役として活躍しました。義昭が無事将軍に就任し、室町幕府を再興した後も、光秀は幕臣として重要な働きをしています。永禄12年(1569)1月5日の「本圀寺の変」では、三好三人衆による義昭襲撃に対し、『信長公記』の記録によれば、明智十兵衛(光秀)を含む13名が義昭を守り撃退しました。これは一級史料にも見える信頼できる情報です。
さらに、信長が義昭の権力を制限しようとした「殿中御掟の追加五か条」では、宛て先が光秀と朝山日乗となっており、光秀が信長・義昭間の窓口としての役割を担っていたことがわかります。
両属の時期は本当にあったのか?
光秀が幕府と信長に同時に仕える「両属」の状態にあったことが定説とされています。高柳光寿氏も、これは中世武家社会では普通でも戦国時代では珍しいことであり、光秀の特殊な人間価値の現れとしています。ただ、当時の武家社会で一般的ではなかった二重仕官が、本当に成立していたのかという疑問は残ります。一方で明智憲三郎氏は、『本能寺の変 431年目の真実』の中で、光秀が信長に仕え始めたのは定説の永禄11年(1568)ではなく、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちの頃からであると主張しています。つまり、光秀は義昭にきちんと別れを告げてから信長に仕官しており、両属の期間は存在しなかったという説です。
この説に従うなら、定説で両属とされてきた期間は、光秀はあくまで幕臣(義昭の奉公人)であり、信長やその家臣団との繋がりは、義昭の窓口としての活動によるものと解釈できます。二人の主君に仕えるという矛盾を抱えた両属説に対し、両属ではなかったという可能性も考慮されるべきでしょう。
いつ幕臣を辞めたのか?
信長との対立を極めた義昭は、元亀4年(1573)に京を追放されますが、光秀がいつ幕臣を辞したのかは明確ではありません。遅くとも義昭が京を追われたこの時点では、光秀は完全に信長家臣として行動しており、幕臣ではなくなっていたことは間違いありません。前述の通り、明智憲三郎氏は、比叡山焼き討ち(1571)の頃に義昭と別れて信長に仕官したと主張しています。光秀はこの武功により、信長から近江の志賀郡を与えられ、坂本城を築城することになります。五万石にも及ぶ志賀を与えられた時点で、光秀は義昭に見切りをつけていたのではないでしょうか。時期は不明ながら、光秀が幕臣を辞める意向を義昭の家臣に宛てた書状も存在していますが、やはり比叡山焼き討ち前後の書状だったのではないでしょうか。
京を追放された後も義昭に追従する幕臣が多くいた中で、早々に信長側に付いた光秀は、義昭への忠誠心が比較的薄かったのかもしれません。もともと光秀の上司であった細川藤孝は、光秀よりもやや遅れて信長の家臣となり、義昭追放(1573)までは幕府側に留まっていました。
光秀に再び義昭を担ぎ上げる考えはあったのか?
もし両属期間がなく、元亀2年(1571)頃まで義昭の幕臣だったとすれば、光秀と義昭の関係は定説よりも近しいものだった可能性があります。しかし、光秀は義昭と信長が対立を深める過程で、他の幕臣よりも早く義昭に見切りをつけ、信長の家臣となりました。この行動から見ると、信長に追いやられる義昭を支えて幕府を再興させたいという強い思いは、光秀にはなかったと言えるでしょう。
本能寺の変の「足利義昭黒幕説」は、義昭が上洛を狙い、光秀と結託して計画的に信長を討ったとするものです。義昭が復権を画策していたとしても、光秀が義昭と共謀し、彼を再び将軍に担ぎ上げようとしていたかどうかは疑わしい点があります。
本能寺の変の後、光秀は味方を期待した武将の協力を得られずに窮地に立たされますが、その際にも義昭を「担ぎ上げる」という形で味方を募ろうとした形跡は見られません。
近年、本能寺の変の目的が「幕府再興」だったのではないかとする新たな光秀直筆書状の報道もありましたが、幕臣の中で早々と義昭に別れを告げた光秀に、そこまでの強い幕府再興の願いがあったのかどうかは、依然として疑問が残る点です。
【参考文献】
- 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。
- 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
- 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
- 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
- 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。
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この記事を書いた人
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。
卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。
当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...
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