信長の妻と子供ら総勢29名のプロフィール一挙まとめ

織田信長の妻子は多くいますが、実は正室の濃姫や嫡男の信忠ぐらいしか知らない、といった方も多いのではないでしょうか。今回は信長の妻子たちの経歴について、最初に信長の妻7名、次いで男児11名、最後に女児11名、の順でお伝えしていきます。

※信長の妻子全員を取り上げているワケではありません。また、各人物のプロフィールに筆者の見解等は入っていません。なお、信長の子供(男女別)については、各書籍・史料を参考に推定の年齢順に並べています。冒頭の略系図は参考までに。

【目次】

濃姫(のうひめ、1535?-?年)

信長の正室。父は美濃の斎藤道三で、母については道三正室の「小見の方」というのが定説となっている。一説に明智光秀とは従兄妹の関係にあたるというが、確証はない。
織田信秀と斎藤道三による政略結婚により、信長の許嫁となるが、嫁いだ後の事績はほとんどわかっておらず、その生涯は謎めいている。没年も不明。
なお、通説では信長との間に子はいないものの、娘がいたという文献があるため、これも定かではない。


生駒吉乃(いこま きつの、1528?-66年)

信長の側室。織田家の家臣・生駒家宗(いこま いえむね)の長女。
土田弥平次に嫁いでいたが、その夫は弘治2(1556)年に討ち死に。その後実家に戻っていたところ、20歳の信長に目をかけられて妊娠。やがて嫡男の信忠と次男の信雄、続いて徳姫を産む。
永禄8(1567)年に生駒家から信長の居城・小牧山城に移転するも、出産後の肥立ちが悪かったことで翌年に死去。享年39とされる。

慈徳院(じとくいん、?-?年)

信長の側室。三の丸殿の母。出自は定かでないが、滝川一益の親族と伝わっている。
信忠の乳母を務めたのが縁で側室となった。当時、子の乳母が側室にされるのは珍しいことではなかった。
妙心寺に塔頭大雲院を建て、信忠を弔ったと伝わる。

坂氏(さかし、?-?年)

信長の側室。三男織田信孝の母で名は不明。
永禄元(1558)年に信孝を生んでいる。この女性の出自は伊勢の豪族の娘ということだけわかっているが、これは息子の信孝がのちに伊勢の神戸氏の養子に入ったことと関係しているとみられる。
信長の死後、信孝が柴田勝家と結び、秀吉に岐阜城へ攻め込まれた際に降伏して秀吉の人質となった。その後、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いの際に再び信孝が挙兵したため、孫娘と共に処刑された。

養観院(ようかんいん、?-?年)

信長の側室。四男羽柴秀勝、蒲生氏郷に嫁いだ相応院の母。出自は一切不明。
本能寺の変の後に秀勝が丹波亀山城主になると、そこに移り住む。秀勝が病気がちとなってからは吉田兼見にたびたび病状回復の祈祷を願いでている。

天正13(1586)年に秀勝が亡くなると、やがて京都に移り住んで出家し、養観院を名乗った。

お鍋の方(おなべのかた、?-1612年)

信長の側室。七男信高、八男信吉、そして水野忠胤に嫁いだ於振の母。近江の土豪・高畑源十郎の娘と伝わる。
信長と出会う以前に六角家臣の小倉実房に嫁いでおり、二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)を儲けている。その小倉実房は信長に内応したために六角氏に滅ぼされる。
未亡人となったお鍋は岐阜に赴いて信長を頼ったという。側室となって信高、信吉、於振を産んだ。信長死後は岐阜の崇福寺に信長と信忠の廟所を造営。秀吉より知行地を与えられている。
晩年は秀吉の正室・ねねの側近筆頭として仕えたという。

土方氏(ひじかたし、?-?年)

信長の側室。信長との間に九男・信貞をもうけた。『寛政重修諸家譜』には土方雄久の娘とあるが、『織田家雑録』では青山某の息女と記されている。


信忠(のぶただ、1557-82年)

信長の長男。母は側室の生駒吉乃。幼名は顔が奇妙だったことから "奇妙丸" と名づけられたという。
永禄10(1567)年に武田信玄の五女・松姫との婚約が成立。元亀3(1572)年に初陣、続く翌年には元服し、以後は信長の後継者としての道を歩んでいく。
天正2(1574)年の長島一向一揆殲滅戦の頃には織田家中での初の大軍団として信忠軍団が形成されて甲斐武田氏の押さえを担うと、翌年には信長から家督を譲渡されている。
天正10(1582)年3月に武田を滅ぼした甲州征伐では織田軍の総大将を務めたものの、わずか数カ月後の本能寺の変で父同様に自害の運命をたどった。


信雄(のぶかつ、1558-1630年)

信長の二男。母は側室の生駒吉乃で幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)。
信長の伊勢攻略の際、北畠具房の養子に送りだされ、天正3(1575)年に北畠家当主となったことで、事実上北畠家は織田家に乗っ取られている。
その後は畿内を中心に各地を転戦。天正7(1579)年には信長に無断で伊賀に出陣して惨敗したことで厳しく叱責されている。
信長の死後は、織田家の覇権を握った秀吉に対抗するため、天正12(1584)年に家康を頼って小牧・長久手の戦いを引き起こすも結局は降伏し、やむなく秀吉に臣従。
豊臣政権下では秀吉の転封命令に難色を示したことで一旦は追放されてその後は出家。やがて秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として、再び秀吉の側近となっている。
天下分け目の決戦である関ヶ原の戦いではどちらにも加担しなかったが、長男の秀雄が西軍に属したために所領を失う。その後俗世を離れて暮らし、徳川vs豊臣の戦いである大坂の陣にも関与せず、晩年はのんびりと過ごした。

神戸信孝(のぶたか、1558-83年)

信長の三男、母は側室の坂氏と伝わる。
永禄11(1568)年には、信長が伊勢の神戸氏を降伏させたことで、神戸具盛の養子として送りこまれる。
天正2(1574)年の長島一向一揆の殲滅戦をはじめ、信長の数多くの戦いに従軍。
天正9(1581)年の京都馬揃えでは、長兄信忠、次兄信雄、叔父の信包に次いで四番手であり、織田一門衆の中でも序列が高かったことがうかがえる。
天正10(1582)年には四国攻めの総大将に命じられるも、まもなく本能寺の変が勃発したことで四国攻めが中断。直後には秀吉軍と合流して山崎の戦いで明智光秀を討ち、岐阜城を居城とする。
その後、織田家の覇権争いでは柴田勝家に味方して秀吉に対抗するも、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、最期は自害となった。


羽柴秀勝(ひでかつ、1569-85年)

信長の四男、母は側室の養観院。
羽柴秀吉が子の羽柴石松丸秀勝を亡くしたため、秀吉の養嗣子となる。信長死後の清州会議で丹波を与えられ、丹波亀山城主となる。
秀吉方として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍したが、この頃から病気がちとなり、亀山城で病没した。

勝長(かつなが、?-1582年)

信長の五男、母は不明。実名は織田源三郎信房。
幼少のころ、美濃 岩村城の遠山氏の養子とされた。
元亀3(1572)年には岩村城が武田方に奪われたことで甲府の武田信玄の下に送られ、そこで7年ほどの時を過ごし、天正8(1580)年には織田家に返還されている。
天正10(1582)年の武田攻めに出陣して手柄をあげるが、まもなくして勃発した本能寺の変では信忠の側にいて、明智軍と奮戦して討ち死にした。

信秀(のぶひで、1571?-1597年以降)

信長の六男、母は不明。祖父と同じ名前である。
本能寺の変までの事績は不明。変では美濃の仏照寺に難を逃れていたことが『島本順八氏所蔵所蔵文書』からわかっている。
その後、天正11(1583)年までには近江栗田郡に所領を与えられており、秀吉に仕えた。
また『フロイス日本史』によれば、洗礼を受けてキリシタンになり、天正15(1587)年の九州征伐の際には美しい象牙のロザリオを首にかけていたという。
文禄の役では兵三百を率いて肥前名護屋城への駐屯などの記録が残る。没年は定かではないが、慶長2(1597)年以後であることはわかっている。

信高(のぶたか、1576-1603年?)

信長の七男、母は側室のお鍋の方。
信長死後、美濃大垣城の氏家行広に養育を受け、のちに行広とともに下野国の宇都宮に蟄居したというが、定かではない。
天正19(1591)年に秀吉から近江国に知行を与えられている。
関ヶ原の戦いでは東軍と西軍のどちらに属したかは史料が一定せず、わからない。享年は27という説があるが、これについて『寛政重修諸家譜』では「疑義あり」となっている。

信吉(のぶよし、1573-1615年)

信長の八男、母は側室のお鍋の方。
関ヶ原の戦いでは三成率いる西軍につき、戦後に改易となったという。『寛政重修諸家譜』等によれば、享年は43、京都で没したという。

信貞(のぶさだ、1574-1624年)

信長の九男、母は側室の土方氏。
信長死後は埴原加賀守に養育されたという。のちに秀吉から近江に所領を与えられた。
関ヶ原の戦いには参加しなかったが、戦後に家康の家臣となり、近江の所領を安堵されている。大坂の陣で徳川方として従軍している。

信好(のぶよし、1573-1615年)

信長の十男、母は不明。
『織田家雑録』によれば、他の兄弟同様に近江国に知行があるという。その他に事績はわかっていない。

長次(ながつぐ、?-1600年)

信長の十一男、母は不明。
関ヶ原の戦いでは兄の信吉とともに石田三成方の西軍として出陣し、あえなく戦死した。


徳姫【松平信康室】(とくひめ、1559-1636年)

信長の長女、母は側室の生駒吉乃。松平信康室。
信長と徳川家康が同盟を結んだ証として、永禄6(1563)年に家康の嫡子である松平信康と婚約する。夫との間に長女と次女を儲けるも、天正7(1579)年に夫信康は謀反の疑いで信長に死罪を言い渡され、切腹となる。
信長死後は兄信雄の庇護下で清州に居住。天正18(1590)年、信雄が秀吉の怒りを買って改易になると、実家の生駒氏本領である尾張国に移り住んだ。
関ヶ原の戦いの後は松平忠吉より知行を与えられている。晩年は京都で過ごした。

相応院【蒲生氏郷室】(そうおういん、1561-1641年)

信長の二女、母は側室の養観院。蒲生氏郷の正室。
永禄12(1569)年に蒲生氏郷に嫁がれる。
豊臣政権下の文禄4(1595)年、氏郷が病没した際に秀吉は彼女を側室にしようと考えるが、
彼女は出家して貞節を守った。ただ、一説にはこれが原因で蒲生家は会津92万石から宇都宮18万石に減封されたという。

永姫【前田利長室】(えいひめ、1574-1623年)

信長の三女、母は不明。前田利長室。
天正9(1581)年、わずか8歳にして前田利家の嫡男・利長に嫁がれる。この婚姻は利長が信長から資質を認められてのことという。
本能寺の変の際には上洛途中であったが、信長の死を知った利長は永姫を前田家の旧領である尾張国荒子に避難させ、自らは岐阜城に入ったという。
夫利長が慶長19(1614)年に没すると、出家して「玉泉院」と称して金沢に移り住んだ。なお、実子には恵まれず、兄信雄の娘など二人を養女としている。

報恩院【丹羽長重室】(ほうおんいん、1574-1653年)

信長の四女、母は不明。丹羽長重室。
天正8(1580)年に丹羽長重との縁組が決定される。長重の父で織田重臣の丹羽長秀も織田一族の娘と結婚していたため、織田家と丹羽家は二重の婚姻関係という強い絆で結ばれたことになる。
本能寺の変で信長が横死してまもなく、羽柴秀吉の介添えを受けて近江安土城から坂本城に移り、輿入れしている。
江戸時代に夫長重が家康に従うようになると江戸に移り住み、最期まで過ごした。

秀子【筒井定次室】(ひでこ、?-?年)

信長の六女、母は不明。筒井定次の正室。
『多聞院日記』には天正3(1575)年に筒井定次の婚姻を示す記述がみられるが、一般には天正6(1578)年に縁組したと考えられている。その他に彼女の事績はわかっていない。

於振【水野忠胤室】(おふり、?-1643年)

信長の七女、母は側室のお鍋の方。水野忠胤正室、のちに佐治一成継室。
水野忠胤との婚姻時期は定かでないが、天正年の後半以降(1587年頃以降)と考えられている。二人の間には一男二女を儲けた。
忠胤は関ヶ原の戦いで功をあげて大名に取り立てられるが、慶長14(1609)年に家臣が刃傷事件を起こしたことで改易、切腹させられている。
未亡人となって水野家を離れた於振は、その後織田信包の家臣である佐治一成の嫁となったという。

源光院【万里小路充房継室】(げんこういん、?-1600年)

信長の八女、母は不明。万里小路充房の継室。
万里小路充房に嫁いだ時期は定かでないが、天正14(1586)年の時点で充房には正室がいたことが確認できているので、それ以降ということになる。万里小路充房は公家であり、この縁組は秀吉が介入していると考えられている。
慶長2(1597)年には秀吉から三百石の知行を与えられている。充房との間に一男四女を儲けた。

三の丸殿【豊臣秀吉側室】(さんのまるどの、?-1603年)

信長の九女、母は側室の慈徳院。豊臣秀吉の側室、のちに公家の二条昭実の継室。
いつ頃秀吉の側室になったのかは定かでない。「三の丸殿」の呼称は伏見城の三の丸で過ごしていたことから名付けられたと考えられている。
良質な史料の初出は『大かうさまくんきのうち』にみえる慶長3(1598)年の醍醐の花見である。この史料では当時の秀吉の妻の序列が反映されており、三の丸殿は正室の北政所、淀殿、松の丸に続いて4番目の地位だったと考えられている。
なお、秀吉死後は二条昭実の継室に迎えられているが、その経緯はわかっていない。

鶴姫【中川秀政室】(つるひめ、?-?年)

信長の十女、母は不明。中川秀政の正室。
『織田家雑録』によると、中川秀政の父である清政が荒木村重の討伐に功をあげたことから縁組がされたといい、二人の間に子はいなかったという。

月明院【徳大寺実久室】(げつみょういん、?-1608年)

信長の十一女、母は不明。公家の徳大寺実久の正室。
『織田家雑録』に没年、法名、子の名前しか記されておらず、その他は一切わかっていない。

慈眼院(じげんいん、?-1641年)

信長の十二女、母は不明。
天正8(1580)年に織田・北条両家での縁組が成立し、北条氏直の婚約者になったとされる。しかし、本能寺で信長が横死したため、縁組は消滅したとみられている。

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いかがでしたか?信長の妻子総勢29名も取り上げましたが、全く知らない人物も多かったのではないでしょうか。簡単にお伝えしてまいりましたが、ここで少し要点をまとめます。

まずは信長の男児についてですが、六男以下の事績はハッキリしておらず、一部の史料の情報から以下のような疑問点が浮かび上がっているようです。

  • 七男の信高は八男以下ではないか
  • 十男の信好は八男ではないか
  • 一部の系図類に登場する「信正」という人物は実在したのか

次に女児について。信長女児の多くは誕生年が不明のため、年齢順に並べるのは難しいようです。また、実在が確かなのは慈眼院を除く10人としています。

こうしてみると実に多くの子がいた信長。そんな彼の意外な女性観がわかる記事もご用意してますので、もしよかったらご一読ください。





【参考文献】
  • 歴史読本 編集部『物語 戦国を生きた女101人』(KADOKAWA/中経出版、2014年)
  • 谷口克広『尾張・織田一族』(新人物往来社、2008年)
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版、2000年)
  • 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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