光秀の丹波経略 ──5年近くかかった丹波攻略で丹波29万石の主へ

明智光秀ゆかりの地といって真っ先に思い浮かぶのは近江の坂本かと思いますが、もうひとつ苦労して手に入れた領国があります。それが丹波。同じころ、ライバルの秀吉も信長から毛利が一大勢力を築いている中国を攻めるよう命じられていますが、光秀もそれと同じくらい重要な仕事を任されていたわけです。丹波一国と中国地方では大きさから違うよ、と思うかもしれませんが、丹波こそ信長の毛利攻めのためには大事なポイントだったのです。

さて、丹波の地を平定した光秀は、後世も「信長を討った逆臣」ではなく「善政を敷いた名君」として伝わっています。光秀の丹波攻略の苦労、平定後の統治についてみていきましょう。

丹波攻略の必要

丹波攻略が始まったのは、天正3年(1575)のことです。なぜこの地の平定を命じられたかというと、今後避けては通れないであろう毛利攻めの準備のためでした。信長は、毛利を攻め落とすにはまず山陰を手中に収める必要があると考え、そのためには丹波を平定すること。それが重要であると見たのです。

丹波国とはどこかというと、現在の京都府・兵庫県にまたがる地域で、福知山市・綾部市・亀岡市・南丹市・京丹波町・丹波市・篠山市のあたり。海に面していない内陸部です。この土地は光秀が拠点とする坂本から近く、平定すれば近江の東に位置する岐阜(信長が拠点としていた地)から西へ攻めやすくなるわけです。

そもそも、丹波国は将軍・義昭に味方する者ばかりでした。そんな国人が割拠している地であったため、義昭を追放した信長が親義昭派の連中を排除しようとするのも当然の流れだったのです。

丹波を平定するまで5年近く

「信長の命令で丹波を平定した」端的に言えば簡単そうに聞こえますが、丹波攻略はそれはそれは大変なもので、攻略し始めてから平定するまでは、なんと5年近くもかかっているのです。

元亀2年(1571)に近江坂本城の城主となった光秀ですが、ずっと坂本にいられたわけではありません。それ以降もこんな戦に駆り出されていたため、ゆっくりと腰を落ち着ける暇もなかったものと思われます。

※参考:光秀の丹波攻めマップ。色塗エリアは丹波国。赤マーカーは丹波国の城で数字は攻略年。青は織田方の城。

平定までの動き

  • 【天正3(1575)年】9月、丹波出陣の命が下る。
  • 11月、丹波黒井城を包囲し攻める(第一次黒井城の戦い)。丹波国衆の過半数は光秀に味方していた。
  • 【天正4(1576)年】1月15日、黒井城の赤井直正(通称・悪右衛門)を攻撃しているさなか、八上城の波多野秀治の謀反によってあえなく敗走。
  • 2月18日、丹波に再度出陣して攻略を再開。
  • 4月~、石山本願寺攻めに加わり、病にかかって臥せる。11月には妻の煕子が病死。
  • 【天正5(1577)年】10月、丹波攻め再開。丹波亀山城と丹波八木城を奪う。丹波籾井城を攻める。丹波船坂城、籾井城が落城。
  • 【天正6(1578)年】1月10日、丹波へ。園部城を陥落する。
  • 9月、小山城を攻め、次いで高山城・馬堀城を落とす。
  • 10月18日、福知山へ。
  • 10月22日、鬼ヶ嶽城で残党討伐。
  • 10月23日、鬼ヶ嶽城を落とすと、氷上を経て金山城へ。しかし赤井直正に奇襲をかけられ敗北。亀山城へ退却。
  • 11月19日、丹波の豪族・小畠越前守に亀山城普請の指示を出す。
  • 【天正7(1579)年】
  • 1月28日、亀山へ出陣。
  • 3月16日、丹波多紀郡表に布陣し、攻撃を開始する。
  • 5月18日、八上城の波多野氏を攻める。
  • 6月2~4日、波多野秀治兄弟3人を降伏させ、安土へ送る。
  • 7月19日、宇津城を落とす。
  • 8月9日、赤井忠家を攻め、降伏させる。
  • 8月、横山城が落城。修築して「福知山城」へ改称。
  • 9月19・20日、黒井城を攻略し、攻撃。
  • 9月22日、丹波国領城を攻略。
  • 10月24日、安土入りし、丹波・丹後平定を信長に報告。

丹波だけにかかりきりだったわけではない

ずらっと並べると、丹波攻略が始まってからなんと忙しいことか。上の年表にまとめているほとんどが丹波攻略に関する出来事ですが、勘違いしてはいけないのは、この5年の間、光秀が丹波一国の平定だけに取り組んでいたわけではないということ。

一度謀反のために敗走するなど撤退している時期もあり、またほかの戦に駆り出されることもしばしば。天正4年(1576)には石山本願寺攻めの際、天王寺砦で危ない目に遭い、さらに忙しさのあまり倒れてしまいます。同年には妻の煕子を病で亡くし、丹波どころではない日々が続いているのです。

天正6年(1578)には信長に仕えていた荒木村重の謀反もあり、その直前の離反の動きに際しては相談にのったりもしていた。これだけ丹波攻略に苦労させられているのに、光秀はほかのことでも忙しかったのです。

凡人なら音を上げる境遇ですが、過労で倒れながらもやってのけた。やはり光秀は大変有能だったということですね。

丹波攻略で苦しめられた存在

丹波は立地的にも山が多くて攻めにくくて苦労しましたが、丹波の土豪たちも手ごわかった。丹波攻略の初っ端から苦しめられた相手を二人紹介しましょう。

丹波の赤鬼・赤井直正

丹波の氷上郡を拠点としていた豪族で、黒井城の城主でした。この赤井直正、通称「悪右衛門」と言うのですが、「悪」とつくだけあってなかなかのワル。もともと赤井氏の次男だった直正は外叔父の荻野秋清の養子となるのですが、なんとこの養父を殺して黒井城の城主となっているのです。

一度は信長のもとに降って所領安堵を受けていますが、親義昭派であったため敵対することになります。

竹田城にいた直政は光秀の動向を知ると急いで黒井城に戻って態勢を整え、籠城します。光秀は黒井城を包囲し、このままいけば光秀が勝利するか、というところまで追い込みました。しかし波多野秀治の裏切りにあい、光秀は敗れて撤退。

光秀は最初こそ落城寸前まで追い詰めるのですが、ここから先が大変でした。「丹波の赤鬼」と称されるだけあって、直正はとんでもなく強かったのです。

最初に赤井を攻めて痛い目にあったことで光秀はより身を引き締めて挑んだことと思いますが、その後何度か攻撃するも、逆に追い込まれる始末。

結局丹波攻めの最後の最後、天正7年(1579)9月には黒井城を落として勝利しますが、光秀は直正と戦って勝利したわけではありませんでした。直正は丹波平定の前年3月に病で没しています。

この直正の死によって赤井氏は力を失っていきました。もし直正がまだ元気に生きていたとしたら、丹波平定はもっと遅かったのではないでしょうか。

波多野秀治の謀反

光秀を裏切ったという波多野秀治。丹波八上城を本拠地としていました。当初丹波攻略に際しては、光秀の軍の一員として織田勢力に反発する土豪らを討伐していましたが、黒井城がもう少しで落ちるという段階になって謀反。表では光秀に忠実に働きながら、裏では土豪と通じていた。赤井直正とも最初から結託していたと言われます。

第一次黒井城の戦いの後、敗走した光秀はまた信長に大軍を与えられて丹波攻略を再開しますが、織田の軍勢と対峙してなお、波多野は耐えます。

八上城を陥落したのも最後のほう。天正7年(1579)6月に兄弟ともども降伏することになり、4日に安土城へ送られると磔となって命を落とします。

信長は光秀を大いにほめる

赤井氏の黒井城を攻略した翌10月24日にようやく丹波平定を信長に報告できた光秀。5年もかかった戦いでしたが、信長は光秀の労をねぎらい、大いにほめたと言われています。

5年間ずっと丹波に注力していたわけではなく、ちょこちょこ別の戦に出ては危ない目にあったり、病に倒れたり、妻を亡くしたり。苦労が多かったことを承知していたからでしょう。

また、丹波平定が簡単ではないことは信長もわかっていたことと思われます。赤井直正の強さは知っていたはず。一筋縄ではいかないことを見事やってのけた。これで毛利を攻めるための道も確保できたわけで、光秀の丹波攻略は意義があることでした。

信長は光秀の功を称え、丹波一国29万石を与えています。それまでは城持ちとはいえ、近江の志賀郡を所有している程度。一国の拝領はとても大きいですね。これで志賀郡を合わせ、およそ35万石にはなっていたと思われます。

平定後の拠点

光秀自身は亀山城を拠点とする

光秀は亀山城を天正5年に手にして以降、丹波攻略の拠点としています。丹波平定後はまず福知山城の築城(改修)に取りかかったとされていますが、光秀自身はそこを居城とはしませんでした。

亀山城は現在の京都府亀岡市の荒塚町周辺にあった城で、これは坂本城と行き来しやすい場所にありました。坂本城から近かったことも、この城を当初から拠点とし続けていた理由でしょう。

福知山城には明智秀満

福知山城は娘婿の明智秀満(別名:光春)が任されました。城自体の改修から縄張りまで光秀が主導して行った場所ですが、自分は亀山城と坂本城を行き来して、少し遠い福知山は義理の息子に託したというわけです。

ちなみに、本能寺の変の後、留守居役として秀満の父がこの城にいましたが、秀吉の軍に捕らえられて粟田口で処刑されたと伝わっています。秀満自身は自分の城ではなく、坂本城で果てました。

『太平記英勇伝四十九:明智左馬助光春』(落合芳幾作)
『太平記英勇伝四十九:明智左馬助光春』(落合芳幾作)

黒井城には斎藤利三

赤井直正に苦しめられた黒井城。ここは家老のひとりの斎藤利三が任されました。利三の娘である春日局は、黒井城の下館であった興禅寺で誕生しています。

太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三(落合芳幾作)
太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三(落合芳幾作)

光秀の丹波統治

丹波平定から本能寺の変までだいたい2年半程度。光秀が丹波の領主だったのは、ほんの少しの期間と言っていい。にもかかわらず、領民からはとても慕われた名君であったといわれています。

検地

天正9年(1581)、光秀は藤孝とともに丹波の検地を行っています。何事もきっちり丁寧にこなす光秀のこと、所領の管理も徹底していますね。検地によって、千石を一村と定め、そこに一人の名主を置き、さらに万石に一人の代官を置きました。

検地のイメージ

本能寺の変の後、光秀は京の地子(地代・土地にかかる税)を免除し、京の民衆からの指示を得ようとしています。

単なる人気取りのため、と切って捨てればそれまでですが、丹波においても光秀は領民の支持を集める政策に出ていたと言われています。それが、年貢以外には一切の雑税を賦課しないと定めたというもの。

光秀が丹波を管理し始めてからというもの、それ以前より領民の区別がはっきりし、暮らしやすくなったとか。ただ、光秀の丹波領主時代の史料は少なく、これらの出来事が記されている福知山の威光寺所蔵の「寺社改ニ付一札」の中の「里老茶話」は後世・江戸時代に書かれたもので、信憑性があるとはいえないものです。

所領を自国として「統治」していた

丹波一国の所領を得たとはいえ、そこは信長から与えられているだけで、信長の鶴の一声で失うことだってあります。

本能寺の変の原因のひとつとして、信長から「出雲・石見を自力で取ってきたらそこをお前の領地にしていいが、志賀・丹波は召し上げる」と言われたという説があります。

単純な国替えとも言えないこの召し上げが現実になったとは思えませんが、「あいつの領地とお前の領地、交換ね」という話ならあり得ます。完全に「自分のものだ」とは言い切れない国であっても、光秀は自国としてしっかりと管理し、統治していたと言っていいでしょう。「ちょっと預かってるだけだから、まあ適当にやってよ」とならないところが実に光秀らしい。

光秀を祀る御霊神社

領民には「御霊(ごりょう)さま」と慕われる

世間一般では明智光秀といえば逆臣ですが、こと丹波においては今でもなお名君と伝えられています。

特に福知山にある御霊神社。もともとは五穀豊穣・商売繁盛の神を祀る稲荷社でしたが、神社の名前自体が光秀を主祭神としていることに由来します。

京都福知山の御霊神社(出典:wikipedia)
京都福知山の御霊神社(出典:wikipedia)

丹波を治めていたころ、光秀はこの福知山でも領民のためにさまざまな善政を施しています。堤防を造って川の氾濫を防いだり、城下町建築のための施策に取り組んだり。地子を免除したことで町が繁栄したとも言われています。

光秀が祀られているのはその当時の領民たちの感謝が後世にも伝わっていたためでしょう。丹波統治時代の史料は乏しいですが、こんなふうに今でも慕われていることを思うと、領民を思って行動していたであろうと想像できます。

土豪の末裔は

一方、光秀に滅ぼされた土豪たちはどうだったか。2020年スタートの大河ドラマ『麒麟が来る』を前に新聞で取り上げられていましたが、どうやら今は恨みこそないものの、古くは御霊神社に行くことも禁止されていたとか。光秀に城を落とされ攻め滅ぼされた側からすれば、それは忘れてはならない歴史なのでしょう。


【参考文献】
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。