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【麒麟がくる】第22回「京よりの使者」レビューと解説

東滋実
 2020/09/02

「麒麟がくる」第二十二回レビュー用

「麒麟がくる」がやっと再開されました。冒頭で永禄7(1564)年冬であることが説明されましたが、ドラマ中断前のラストが永禄3(1560)年の桶狭間の戦いだったので、随分空白の時間があるように思えます。

もちろん、史実では光秀の登場は永禄11(1568)年なので空白なのは当然なのですが、22話を観ると、この時間は義輝が苦しみ、諦めるに至った時間でもあるのだと思えます。
(文=東 滋実)

吾妻鏡

冒頭に光秀が読んでいた書物は『吾妻鏡』でした。これは鎌倉幕府の始まりから中期ごろまでの歴史を記した歴史書で、鎌倉時代末期ごろに編纂されたとされています。

光秀が読んでいたのは25巻で、承久の乱が起こった年である承久3(1221)年です。ちなみに源氏三代はすでに滅んでいて、このころは北条政子が鎌倉殿(幕府の棟梁)を務めていたころ。

承久の乱といえば、後鳥羽上皇に朝敵とされ、逆に朝廷を攻めて勝利した北条義時が再来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公です。ここでちょろっと『吾妻鏡』が出されたのはそれが関係しているのでしょうか。

読んでいたところはちょうど政子の演説のあたり。御家人たちは朝敵にされることにひるんでいます。そんな御家人たちを奮起させてまとめたのが、ざっくり言うと「お前たち、頼朝公の恩を忘れたの?」という政子の演説でした。

将軍への忠義。今、義輝の代ではないがしろにされているものです。

義輝は朝廷を軽視していた?

一方、京では関白近衛前久(さきひさ)が困っています。1564年は甲子(きのえね)で、昔から改元が行われる年でした(60年に一度)。甲子は「甲子革令(かっしかくれい)」といって、古くから変革・変乱が多い年と考えられてきたのです。

故に朝廷は改元したいのですが、改元は将軍が帝にお伺いをたてて行うのが慣例のため、義輝が動かないと改元できない、ということ。その義輝がお伺いをたてようとしないので、前久は困っているのです。

劇中で義輝自身が語ったように、義輝にとって改元といえば苦々しい思い出です。正親町天皇が即位して弘治から永禄に改元された時、義輝は長慶に敗れて近江の朽木にいました。義輝が京にいない間に、義輝に何の断りもなく改元が行われたのです。

朝廷は義輝ではなく、長慶に相談して改元を行っていたのでした。義輝は当然怒り、改元後しばらくは「弘治」を使い続けたといいます。

この一件があって、義輝は朝廷を信用していない。「改元したいならまた長慶に頼めばいいじゃん、実権握ってるのは長慶だし」という気持ちですよね。

この数年後、義輝は三好義継や三好三人衆らによって殺害されます(永禄の変)。

その原因について、『信長公記』には「義輝が朝廷を軽視したからだ」と信長が述べたと記されています。実際、劇中で藤孝や藤英が嘆いていたように義輝は将軍としての仕事を疎かにしており、内裏には5回しか参内したことがなかったとか。

この説が反映され、義輝は朝廷を嫌っているように描かれたのかもしれません。

能「箙(えびら)」と武士の美学

義輝側近の藤孝は、越前の光秀を訪れました(ここで藤孝とたま、義父と息子の妻の初対面がなりました)。義輝が能を観るのに光秀を呼んでいるというのです。

藤孝や藤英が言うには、義輝は光秀に長慶暗殺を命じるつもりだ、と。しかし、能を観終わった義輝は、それを頼むのをやめた、と言うのです。何が義輝の考えを変えさせたのか。

直前に観た能は「箙(えびら)」です。これまた源氏に関係するお話なので、22話は源氏三昧ですね。

「箙」のエピソードを少し紹介しましょう。

西国から都に向かう途中の僧が、摂津の生田川のあたりで梅を眺め、通りかかった男に梅の名の由来を尋ねると、これは「箙の梅」と呼ばれるものだという。源平合戦の折、頼朝家臣の梶原景時の嫡男・梶原景季が箙に梅の花を挿して戦ったことに由来すると説明すると、男は自分が景季の亡霊だと明かす。

景季が梅の花を挿して戦ったのは、一の谷の戦いです。箙に梅を挿して戦う景季は、武骨な坂東武者も雅を解するのだ、と敵味方問わず称賛されたとか。

箙の梅は、戦場にあっても美しくあろうという武士の美学なのです。「思い通りにならないなら長慶を殺してしまおう」という義輝の考えは武士の美学に反する。義輝は能を鑑賞しながらそう思ったのではないでしょうか。

かつて「武士の棟梁として天下に号令せねば世は平らかにならぬ」と言った光秀に、自分もそうありたいと行動で示した義輝。麒麟が訪れる世にしたいと願った義輝の、将軍としての矜持が暗殺を思いとどまらせたのかもしれません。

覚慶

覚慶、のちの第15代将軍・足利義昭が登場しましたね。将軍家では跡継ぎ以外の男子は仏門に入るのが慣例で、義昭も大和国(奈良県)の興福寺一乗院の門跡となっていました。

覚慶が民に食べ物を配る姿を見た駒は、声をかけます。短い登場でしたが、「これくらいしかできない」と言う覚慶もまた、義輝のように上に立つ者として志をもった人物のように思えます。

長慶の死はいつか

今回、最後に三好長慶が亡くなったとナレーションで説明されました。よくあるナレ死ですが、ちょっとアレ?と思った方は多いのではないでしょうか。

今回の冒頭、スタートは永禄7(1564)年冬でした。そして、長慶が亡くなったのはこの年の7月4日、つまり夏なのです。ちょっとおかしいじゃないかと思いますよね。

おそらく、今回の能や改元のあれこれが起こったころは、長慶はすでに亡くなった後で、三好方は長慶の死を隠していたのだと思われます。久秀は継室・広橋保子(同年3月19日没)の喪中だと言っていましたが、長慶のことはひた隠しにしていたわけです。

実際、長慶の死は2年もの間秘密にされ、永禄9(1566)年6月24日に葬礼が行われています。つまり、義輝が暗殺だなんだと悩んでいたころにはすでに亡くなっていたわけです。

永禄8(1565)年に義輝は殺害されますから、最後まで長慶の死を知らなかった可能性もあります。次回、その義輝殺害事件「永禄の変」に向かって動き始めます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 長江正一著・日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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