本能寺の変「朝廷黒幕説」 ~ 信長は天皇にも恐れられた?
- 2021/10/14
本能寺の変と言えば日本史上最大のミステリーとも言われ、光秀謀反の理由については、実に様々な仮説が挙げられている。その仮説の中で、最近小説やドラマなどの題材としてよく取り上げられるのが「朝廷黒幕説」である。
説の裏には当然それなりの根拠が存在するはずであるが、「朝廷黒幕説」の根拠となるものは何であろうか。順を追って解説していきたい。
説の裏には当然それなりの根拠が存在するはずであるが、「朝廷黒幕説」の根拠となるものは何であろうか。順を追って解説していきたい。
信長と正親町天皇の関係
朝廷黒幕説の本命と言えば、正親町天皇(在位1557年~1586年)であるが、信長との関係はどうだったのであろうか。信長と言えば、古い体質を毛嫌いしていたというイメージがあるが、天皇の権威は十分理解し、これを上手く利用していたというのが最近の定説である。また、正親町天皇も当時朝廷の財政支援を大々的に行い、天皇の権威を回復させた信長に大いに感謝の意を表していたという記述も残されている。
この2人の関係が暗転するのが「譲位強要」問題であるという説がある。
『孝親公記』によると、天正元年(1573年)の12月に信長は正親町天皇にたびたび譲位(=後継者へ譲り渡す行為のこと。)を申し入れた、とある。これを信長が暗に譲位を強要したととらえれば、2人の関係が暗転する原因の1つと考えられるだろう。
ただ1つ気になるのは、『宸翰英華』では、天皇からの受諾と歓迎の女房奉書があったとされている。これを文字通りに取れば、むしろ正親町天皇自身が譲位したがっていたということになる。
この譲位の話は信長側から延期要請があったため、とりあえずは中止となる。そして、譲位の話が再び持ち上がるのは、『信長公記』によれば、天正9年(1581年)3月のことであるが、これまた延期となっている。その間に天皇と信長の関係は、安土行幸の噂が流れる等、少なくとも表面的には、そう悪くなかったようである。
しかし、朝廷の関係者は一筋縄ではいかないタイプの人物も多く、好意的なコメントを真に受けるのは危険という見方もできる。朝廷全体の動きを調べてみる必要がありそうである。
本能寺の変直前の朝廷の動向
当時の武家伝奏で織田信長や豊臣秀吉等と交流のあった勧修寺 晴豊(かじゅうじ はるとよ)の日記 『天正十年夏記』 によると、天正10年(1582年)4月には、武田を滅ぼした信長の戦勝祝いに安土を訪れたことが記されている。同4月25日には「太政大臣か関白か将軍かいずれかお好きな職に任ずる」という、「三職推任」の話が出ている。5月4日に晴豊は再び、「朝廷の意向としては、将軍になって頂く用意がある」と告げている。
信長がどのような返答をしたのか日記からは判然としないが、文脈から考えると拒否回答だったという説が近年は有力である。
この時点では吉田兼見などの公家も度々安土に訪れており、朝廷サイドが信長のご機嫌取りに奔走している様子がわかる。ところが、本能寺の変前日の6月1日の記述には、若干の変化が見られる。
本能寺での茶会の席で、信長は三職推任については返答せず、12月に閏を設けたい、と三島歴の採用を申し入れるが、晴豊は「(朝廷の者は)皆反対している」とこれを拒否。このいわゆる暦問題は同年の正月から始まっていたのだが、結局は宣明暦(京暦)が正しいという結論に達している。
6月1日は日食があったが、宣明暦はこれを予測できなかったため、信長はもう一度暦問題を蒸し返したのではないかといわれている。
晴豊が朝廷に相談もせず、独断で言下に拒否していることには少々違和感を覚える。信長は武田を滅ぼす以前は征夷大将軍の官位を望んでいたとも言われる。それがいざ武田を滅ぼすという段になると、返答を保留していることに朝廷は疑念を抱いたのかもしれない。
本能寺の変直後の朝廷の動向
本能寺の変後の数日間は朝廷内部でも慌ただしい状況であったことが『天正十年夏記』の記述から読み取れる。ところが、6月6日には正親町天皇が吉田兼見を勅使として安土城にいる光秀のもとに送っている。実は正親町天皇は本能寺の変の後、1週間に3度も勅使を派遣しているのである。
『明智光秀公家譜覚書』によると、この時期に光秀は参内し、従三位・中将と征夷大将軍の宣下を受けたという。これは他の資料に同様の記述が全く見られないことから、その真実性が疑われているが、まだ大勢が判明していない中で書状での宣下を避けたと考えることもできる。ただ、気になるのは、この時点での征夷大将軍は依然として足利義昭であるという点である。
宣下の話が真実だとすると、義昭に相談せずにいきなり光秀に宣下を下すということは考えにくい。本能寺の変から程なくして光秀に宣下の話があったということは、変の前から宣下の話が持ち上がっていたことになる。
いずれにしろ、本能寺の変後の朝廷は、織田方と距離を置いていたことがうかがわれる。正親町天皇の織田方への働きかけは、はっきりと記述されたものはなく、『天正十年夏記』の6月9日の記述に
今日河内へ手遣候由候
とあり、当時河内にいた織田信孝・丹羽長秀軍に使いを送ったことを匂わせるような記述があるのみである。
明智光秀と朝廷の連携は?
『天正十年夏記』は本能寺の変前後の記述が詳細であることから、第一級の史料として、引き合いに出されることが多いのであるが、6月9日の日記には天晴。早天済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。
とある。
これは山崎の合戦後に光秀の重臣である斎藤利三が刑場へ向かう姿を記述しているのだが、「信長打談合衆」というところが朝廷陰謀説の証拠の1つとして挙げられることが多い。つまり「我ら公家と信長を討つことで談合した者」が利三だという解釈である。
しかし、この時代の「談合衆」とは「武家の近臣集団」という意味合いが強かったと言われ、そのように解釈すると「光秀と談合した近臣たちの一人」ということになる。
これは後で追及されたときの逃げ口上とするために、わざとどちらとも取れるような記述にした可能性もあるというのが私の見立てである。
朝廷黒幕説の賛否
ドラマや小説の題材としては未だに好んで用いられる「朝廷黒幕説」であるが、歴史学の世界では、確たる証拠となる史料が見つかっていないということで下火となりつつあるようである。しかし、『兼見卿記』や『天正十年夏記』を読むと、武田を滅ぼした直後と本能寺の変の直前では、信長に対する振る舞いが明らかに違っているのは確認できる。
── 朝廷は最大のスポンサーであった信長を何とか朝廷のシステムに取り込もうと散々にゴマをすったが、全く応じられずに三職推任も事実上無視された。そして、天皇の専権事項である暦の制定にまで口を挟む信長に底知れぬ恐怖を覚えた ──
このような事実だったとしても無理はなかったであろう。極めて巧妙に仕組まれた陰謀が存在した可能性はゼロではないような気がするのである。
【主な参考文献】
- 小和田哲男『明智光秀 つくられた謀反人』PHP研究所、1998年
- 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』PHP研究所、2014年
- 藤田達生 『謎とき本能寺の変』講談社、2003年
- 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年
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