【解説:信長の戦い】金ヶ崎の退き口(1570、福井県敦賀市) 信長、秀吉、家康、光秀に試練…信長の義弟である浅井長政がまさかの裏切り!
- 2023/04/07
「金ヶ崎の退き口(かねがさきの のきくち)」は度々ドラマなどでも描かれてきた、織田信長の有名な退却劇です。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の活躍をご存知の方も多いと思いますが、実はあの有名人も殿軍(しんがり)を務めていたようですよ。
合戦の背景
永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。それからおよそ1年間、二人は蜜月関係にありました。書状と五カ条の条書
永禄13年(1570)1月23日には、信長は諸国の戦国大名たち(畿内や近国の大名・国人たちを中心に、徳川家康・武田信玄・出雲の尼子氏など広範囲に及ぶ)に対して、こんな書状を送っています。「禁裏御修理、武家(将軍)御用、その外天下いよいよ静謐のために、来たる中旬(二月中旬)参洛すべく候の条、各々も上洛ありて御礼を申し上げられ、馳走肝要に候。御延引あるべからず候」
ざっくりとした意味としては、「自分(信長)は2月上旬に上洛するから、みんなも上洛してね」ということですね。この書状、あなたならどう読み取るでしょうか? 自分も天皇と将軍に挨拶しないとな~、と素直に考えることはできますか?
また、書状を大名たちに送ったのと同じ日、信長は足利義昭に五カ条の条書を承認させています。これについてご存じない方も、以下の記事をみていただければ信長の真意がわかると思いますよ。
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すなわち信長は、天皇や将軍(幕府)といった権威を利用して、みんなを従わせてしまおうということですね。信長、恐るべし・・・。
従う者、従わない者
さて、信長の書状を受けた大名たちは、続々と上洛してくることになります。例えば、三好義継、松永久秀、北畠具房、徳川家康、大友義鎮などなど。大友義鎮など遠方の大名の場合は、使者を派遣しました。
一方、近国にも関わらず、これを無視したのが越前の朝倉義景でした。
表向きは「天皇と将軍への挨拶」というものでしたから、これを拒否した義景は「叛意あり」という理由により、信長に討伐の機会を与えてしまったのです。
合戦の経過
元亀元年(1570)4月20日、朝倉攻めの大義名分を得た信長は3万の大軍を引き連れ、京都を出陣します(『言継卿記』)。天皇・将軍公認の戦い
このとき従軍したのは信長の家臣だけでなく、松永久秀や池田勝正といった幕臣、さらには飛鳥井雅敦や日野輝資といった公家までもいたというから驚きです。なぜなら、信長は今回の戦いについて、天皇の勅命と将軍の上意を得ていたからです。これまでの戦いとは、まったく性格が違いますね。ということは、天皇と将軍(義昭)が朝倉義景の討伐を公認したということになりますね。
義昭といえば上洛前、2年間ほど越前の朝倉のもとに身を寄せていたことがあります。恩人に対する討伐にGOサインを出すほど、義昭は薄情な人間だったのでしょうか。
名目は朝倉討伐ではなかった?
この点について、信長が毛利元就に送った手紙には、とても気になることが書かれていました。「若狭の武藤友益が反抗的だから討伐の公認を得たけど、武藤に圧力をかけてるのが越前の朝倉だとわかったから、越前に向かったよ」
これを素直に読むと、公認を受けた時点では、武藤友益の討伐が目的だったということですね。そうなると、今度は武藤友益という人物が気になってきます。信長が3万もの兵力をもってして、戦いに臨むような強い相手だったのでしょうか。武藤は後日、丹羽長秀と明智光秀が簡単に降参させたような相手といいますから、そんなに強くはなかったようです。
以上の条件を整理すると、信長のこんな筋書きが見えてきませんか?
- 朝倉を攻めたい
- 義昭は朝倉攻めを認めないだろうから、武藤友益の討伐を公認してもらう
- 出陣後、いいがかりをつけて朝倉を攻める
つまり、武藤を攻めるのは口実で、はじめから朝倉を攻めるつもりだったのではないでしょうか? 弱い相手にもかかわらず大軍を用意したのも、それが理由だったのかもしれません。
手筒山城の攻撃
4月23日、信長軍は若狭の佐柿国吉城(現三方郡美浜町)に入りました。ここから西に向かうと、武藤友益のいる佐分利(さぶり)郷に到着します。ところが信長は25日、東へと軍を進めました。その先には、朝倉方の手筒山(てづつやま)城(現敦賀市)があったからです。
標高171メートルの山上に築かれた手筒山城に、信長軍は猛攻を繰り返しました。討ち取った敵方の首の数は1370とのことなので(『信長公記』)、味方にもかなりの損害が出たことが想像できます。
このような激しい戦いの末、手筒山城はその日のうちに落城しました。
金ヶ崎城の降参
翌26日、信長軍は朝倉景恒(朝倉義景の従兄弟)の守る、金ヶ崎(かねがさき)城の攻略に取り掛かります。しかし、手筒山城での戦いがほぼ殲滅戦の様相を呈していたこともあり、金ヶ崎城の戦意はすでにそがれていたようです。そのため景恒はあっけなく降参し、南方にあった支城の疋壇(ひきだ)城(現敦賀市)も戦うことなく開城しました。
こうして信長は、たった2日間で敦賀郡を占領してしまったのです。
金ヶ崎の退き口
同盟者・浅井の離反
しかし、この勢いで朝倉義景を追い詰めるぜ~! と思っていただろう信長ですが、にわかには信じられない情報を耳にしました。それは同盟者であり、義弟である浅井長政が離反し、朝倉方についたという報せです。長政は北近江を分国としているので、越前国を攻めるために木ノ芽峠(現敦賀市・南条郡南越前町)を目指すと、敵に挟まれる形になってしまいます。そこで信長は、即座に退却を決断しました。
とはいっても、これまで進軍してきた西近江路は、浅井氏の勢力圏です。退却するのには危険すぎますよね。よって信長は、最も危険が少ないと考えられる若狭街道から撤退することにしたのです。
さらに朝倉軍が追撃してくる可能性があるため、殿軍(大部隊の最後尾)として、金ヶ崎城に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)・明智光秀・池田勝正の軍を残しました(『武家雲箋』)。
金ケ崎の退き口というと、どうしても秀吉のイメージが強いですが、それは誤りのようですね。
朽木越え
信長は28日の夜、少数の者たちを引き連れ、金ヶ崎城から退陣します。途中、浅井と主従関係を結んでいた朽木(くつき)元綱の所領を通るため、元綱は信長一行を通してくれるのかという懸念がありました。しかし朽木氏は独立性が強く、以前に義昭が本領を安堵していたことなどもあり、むしろ一行を歓待してくれたのです(朽木越え)。
こうして信長は30日の夜、なんとか京都に戻りました。このとき従っていたのは、たったの10人ほどだったそうです(『継介記』)。
おわりに
信長が他の諸大名たちに上洛要請をしたのは、天皇や将軍の権利を利用し、統一事業を進めようという信長の目論見でした。これに従わない朝倉氏を攻めたものの、途中で義弟の浅井長政の裏切りは、信長にとって大きな誤算だったようですね。怒りに震えたであろう信長はこの出来事ののち、打倒浅井・朝倉に執念を燃やすことになるのです。
【主な参考文献】
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
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