「厳島の戦い(1555年)」まさに下剋上!元就躍進の一歩は見事な奇襲戦だった
- 2019/05/30
戦国時代の戦において、毛利元就と陶晴賢が戦った「厳島の戦い」は日本三大奇襲のひとつに数えられています。元就の智謀によって合戦はあっという間に片が付き、毛利の圧勝に終わりました。大内氏を破り、元就の中国制覇の足がかりとなった戦いの詳細をみていきましょう。
【目次】
元就 vs 晴賢のきっかけは?
周防国を本拠とする大大名・大内氏の一家臣にすぎなかった元就と陶晴賢。彼らが対立するきっかけとなったのが、晴賢によるクーデターでした。天文20年(1551)、晴賢は主君・大内義隆を自刃に追い込み、自分が大内氏の実権を握ります。この晴賢の行いを嫌ったのが元就・隆元親子でした。元就にとって義隆は仕える主であり、隆元の妻は義隆の養女。晴賢のクーデターに憤るのは当然です。
天文23年(1554)、晴賢は石見吉川氏との戦い(三本松城の戦い)で元就に出陣するよう要請しますが、元就はこれを拒否します。これで元就と晴賢の断交は決定的なものになりました。
晴賢との対立に備える元就
このまま晴賢が勢いのまま突き進めば、毛利が標的になるのは避けられない。それを悟った元就は、晴賢に対抗できるだけの準備にとりかかります。まず、大内の実権を握る晴賢と安芸の小領主の元就では力の差がありすぎる。次男の元春、三男の隆景をそれぞれ吉川・小早川の当主にしたことで勢力を伸ばしましたが、それでもまだ十分ではありませんでした。そこで元就はまず安芸と備後のほとんどを鎮圧し、準備を整えたのです。
前哨戦となった折敷畑の戦い(1554年)
厳島の戦いの前年、晴賢は宮川房長に元就討伐を命じました。これが厳島の前哨戦となった「折敷畑の戦い」です。このとき元就は桜尾城(現在の広島県廿日市市)にありましたが、この城は大軍の攻撃に耐えられる要害ではありません。7000もの大軍に攻められたら無事では済みません。元就は城の数km先にある折敷畑で3000の兵を複数に分け、房長に奇襲をかけて勝利しました。
大軍の晴賢に勝つための策謀とは?
厳島の戦いは折敷畑の戦いよりも大規模です。毛利の軍はかき集めても4000ほどの兵。対して晴賢の軍は2万にもなりました。実際、厳島の戦いでの毛利側の兵力は2500程度だったともいわれます。この圧倒的な兵力差でどのように勝ったのかというと、元就は謀略をめぐらし、毛利に有利な方向へ進めたのです。
まずは敵の内側を崩す
大軍に少数で勝つには奇襲がいい。ただ、元就が勝てた理由は他にもありました。得意の謀略で晴賢とその家臣を引き離したのです。元就が目を付けたのは江良房栄(えらふさひで)。晴賢の重臣です。まず元就は房栄の抱え込みに入りますが、寝返りの工作は失敗に終わります。しかしそれだけでは諦めず、今度は「房栄が謀反を企てている」という噂を晴賢周辺に流したのです。
タイミングよく房栄が晴賢に諫言することがあり、晴賢は「もしや謀反の噂は本当なのでは、こいつは元就と通じているのでは」と疑い、房栄を殺してしまいます。まんまと元就の術中に陥り、大事な家臣を失ってしまったのです。もし房栄が生きていたなら、厳島の戦いも圧勝とまではいかなかったかもしれません。
厳島を決戦の地に選んだ理由
そもそもなぜ合戦の地が厳島なのか。元就は、兵力で劣る毛利軍は、陸上よりも援軍の来ない孤立した島で奇襲をかけるほうが戦いやすいと考えました。また、水軍を擁する晴賢軍は厳島を通って安芸に入るはず。そう予想したのです。晴賢をおびき寄せる策謀
ただ、絶対来るとも限らない。元就としては有利に戦いを進めたいので絶対に厳島に来てほしい。そこで、またもや策略をめぐらします。晴賢がすすんでやってくるよう仕向けたのです。元就が仕掛けたのは以下の作戦。- 勝手に厳島に城(宮尾城)を築き、そこに元大内の家臣の己斐(こい)・新里(にいざと)両氏を置き、晴賢の神経を逆なでした。
- 家臣の桂元澄に命じ、晴賢に「晴賢どのが厳島に渡って宮尾城を攻撃すれば、元就は必ず厳島に向かう。私は元就の留守をついて吉田郡山城を落としましょう」という密書を送らせる。
- 「いま晴賢軍が厳島を攻めてきたら絶対に勝てない、と元就は不安に感じている。宮尾城を築いたことを後悔しているらしい」という噂を流す。
まずは初手として晴賢をイラつかせ、次に毛利家中には晴賢に寝返ろうとする者があることを知らせる。最後にもうひと押し、「負けるから絶対来ないで!」と相手を油断させる噂を流す。最後に至っては、「まんじゅうこわい」です。
晴賢の家臣のなかには元就の策謀ではないかと怪しみ、厳島への出陣を止める者もいたようですが、晴賢はまんまと騙されて厳島へ渡ってしまいます。元就の掌の上で転がされていたのです。
勝敗の要となった水軍
また、周囲を海に囲まれた厳島において、勝負を左右するカギとなったのが水軍でした。元就の水軍は多くて70艘。三男の小早川隆景も水軍を持っており、さらに因島村上氏配下にあったといいます。これも70艘ほど。ただこれだけではまだ弱く、補強する必要がありました。晴賢の軍ももちろん水軍を持っているので、それを上回るだけの力が必要だったのです。
元就は隆景に命じ、村上海賊のうち能島(のしま)村上氏・来島(くるしま)村上氏を援軍に呼びます。援軍に呼んだ、というと簡単に聞こえますが、説得に当たった隆景の家臣・乃美宗勝(のみむねかつ)は決死の覚悟でした。
宗勝は能島のトップである村上武吉の養父で、自らも親しい関係にあった来島の頭領・村上通康に話をします。
「軍船をたった一日貸してくれるだけでいい…」
刺し違えてでも、という宗勝の気迫に押されたのか、通康は300艘出すことを承諾しました。
厳島の戦いの経過
それぞれの出陣
弘治元年(1555)9月20日、晴賢は500艘で出発し、厳島神社の東側、塔ノ岡に陣を構えます。一方、毛利軍が動き出したのは9月24日。次男・吉川元春を先鋒として出陣。元就は遅れて出陣し、27日には草津城に着陣します。この日、宮尾城が落城するという知らせを聞いた元就は、「村上はまだか」と業を煮やしましたが、要請にあたった隆景は必ず来ると信じました。
天気に救われる幸運
決戦前夜、9月30日。毛利軍は夜のうちに動き出します。厳島に渡ったことが敵に悟られないよう、篝火は元就の1本のみ。音を殺して船をこぎました。ちょうど、この日は豪雨に見舞われ、視界は悪くこぐ音も雨音にかき消されて敵に悟られることはありませんでした。敵側は大雨と暴風で周辺の見張りも怠っていたようです。明けて10月1日。毛利は元就を総指揮とした、隆元・元春の主力部隊である第一軍、隆景が指揮する水軍の第二軍の二手に分かれます。陸上を担当する主力の第一軍は厳島神社のより東の包ヶ浦に。隆景は厳島の対岸・大野を迂回するようにまわり、鳥居がある正面へ。
夜が明け、鬨を合図にして一斉に攻撃を始めました。
昨夜の雨で気を抜いていた晴賢軍は毛利軍が厳島に渡ったことすら知らず、すぐに応戦することもできずに右往左往。狭い島内ではまともに動くこともできなかったようです。
こうして晴賢軍はあっという間に壊滅してしまいます。大将の晴賢は一度山口に戻って対策を練ろうと逃れますが、隆景・元春に追われ、帰る船もなく、成すすべもなく自刃して果ててしまいます。
毛利軍が討ち取った首は、一説によれば4785人。海に逃れてそのまま死んだものもいるでしょうから、死者はもっと多かったのではないでしょうか。
晴賢の首は10月5日に発見され、その後対岸の廿日市にある洞雲寺に葬らました。
圧勝した元就は厳島神社を深く信仰する
元就らしく頭脳で勝った厳島の戦い。晴賢を討った元就は、このあと中国制覇に向けてさらに躍進していくことになります。合戦の舞台となった厳島は、島全体が神域。そんな場所を血で汚してしまったことを、元就は恐れ多いことだと考え、戦が終わると死者らを対岸へ移し、島をきれいにしました。
前哨戦である折敷畑の戦いにおいても、元就は厳島神社の使者と会い、御供米をたまわって「毛利は勝利するだろう」という託宣を受けています。また、合戦前夜に大雨が降ったのも厳島大明神のご加護と考えました。
元就は厳島を崇敬し、三人の息子に宛てた『三子教訓状』の中でも厳島明神への信仰が大事であると教えているのです。厳島神社は平清盛の時代から時々の武士の崇敬を集める、瀬戸内の要衝だったことがわかります。
【主な参考文献】
- 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
- 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
- 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
- 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
- 鷹橋忍『水軍の活躍がわかる本』(河出書房新社、2014年)
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