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【麒麟がくる】第30回「朝倉義景を討て」レビューと解説

東滋実
 2020/11/04

「麒麟がくる」第三十回レビュー用

放送中断前に登場してからしばらく見なかった帰蝶が久しぶりに登場した回でした。今回のタイトル、帝の言葉かと思いきや、帝の勅命は名目上「若狭の武藤を討て」。劇中で義景を討てと言っているのは帰蝶なんですね。

帰蝶Pと呼ばれたりして、フィクサーっぷりは健在です。東庵は帝と碁を打っていたりするし、あなたたちはいったい何者なのか。

名物を集める信長(名物狩り)

家族に会うために、という理由で美濃の岐阜城を訪れた光秀。ここでごく短い場面ですが、松永久秀が名物茶器に値をつけているシーンがありました。

信長は茶の湯を好んだ人として知られますが、いつごろから興味を持ち始めたのかははっきりしません。ただ、『信長公記』を見ると、信長が名物を集め始めた(漁り始めたと言ってもいいかもしれません)のは、上洛後の永禄12(1569)年からでした。

この年、渡来品美術工芸品や名物茶器を、松井友閑(元幕臣、信長の右筆)や丹羽長秀らに召し上げさせたという記録が残っており、同じことは翌年の元亀元(1570)年にも行われています。

信長は金銀・米銭には困らなかったので、その資金力を使って名物を所有している人から次々と召し上げたのです。その中には松永久秀もいました。

信長の名物狩りは、単純に茶器をコレクションして楽しみたいという思いだけで行われたのではなく、名物を所有することで権威を高める、また名物を恩賞として家臣に下げ渡す目的があったといわれます。

「空よりやふりけん、土よりやわきけん」

帰蝶に「お討ちなされ」と言われて朝倉討伐の決心を固めた信長でしたが、一人で朝倉を討つことはできません。そこで悩む信長に光秀は、昔読んだある書物の話をします。

「尊い仏は誰から仏の道を教わったのか」

これは吉田兼好の『徒然草』最後の段である第243段の話です。兼好法師が8歳のころ、父に「仏とはどんなものか」と尋ねたエピソードです。

父が「仏は人間がなっている」と答えると、兼好法師は「では人間はどうやって仏になるのか」と尋ね、「仏の教えによって」と答えると、「その仏は誰に仏の道を教わって仏になったのか」と尋ねるのです。

光秀が語ったのはこのあたりから。

「教へ候ひける仏をば、なにが教え候ひける」と。又答ふ、「それも又、さきの仏の教へによりて成り給ふなり」と。又問ふ、「その教え始め候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」といふ時、父「空よりやふりけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。 「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。  (『徒然草』第243段より)

光秀は「空より降ってきたものから」と言っていましたが、兼好法師の父は「天から降ってきたのであろうか、土から湧いてきたのであろうか」と、問い詰められて答えられなくなったようです。

光秀は道に迷った時、空から降ってきたものに聞いてみたいと思うのだと言いました。これも先週の天道思想に通じるものですね。親子の問答という点でも先週の信秀・信長親子エピソードと重なります。結局一番偉いものと言ったら天なのです。

信長はこの光秀の話にヒントを得て、帝に会おう、と考えるのでした。

昇殿を許される身分とは?

とはいえ、この時点の信長は帝にホイホイ会えるような身分ではありません。

「平清盛」を観ていた人ならよく覚えているでしょうが、清涼殿の殿上の間に昇ることを許されているのは上達部(かんだちめ)、つまり参議以上の公卿(三位以上、場合によっては四位以上)が原則で、そうでない四位、五位の者は「殿上人(てんじょうびと)」といって特権的に昇殿を許されました。

蔵人の場合は六位でも昇殿が許されていましたが、信長はこれにも当てはまりません。

おそらく信長は内裏の南門を修復したこともあり、昇殿を特別に許されたのでしょう。『信長公記』にも、永禄12(1569)年に信長が内裏の修理をしたという記録があります。

実際に信長が昇殿を許される参議になるのは天正2(1574)年のことです。しかし、正親町天皇にまでほめてもらった信長、この信長はほめられるのが大好きですから、俄然やる気がわいたことでしょう。

武藤なにがし

朝倉を討つための大義名分を得ようと帝に拝謁した信長ですが、帝の勅命は「若狭の武藤を討て」というもの。本命は朝倉ですが、名目上は武藤討伐です。

この武藤というのは、若狭守護の武田氏家臣である武藤友益のことでしょう。武田氏家臣ではありましたが、元亀元(1570)年ごろは朝倉氏に仕えています。信長はこの武藤友益討伐を口実にして朝倉討伐へ向かうことになります。

動かない幕府

勅命を下されたからには幕府も動いてくれよ、というのが信長の思いだったのですが、光秀がその旨を伝えに行ったところ、義昭の答えは「都に留まり吉報を待つ」というものでした。

義昭は戦を好まず、そうでなくても朝倉には恩があるのです。これは側近の三淵藤英らの意見も一致しています。彼らには義景の子を暗殺した負い目もありますしね。直接この戦に関わりたくはない。

義昭は、「戦があれば和議の仲立ちをいたすのが将軍の務め」と言います。兄の義輝こそ、地方の大名同士の争いを調停して、地方大名との関係を築いていった人でした。

三好に実権を奪われて戦の仲立ちくらいしかできなかったと言えますが、逆に考えれば仲立ちするだけの権威はまだ将軍にあったということです。

兄を見てきた義昭にとっても、それが将軍にしかできない務めであると考えているようです。

金ヶ崎の退き口

次回、越前へ侵攻して朝倉義景を討たんとする信長。

この越前への侵攻は失敗に終わることになります。同盟関係にあった浅井長政に裏切られて背後から狙われることになり、突如危機に陥る織田軍。いわゆる「金ヶ崎の退き口」と言われる金ヶ崎の戦いです。

信長を無事に逃がすため、撤退戦で殿を務めたのが光秀と秀吉であったと言われます。

信長包囲網が形成され始め、金ヶ崎の退き口で活躍したこのあたりから光秀が織田家中で頭角を現し始めるところ。信長と義昭の関係の変化がどのように描かれるのか、その中で光秀はどう考え、信長に仕えることを決めるのか。


【主な参考文献】
  • 校注・訳:神田秀夫・永積安明・安良岡康作『新編日本古典文学全集44 方丈記・徒然草・正法眼蔵随聞記・歎異抄』(小学館、1995年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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