「八上城の戦い(1578-79年)」光秀を裏切った波多野氏に勝利

光秀が苦心した丹波経略の終盤戦、八上城の戦い。光秀の丹波攻め当初は味方として働きながら、赤井直正・忠家の黒井城を攻めた際に寝返って光秀を敗走に追い込んだのが八上城の波多野秀治でした。

光秀はこの八上城を陥落させると、続けざまに黒井城を落とし、ついに丹波平定を成し遂げることになります。

丹波攻めの光秀に従った波多野秀治の裏切り

光秀による丹波攻めが始まったのが、天正3(1575)年のことです。

反・信長(親・義昭)派の丹波国人(内藤氏・宇津氏)の討伐が目的でしたが、今後毛利と戦うことを考えた信長は、これを口実に丹波を平定し、吉川元春との戦いに備えて山陰へのルートを確保しようと動きます。

内藤・宇津両氏やほかの丹波国人衆を討伐しながら、有力国人の赤井氏の居城・黒井城を攻めた光秀(第一次黒井城の戦い)。丹波の国人の大半はすでに光秀に味方しており、戦いは光秀優勢で進んでいきました。

ところが黒井城落城間近というところで、波多野秀治が裏切ったのです。背後から攻撃された光秀は敗走を余儀なくされ、坂本城へ逃げ帰りました。

波多野氏は赤井氏と縁戚

黒井城の赤井直正の妻は波多野氏の娘であり、同じく赤井忠家の母も波多野氏の娘で、両氏は縁戚関係にありました。この関係から、もともと波多野氏と赤井氏は密約を結んでいたのでは?いわれていますが、それを示す具体的な証拠は残っていません。

天正6(1578)年、八上城の戦い

天正6(1578)年、波多野氏とこれまた縁戚関係にあった別所長治(妻が秀治の妹または娘)が織田から毛利へ鞍替えすると、それと呼応するように波多野氏も動き始めました。

光秀、徹底的に包囲

光秀による八上城攻撃は、同年の9月ごろから始まりました。信長の求めに応じてあちこちへ飛びながら丹波平定を進めていた光秀は、この時期も荒木村重の謀反の対応に当たったりしていて、八上城だけに集中することはできませんでした。

が、波多野秀治に裏切られた苦い経験からか、八上城を徹底的に包囲して波多野氏を追い詰めます。それが同年12月のこと。

『信長公記』によれば、

「波多野が館取巻き、四方三里がまはりを維任一身の手勢を以て取巻き、堀をほり塀・柵幾重も付けさせ、透間もなく塀際に諸卒町屋作に小屋を懸けさせ、其上、廻番を丈夫に、警固を申付けられ、誠に獣の通ひもなく在陣候なり」(『信長公記』巻十一より)

光秀自身が指揮を執って堀や柵を何重にも張り巡らし、獣が入るすきもないほど厳重に包囲したことがわかります。

ただ、やはり光秀が不在のすきを狙って動く者もおり、光秀の協力者であった小畠永明が討死しています。こういうところを見ると、光秀は名ばかりの指揮官ではなく、丹波攻めのリーダーとしてしっかり機能していたことがわかります。

籠城戦で波多野勢は疲弊

9月から八上城攻めが始まり、年を越して天正7(1579)年。獣の出入りも許さないほど強固な光秀の包囲は順調に効果を見せていて、4月には籠城する者の中から助命を求める声が上がっています。

このころには八上城の餓死者が500人ほどにもなり、助命を求めてなんとか城を出た者らも餓死寸前で顔面蒼白だったとか。

それでもなお、光秀は手をゆるめません。5月には改めて包囲を強化しており、落城するまで攻撃を止めてなるものか、という強い意志を感じさせます。第一次黒井城の戦いで楽観視して失敗したことが苦い経験として活かされたのでしょう。

光秀の兵糧攻めの影響は、『信長公記』にも記録されています。

「籠城の者既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽果無体に罷出候を悉く切捨」(『信長公記』巻十二より)

やはり餓死者は多く、食べ物が尽きると草木を食べてしのぎ、それに耐えられなくなると牛馬を食べた。光秀は飢えに耐えられず計画もなしに出撃してきた兵たちに情けをかけることなく、ことごとく切り捨てたようです。

波多野兄弟の処刑

長い籠城で疲弊し、戦力も尽きた八上城は6月に開城しました。光秀の調略によって次々と仲間が寝返り、ついに波多野秀治は降伏したのです。

波多野三兄弟は開城後の6月4日に安土へ送られ、安土慈恩寺のはずれで磔にされました(『信長公記』)。処刑されたのは2日という説もあります。

これで波多野氏は事実上滅亡しましたが、秀治の子が落ち延びてのちに篠山藩に仕えたという説もあります。

光秀の母は磔になったエピソードは創作


人質として差し出された於牧の方

さて、この八上城の戦いは、本能寺の変の動機になった、という説があります。いわゆる怨恨説のひとつで、八上城開城の際に人質に差し出した光秀の母が、信長のせいで処刑されてしまったというエピソードがあるのです。

この逸話は、軍記物の『総見記(そうけんき)』や逸話集の『常山紀談(じょうざんきだん)』に書かれています。

これによると、光秀は波多野秀治に和議を申し入れ、「信長に従えば本領と地位を安堵する」と約束したといいます。約束の担保として人質に差し出したのが、母の於牧の方でした。

波多野氏はそれを信じて降伏し、安土へ送られますが、結末は先に紹介したとおり。信長は波多野三兄弟を磔に処しました。これを知った八上城の波多野家臣たちは「約束が違う」と激怒し、波多野三兄弟がされたのと同じように、於牧の方を磔にして殺してしまったといいます。

『常山紀談』なんかは、光秀は母が処刑されることを考慮した上で波多野氏をだまし降伏させた、としていますが、この母の死のエピソードは近年では創作であろう、と考えられています。

状況的に人質を差し出すほど困っていなかった

上記のとおり、光秀による包囲は強固で、波多野氏は兵糧攻めに耐えきれず降伏したようなものです。飢えに苦しんで餓死者を500人も出すような籠城戦で、光秀が母を人質を出してまで急いで降伏させる理由はありません。「本領は安堵するし、人質も送るから、頼むから降参してくれ」なんて言う必要はなかったのです。

『信長公記』は光秀の八上城攻めについて記録していますが、この於牧の方のエピソードは見えません。光秀が人質を出したという記録もありません。

以上のことから、光秀の母のエピソードは創作だと考えられるのです。

大河ドラマ「麒麟がくる」では於牧の方を石川さゆりさんが演じます。おそらくドラマの中でも重要な役どころとして描かれるのでしょうが、この八上城の戦いはどちらの説で描かれるのでしょうか。

母が磔にされ、その恨みが本能寺の変の動機のひとつになった、というのは物語性がありおもしろいのですが……。今までの光秀像とは別の姿を描くのであれば、創作と見られる母の磔はナシのほうがいいのでは?と思っています。

丹波平定へ

光秀の丹波経略もいよいよ大詰め。この後に黒井城を落とすと、天正7(1579)年10月に丹波平定を完了します。平定を報告すると、信長は5年の働きを大いにほめて功績を称え、光秀に丹波一国29万石をそのまま与えます。これで光秀は近江志賀郡とあわせて、35万石の戦国大名になりました。

光秀の最も輝かしい丹波統治時代は、2年半ほど続きます。光秀は丹波の領民にとって良い領主であったようです。人々に慕われた名君の光秀は、謀反人となったのちも丹波の地では「御霊さま」として祀られ、語り継がれました。

八上城の戦いは、丹波攻めにおいては赤井直正と同じくらい光秀を苦しめた波多野秀治との戦いですから、「麒麟がくる」でもかなり劇的に描かれるのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(戎光祥出版、2019年)
  • 新人物往来社編『明智光秀 野望!本能寺の変』(新人物往来社、2009年)
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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