「黒井城の戦い(1575年/1579年)」明智光秀が丹波平定で苦しめられた赤井氏との戦い

明智光秀の輝かしい功績のひとつが、丹波平定です。丹波統治時代は光秀の全盛期といっていい時代。平定には5年近くもの期間を有し、苦労しました。とくに長く苦しまされたのが、丹波黒井城の赤井(荻野)直正・赤井忠家らとの戦いでした。

信長と義昭の対立で丹波の状況が変化

なぜ信長と丹波勢は対立したのか。これを説明するには、信長の上洛のころにさかのぼらなければなりません。

永禄11(1568)年、信長は足利義昭の上洛を助け、義昭の将軍就任に貢献しました。この時点では信長と義昭の関係は良く、将軍を支える信長が畿内の支配に乗り出すと、丹波の国人たちは「とりあえず従っておこう」と信長に恭順しました。

丹波の有力国人であった赤井氏は、永禄13(1570)年に上洛して信長に従う姿勢を見せ、信長も赤井氏の所領三郡(丹波奥郡の氷上郡・天田郡・何鹿郡)を安堵しています。同じく有力国人の波多野氏も同じころに信長に従いました。

これで丹波も安泰か、と思いきや……。信長と義昭の関係が悪化し、義昭による信長包囲網が形成され始めると丹波の国人たちの動きは変わります。

元亀2(1571)年、赤井氏が但馬守護の山名氏とその国人・磯部氏と戦い、撃退します。山名祐豊(すけとよ)は困って信長に救援を要請。

赤井氏ら丹波の国人は信長が義昭と良好な関係だったから従っていたところが大きく、ここに山名氏が信長に助けを求めたことの不満も重なって、だんだん反・信長の立場へ。

こうした丹波の状況を受け、天正3(1575)年、信長は家臣の明智光秀に丹波の反対勢力討伐を命じます。一番目ざわりだったのは赤井氏ですが、表向きは内藤氏・宇津氏の討伐です。

内藤氏・宇津氏

親・義昭派だった内藤氏や宇津氏。京から追い出した義昭が宇津氏の元へ身を寄せる可能性があり、信長は先手を打って可能性をつぶしておこうと考えたのだと思われます。

これから先毛利との戦いを視野に入れていた信長には、吉川元春と戦う前に山陰へつながる丹波をおさえておくという意図もあったでしょう。内藤氏・宇津氏らの討伐を足がかりに有力国人をつぶしていき、手ごわい赤井氏を討伐しようと考えたのでしょう。

第一次黒井城の戦い(1575年)

こうした事情を背景に、第一次黒井城の戦いは起こりました。光秀は10月初旬に出陣して丹波の国人衆の大半を率い、黒井城の周辺を包囲します。

光秀有利に進む

『吉川家文書』によれば、丹波が反・信長勢力となったといっても、過半数の国人が光秀に従っていたことがわかります。

竹田城にいた赤井直正は光秀が動くと急いで黒井城へ戻り態勢を整えようとしますが、包囲された黒井城は兵糧が尽きかけ、すでに落城寸前にまで追い込まれていました。ここまで二か月ちょっとの攻防戦、光秀有利のまま進みました。左うちわで黒井城の面々がアワアワしているさまを楽観視していたであろう光秀。

ところが年明け早々に形勢は大きく変わります。

波多野秀治の裏切りで光秀敗走

光秀に従っていた有力国人の波多野秀治が、天正4(1576)年正月15日に突如光秀を裏切り、明智軍を背後から攻撃したのです。思いもよらない裏切りで形勢逆転。光秀は敗走を余儀なくされました。敗走の途中、光秀の家臣の堀部兵太夫が影武者として討死しています。

波多野秀治の謀反のおかげで光秀に勝利した赤井直正は、「丹波の赤鬼」の名を世に広めました。

空白期間も光秀は多忙

さて、第一次黒井城の戦いに敗れたあと、光秀が黒井城を落とすまでには数年を要しました。丹波経略には5年近くかかっていますから、よっぽど苦戦したのだろうな、と思うかもしれません。が、これだけ時間がかかったのは光秀が多忙であったことも無関係ではないでしょう。

空白期間、光秀は手をこまねいてじっとしていたわけではありません。一度坂本城へ戻ると、2月1日には再び丹波へむけて出陣しています。しかし、丹波攻めだけに集中できない事情がありました。

死にかけて病にかかり、そして妻が亡くなる

同年の4月には信長から石山本願寺攻めに加わるよう命じられ、5月の天王寺の戦いにおいて、天王寺砦にてあやうく死にかけそうになったところを信長に助けられています。死にかけたことや多忙がたたってか、石山本願寺攻めの際中に陣中で発病。秋になってようやく光秀が治ったかと思えば、今度は妻の煕子が発病して11月に病死(煕子が死んだ時期には諸説あり)してしまいます。

天正5(1577)年に丹波攻めを再開

畳み掛けるように不幸な出来事が続きますが、悲しんでいる暇もなく多忙な日々が続きます。天正5(1577)年に丹波攻めを再開すると、亀山城と八木城を奪い、籾井城を攻めて落としました。亀山城はこれ以降、光秀の最期まで重要な拠点となります。

ここから天正7(1579)年にかけ、光秀は怒涛の勢いで丹波の城を次々と落としていきました。そして同年の6月、ついに裏切り者の波多野氏の居城・八上城を落とし、波多野秀治と兄弟の3人を降伏させます。

赤井氏の味方をしらみつぶしにして制圧していき、いよいよ辛酸をなめさせられた黒井城を攻めるときがやってきました。

第二次黒井城の戦い(1579年)

満を持して赤井直正との直接対決か、と思われた第二次黒井城の戦いですが、あっという間に落ちて幕を閉じます。まさに拍子抜け。

「丹波の赤鬼」赤井(荻野)直正の死

なぜあっけなく黒井城が落ちたのかというと、赤井直正が亡くなっていたことが大きいでしょう。「丹波の赤鬼」「悪右衛門」と呼ばれた武将・赤井直正は、前年の天正6(1578)年に亡くなっていたのです。赤井氏の当主は直正の甥の赤井忠家でしたが、実際に家中をまとめて指揮を執っていたのは直正でした。

赤井忠家の降伏

第二次黒井城の戦いに先立って、信長は4月に朱印状を発給しています。これによれば、信長は直正・忠家の詫びを受け入れて赦し、知行地の保証を約束していたことがわかります。

ならばなぜ再び黒井城が攻められることになったのか。それは、和議成立後いつまで経っても忠家が出頭しなかったためでした。こうなると出陣して引っ張り出すほかありません。

直正を失った忠家は、叔父のようにうまく家中をまとめ上げることはできず、武将としての能力もそれほどありませんでした。おまけに、周辺を見渡せば支城のほとんどは光秀に落とされた後。味方はほとんどおらず、赤井軍の兵力は明智軍の5分の1にも満たない数だったといいます。8月9日、光秀は黒井城を包囲し、城は陥落。圧倒的に不利な状況でありながら、忠家は何もせず降参するような真似はせず戦いましたが、その日のうちに敗れてしまいました。

その後、敗れた忠家は逃亡しました。これといって語るところもない忠家ですが意外にも息は長く、後に豊臣秀吉に仕え、関ケ原では東軍として戦って生き、最後は幕府の旗本として慶長10(1605)年に生涯を閉じます。武将としては見どころの少ない人物ですが、生きのびるための能力には長けていたようです。

丹波平定を果たした明智光秀

黒井城を落とした後、同年中に光秀の丹波平定がついに終わりました。光秀はこのまま丹波を任されることになり、丹波29万石の主になります。

黒井城は光秀の家臣・斎藤利三に与えられることになり、のちに徳川家光の乳母として活躍することになる春日局(利三の娘)がこの城下で誕生します。

しかし光秀の丹波統治も数年で終わります。天正10(1582)年の山崎の戦いの後、黒井城主となるのは秀吉家臣の堀尾吉晴。その時代もわずか2年で終わり、天正12(1584)年に黒井城は廃城となりました。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(戎光祥出版、2019年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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