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  • 毛利元就
 2019/06/26

「吉田郡山城の戦い/郡山合戦(1540~41年)」毛利の名を世に広めた尼子との戦い

吉田郡山城跡
吉田郡山城跡

もとは大内氏に仕えていた毛利でしたが、当時安芸国内は大内氏と尼子氏が争いを続けていた地。毛利はちょうど両氏のはざまにあって、二国間に挟まれつつ生き延びる策を模索していたところでした。

元就が家督を相続したころ、毛利は尼子の家臣となっていたのですが、家督相続問題に尼子が口をはさんできたことなどで不満を抱いた元就は大内へ鞍替えします。これを警戒したのが尼子晴久でした。

毛利が尼子と決別したことで起こった「吉田郡山城の戦い」は、この戦を経て毛利は何を得たのか。まずは戦の発端から紐解いていきましょう。
(文=東 滋実)

元就家督相続後の尼子との関係

毛利家の家督は元就の兄・興元(おきもと)が継いでいましたが、25歳の若さで急死。その後は嫡男の幸松丸(こうまつまる)が継ぎ、元就は後見として仕えましたが、わずか9歳で病死してしまいます。跡継ぎ不在の毛利家の当主として白羽の矢が立ったのが、興元の弟である元就でした。

元就が家督相続することは、主君である尼子経久も認めるところでした。大永3(1523)年の銀山城の戦いにおける元就のはたらきも評価していたのです。

謀反に介入した尼子に不信感を抱いた元就

ところが、当主となった元就を廃する動きがありました。元就の重臣である坂広秀と渡辺勝が、元就の庶弟(異母弟)にあたる相合元綱(あいおうもとつな)を擁立しようとしたのです。これは元就の知るところとなり、関わった者は元綱含め処刑されて不発に終わります。

坂・渡辺両氏が元就を失脚させようとした理由ははっきりしませんが、これは尼子経久の重臣からの働きかけで起こった出来事であると考えられています。

経久は銀山城の戦いで元就の戦の才能を認めると同時に、脅威に感じていたのです。経久自身が下剋上で成り上がった武将であったため、やがて元就が力をつけて尼子を乗っ取る未来を想像してしまったのでしょう。

結局はこの主君の警戒心が元就に知られ、逆に離反の理由のひとつになってしまったわけです。

佐東銀山城の戦いの恩賞にも不満

元就は家督相続の一件で不信感を抱くよりも前に、銀山城の戦いの恩賞について不満に感じていたと考えられます。

この戦で元就は目立った戦功を上げたにも関わらず、与えられた恩賞はわずか50貫文の領地でした。現代の価値に換算しても、多く見積もって500万円程度。家族を支えていくだけなら問題ないかもしれませんが、家臣を抱える武将としては少なく感じるはずです。

こういう不満もあり、元就は早々に尼子に見切りをつけていたものと思われますが、尼子に人質を出していることもあって、しばらくはおとなしくしていました。

大内への臣従を決めた元就

元就は大永5(1525)年ごろ、大内への復帰交渉に入ります。交渉の結果、可部(広島市安佐北区)、深川上下(同安佐北区)、温品(ぬくしな/広島市東区)、久村(くむら/同安佐北区)の、合計1370貫文の領地を与えるという条件を出されます。

1370貫文とは、尼子から与えられた恩賞のおよそ27倍。尼子があまりにもケチ臭かったとはいえ、この条件は当時の毛利にとっては破格でした。

享禄元(1528)年、大内へ人質を送って臣従の意を表明

復帰交渉から3年、享禄元(1528)年に人質として家臣の井上新三郎を送り、大内へ復帰して臣従することを表明しました。

尼子は元就討伐を決意

もちろん元就が大内へ鞍替えしたことは尼子の知るところではありましたが、10年ちょっとの間はなんとかバランスを保っており、表面上は大内と尼子は和睦関係にありました。

状況が変わり始めるのが、天文6(1537)年、尼子の家督を経久の孫である晴久(詮久ともいう)が相続したことによります。3年後の天文9(1540)年、ついに晴久は元就討伐を決意しました。

<a href='https://sengoku-his.com/759'>尼子晴久</a>の肖像画
尼子晴久の肖像画

大内はしばらく北九州平定に力を入れており、尼子の方には目を向けていませんでしたが、晴久が尼子の家督を継ぐころまでにはほぼ成し遂げられていました。

西が片付いたなら次はもちろん東。晴久が元就討伐に動き始めたのも、そうしなければならないところまできていた、という背景があります。

このままいけば大内に入った毛利は勢力を強め、尼子の力が削がれていってしまう…。尼子家中でそういった憂慮があり、もはや待ったなしの状況だったのです。

尼子家中では反対する意見もあった

毛利を攻めるかどうか、決定する場では反対の声もあったといわれています。反対したのは晴久の大叔父(経久の弟)の久幸と、祖父の経久でした。

「晴久の武略で吉田郡山城を落とすのは無理だ。元就の背後には大内がいるのだから、尼子の力だけで落とすのは難しい。ただでさえ石見・備後両国がまだ手に入っていないというのに。」

というのが彼らの意見でした。経久はもう80をとうに過ぎた老体ながら、孫を諭します。しかし、この慎重論は弱腰だと突っぱねられ、討伐賛成派が多数となったことで出陣が決定してしまいます。

平賀氏の内紛も関係

通説ではこのように、元就の離反に晴久が怒ったことがきっかけであると見られてきましたが、別の見方もあります。発端は安芸高屋保(東広島市高屋町)を本拠地とする平賀氏の内紛がきっかけであった、という考えです。

平賀氏は尼子方でしたが、平賀の父子間で尼子方・大内方にわかれ争いに発展してしまいます。尼子方であった子の興貞の頭崎城(かしらざきじょう)が大内(毛利を主力とする軍)に攻められ、天文9(1540)年に陥落の危機に陥ってしまいます。

晴久は頭崎城救援のために出陣した、という見方が近年有力視されています。

戦いの経過

さて、事の発端をみてきましたが、いよいよ吉田郡山城の戦いがはじまります。

尼子は備後路から攻めるも……

まず、『毛利家文書』によれば晴久は天文9(1540)年6月に伯父の国久らに3000余の兵を与え、三刀屋(みとや/現島根県雲南市)、赤穴(あかな/出雲飯石郡)、三次(みよし/広島県三次市)を通って吉田郡山へ入る備後路を通りますが、ここからの侵攻は失敗に終わります。

このあたりを拠点とする宍戸氏には、元就の娘・五龍が嫁いでおり(宍戸隆家の正室)、毛利とはつながりが深かったのです。尼子軍は宍戸の抵抗にあい、このときは兵を引き上げています。

元就は籠城し、援軍を待つ

備後路をあきらめた晴久は、8月に改めて別のルートを通って攻めます。赤穴から一度石見へ入り、都賀から口羽、多治比を通って吉田郡山城に向かうルートです。

尼子の兵力は、指揮官に大叔父の久幸を据え、叔父の国久とその子の誠久(さねひさ)ら一門を合わせた総勢3万の大軍でした。9月4日に多治比の風越山に布陣した尼子軍は、吉田郡山城を見下ろす形であったといいます。

対して、毛利の兵力は『吉田物語』によるとわずか8000。しかもその内のほとんどが農民であり、戦闘要員はたった2800程度であったとされています。元就はこの8000の人々とともに籠城する道を選び、9月15日に戦が始まります。

尼子軍はまず城下の町に火をつけてまわりました。籠城戦は兵糧を断つことが第一。圧倒的兵力差があるとはいえ、毛利の背後には大内が控えているわけで、尼子としても悠長に毛利が自滅するのを待っているわけにはいきません。こうして毛利と尼子の小競り合いがしばらく続く間、元就は大内に救援を頼み、後詰(援軍)を待ちました。

吉田郡山城の戦いの要所。色塗部分は安芸国

青山土取場の戦い

9月23日、尼子は本陣を吉田郡山城下南方にある青山と光井山の間に移動し、さらに包囲網を縮め始めました。そして10月11日、尼子誠久らが一気に郡山城を攻めようとしますが、察知した元就は逆にこれを攻め、伏兵によって誠久の隊は敗れます。

元就は逃げる尼子の軍を追い、本陣の青山のふもとの土取場まで侵攻。この戦いで毛利は敵方の三沢為幸をはじめとした数十人を討ち取り、誠久の隊に勝利しました。尼子本隊との戦いとは別に、これを「青山土取場の戦い」と呼びます。

大内の援軍到着後、包囲された尼子は戦意喪失

戦いが始まって数か月。12月3日にようやく大内義隆の後詰が到着しました。陶隆房(のちの晴賢)率いる1万の軍です。

ここに至るまでに尼子軍は本陣を移して包囲網を縮めて毛利を追い詰めていましたが、今度は外側から大内軍、内側からは毛利軍に挟まれ、不利な状態に陥ります。

籠城戦とは、攻める側が有利なように見えて、防戦する側が後詰を待って勝利するというパターンが多かったそうです。援軍がまったく見込めない状況ならばあとは兵糧が尽きて自滅するのを待つだけですが、実際はそう簡単にはいかないものです。

季節はすでに秋から冬へ移っており、温暖な瀬戸内といっても吉田郡山城があるのは山間部。冬は冷え込みます。攻めていた尼子側も山陰からの兵糧の補給が大変で、兵は憔悴していました。

年が明けて天文10(1541)年正月13日、尼子久幸は総攻撃をかけますが、久幸本人が戦死。指揮官を失った尼子軍は戦意を喪失し、撤退を余儀なくされました。味方の国人領主たちの離反を考え、完全に退路が断たれることを恐れての撤退だったとも思われます。

尼子軍は散り散りになって敗走しますが、毛利・大内両軍は執拗に追い討ちをかけました。これによりかなりの兵が戦死したと見られます。

元就の成果は

尼子の当主である晴久は無事だったものの、大叔父の久幸は戦死。そして尼子方の安芸武田氏は大内の攻撃を受けて滅亡。また、厳島神主家であった友田興藤も大内に敗れ自刃しています。鎌倉から続く名門が潰え、武田の旧領を手にしたのは元就でした。

大内復帰の際に与えられた可部・温品を返上するかわりとして、武田旧領の緑井(みどりい)・温井(ぬくい)・原郷(はらごう)・矢賀・中山といった瀬戸内沿岸の地域を与えられたのです。これは山間部を拠点としてきた毛利が瀬戸内へ出る契機となりました。このときから毛利は水軍を得ることになります。

この戦いは元就の名を周辺諸国に知らしめ、諸豪族らは毛利に服属するようになりました。一方、敗れた尼子はここから衰退がはじまります。

山陰を中心に勢力をのばした有力大名の尼子氏と、安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏。両氏の勢力のバランスが変わり、明暗を分けたのがこの吉田郡山城の戦いといっていいのかもしれません。


【参考文献】
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
  • 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
  • 池亨『知将 毛利元就―国人領主から戦国大名へ―』(新日本出版社、2009年)
  • 岸田裕之『毛利元就―武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房、2014年)



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