【麒麟がくる】第34回「焼討ちの代償」レビューと解説

東滋実
 2020/12/01

「麒麟がくる」第三十四回レビュー用

皆殺しにしろという信長の命令を、自分の一存で曲げて女子供を逃がした光秀。仏の顔は三度までありますが、信長に二度目以降はありません。

比叡山焼き討ちは必要だったと割り切ってはいる光秀ですが、信長のやりようには混乱していて。今回は光秀が抱える矛盾を他者から指摘され……。幕府と決別する時も近いようです。

南都を焼き尽くした松永久秀?

比叡山焼き討ちの後、義昭は戦禍を被った人々を二条城に受け入れ、治療させました。この時二条城を訪れていた筒井順慶は、駒に「(久秀によって)東大寺、興福寺、南都はことごとく焼き尽くされました」と語っています。信長のやりように、久秀の所業を重ねて。

久秀が東大寺を焼いたという戦があったのは、永禄10(1567)年のことです。久秀と三好三人衆の戦いで、順慶は三好三人衆側にいました。

のちに、信長が家康に久秀を紹介した時、久秀3つの悪行のうちのひとつとしてこの一件を挙げたという逸話がありますが、久秀が焼いたというのは諸説あるうちのひとつに過ぎません。

三好方で、イエズス会に入信していた者が放火した説(フロイス『日本史』)もありますし、近年では三好方の失火であったという説が有力です。

34話の後半で、久秀は「神仏をあそこまで焼き滅ぼすほどの図太さはわしにはない。あれば天下をとっていた」と語っています。それに、「大和が好きだ」「大和は美しい」とも。ここからも、南都を焼いたのは久秀の本意ではなかったと読み取れます。

光秀嫡男・十五郎

光秀の嫡男・十五郎が初登場しました。十五郎は通称で、『明智軍記』では「十兵衛」の名で伝わっています。まだ乳児のようですが、この十五郎がいつごろ誕生したかはよくわかっていません。史料に名は登場するものの、系図によっては名がなかったりして実像がよく見えてこない人物です。

「おんな城主 直虎」では、井伊谷に落ち延びて生き延びた光秀の子として自然(じねん)が登場しました。この子もまた、『明智系図』には見られるものの別の系図には名はなく、よくわかりません。そのほか、筒井順慶の養子になったとされる男子など、光秀には多くの子がいたとされています。

十五郎光慶は山崎の戦いの後も生き延びたという説があります。私たちがよく知る光秀の肖像画は岸和田の本徳寺に所蔵されているのですが、この本徳寺の開祖・南国梵桂=光慶説があります。つまり、あの肖像画は光秀の子によって描かれたものかもしれない、ということ。

今回は光秀の子どもたちのシーンが多かったですね。長女の岸は手習いをしていて、左馬助に教わっているような描写がありましたが、このふたりはのちに夫婦になります。

次女のたまは市場に出かけ、比叡山を焼いた光秀を恨む人物に怪我を負わされてしまいます。父の死後も生き残ったたまは父の罪と向き合いキリスト教に出会うわけですが、子どもの時分から父の罪を肌で感じていたという描写でした。

この時のたまはまだ母の言葉を借りて「やむを得ず戦をなさっている」「父上は悪くない」と慰めますが……(この後しっかり駒から「戦にいい戦も悪い戦もない」と刺される光秀)

「麒麟がくる」では、光秀の子どもたちの運命はどのように描かれるのでしょうか。

道を教える者を持たぬ者

光秀は、幕府が松永久秀と筒井順慶の戦に首を突っ込んで信長と敵対するつもりであると聞き、戦を回避しようと動きます。

順慶とともに堺の今井宗久の茶会に訪れた光秀は久秀と面会。この時久秀は易占の最中でした。易占に使うあの棒、筮竹(ぜいちく)といいますが、竹製のものが広まったのは江戸時代のことでした。古くは蓍(めどぎ)という植物の茎を用いたようですから、戦国時代にこのように占うのもなくはないのでしょうか。

久秀は、亡き母が「母がいなくなったら叱ってくれる者はどこにいるのか」と言われたそうで、孔子も50過ぎては易で道を決めたというので、自分も戦の前は易占をするようになったのだと言います。孔子が晩年に易を好んだ(『周易』を愛読した)ことは『史記』孔子世家に見えます。

続けて久秀は、「道を教える者を持たぬ者は闇を生きることになる」と言います。

信長には導いてくれる光秀がいますが、光秀には?若いころは道三が道を示してくれましたが、もういません。

本能寺の変の前、光秀は愛宕山で連歌会を開いています。この時、愛宕神社で籤を引いた(いい籤が出るまで数回引いた)という逸話があります。今回の久秀の言葉はその伏線なのでしょうか。でも戦の前に神仏の加護を頼むのはよくあることですからね。

初花

易占の結果が知りたいと言う順慶に、久秀はこの唐物の肩衝茶入を千貫で買うと言うなら教えてやろうと言います。それに対して順慶は、「十貫なら」と言い、四年前に見た「初花」こそ千貫の値打ちがあると語りました。

久秀が出した茶入れが安物だとすぐに気づく目と、名物茶器の初花に言及する教養の高さ。教養人らしいやりとりですね。

初花とは、現在重要文化財に指定されている「唐物肩衝茶入銘初花」という茶器で、永禄12(1569)年の信長の名物狩りの際に召し上げた品のひとつとして『信長公記』に記録されています。

信長と義昭は水と油

久秀は、上洛した時から信長と公方様はいつか袂を分かつと思っていた、と言います。ふたりは「水と油ほどにも違う」と。

比叡山焼き討ちにはさすがの久秀もドン引きで、光秀も「私も松永様と同じ」と言いますが、久秀はこうも指摘しました。「所詮、信長殿とおぬしは根がひとつ。公方様とは相容れぬ者たち」であると。

古きものを守ろうとする義昭と、破壊しようとする信長は相容れない。光秀は「皆殺しはやりすぎ」と自責の念を抱いてはいるものの、焼き討ち自体は必要なことと判断していたわけで。

正親町天皇は「信長のほかに誰が覚恕を追い払うことができたであろうか」と言っています。信長のほかにできる者はいなかった。だから覚恕がやりたい放題していたわけです。見事追い払ったのは信長。そして信長をそこに導いた戦の功労者は光秀です。根っこは同じで、光秀も義昭とは相容れない。

「やむを得ない戦だった」と娘に慰められた直後に「いい戦も悪い戦もない」と言われ、自分自身は「破壊者信長を恐れる側」のつもりが「信長殿とおぬしは根がひとつ」と指摘される。光秀はまだジレンマを抱えていて、矛盾しています。信長と幕府の対立が表面化するとまた少し心も定まるのでしょうか。

今回おそろしかったのは、「褒めてほしい」信長の性質を見抜き、無残な戦だったと思いながらも「褒めてほしそうであった」だから「褒めてやった」正親町天皇です。

このふたりの関係については正親町天皇の譲位問題も描かれるでしょうし、朝廷は本能寺の変に絡んでくる可能性もあります。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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