徳川vs武田の最前線!遠江「高天神城」の歴史について

帯刀コロク
 2021/03/24

平地を中心に、天守などを備えた政庁機能を有する「近世城郭」に対し、山岳地帯の自然地形を利用した「中世山城」といった要塞の分類があります。

戦国時代には両者の特徴を兼ね備えた過渡的なタイプの城も登場しますが、依然として山城は強力な砦であり続けました。
特に拠点防衛を担う優れた山城は勢力範囲を決定するほどの影響力をもったため、しばしば争奪戦の舞台ともなりました。
その代表格のひとつが、遠江の「高天神城」ではないでしょうか。


徳川氏と武田氏がその覇権を巡って激突したことで知られ、信玄が攻略できなかったものを息子の勝頼が手中にしたという経緯も有名です。今回はそんな、高天神城の歴史について概観してみましょう!

高天神城とは

高天神城は現在の静岡県掛川市に所在した山城です。
鶴翁山あるいは高天神山と呼ばれる標高約132メートルの山に築かれ、規模は大きくないものの非常に防御力の高い山城だったことが知られています。


本丸・二の丸・帯郭・空堀・土塁などの跡が残り、石垣は確認されていないものの巧みな郭配置によって実戦での能力を発揮した、戦う城の典型ともいえるでしょう。



高天神城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

築城年代には諸説あり、平安時代から15世紀終わり頃までの伝承や記載があるとされていますが、確実な例は16世紀初め頃と考えられています。これは今川氏親の遠江進出に伴う軍事行動の一環であり、16世紀初め頃以降の多くを、国衆の小笠原氏が城主として務めていました。


永禄3(1560)年には高天神城から城兵が桶狭間へ向けて出陣したことが記録されていますが、今川義元の討死により、遠江の勢力図は激変。永禄11(1568)年には当代城主・小笠原長忠が徳川家康に臣従することを選択します。

以降、当城は南進を目論む甲斐武田氏と、遠江の権益を死守する徳川氏とのせめぎあいにおいて最前線の様相を呈していきます。


元亀2(1571)年、高天神城は武田信玄率いる2万5000の軍から攻撃を受けるも、小笠原貞頼らが2000の兵で籠城しこれを撃退。その優れた防御能力を知らしめます。


その後も三方原や諏訪原などの重要戦闘へと当城から兵力が派遣されますが、天正2(1574)年には武田勝頼の軍によって、信玄も成しえなかった当城の攻略が達成されます。


当代城主の小笠原長忠は降伏したことにより助命され、以降も在城衆の濫妨狼藉を禁じたり、高天神城より移住した被官の諸役を免除する布告を出したりしています。


武田勝頼は高天神城を遠江攻略の足掛かりとし、作戦行動の際に拠点として使用したことがわかっています。


天正8(1580)年、徳川家康が5000騎で当城を包囲。翌天正9(1581)年には兵糧攻めで孤立し士気が低下した武田軍が城を打って出て総攻撃を敢行し、敗北。当城は落城し、以降廃城となりました。


ちなみにこの時の高天神城守備隊長は、旧今川氏家臣の岡部元信でした。
元信は今川義元敗死後も鳴海城に拠って織田軍を撃退し続け、主君の首と引き換えに開城したという猛将でした。70歳に近い高齢ながらも先陣を切って奮戦し、武田氏の将として散ったといいます。


昭和50(1975)年には国史跡に指定、平成10(1998)年からは本格的な発掘調査が開始されました。

平成29(2017)年、日本100名城のひとつに選定されています。


まとめ・略年表

高天神城の戦いは、戦国史に興味のある人なら一度は聞いたことのある有名な戦闘ではないでしょうか。
終焉を迎える武田氏と、老将・岡部元信の事績に思いを馳せるとき、胸に込み上げるものがありますね。


※参考:略年表

延喜13年
(913年)
修験者・藤原鶴翁が山頂に宮柱を建てる(伝承)
治承4年
(1180年)
謂伊隼人直孝が鶴翁山に砦を構築(諸説あり)
建久2年
(1191年)
土方次郎義政が鶴翁山に砦を構築(諸説あり)
応永23年
(1416年)
今川了俊が鶴翁山に築城(諸説あり)
応永25年
(1418年)
山内玄蕃正久通が城主に(諸説あり)
文安3年
(1446年)
福島佐渡守基正が城主に(諸説あり)
文明3年
(1471年)
福島上総介正成が城主に(諸説あり)
天文5年
(1536年)
小笠原右京進春儀が高天神城に入城
天文11年
(1542年)
小笠原弾正忠氏清が城主に
永禄3年
(1560年)
城兵が桶狭間に出陣
永禄7年
(1564年)
小笠原与八郎長忠が城主に
永禄11年
(1568年)
小笠原長忠が徳川家康配下に
永禄12年
(1569年)
城兵が掛川に出陣
元亀元年
(1570年)
城兵が姉川に出陣
元亀2年
(1571年)
武田信玄軍の攻撃を受けるも小笠原貞頼らが撃退(武田2万5千、城兵2千籠城)
元亀3年
(1572年)
城兵が三方原に出陣
天正元年
(1573年)
城兵が諏訪原に出陣
天正2年
(1574年)
武田勝頼軍の攻撃を受け、小笠原長忠が降伏
天正3年
(1575年)
長忠が在城衆に濫妨狼藉を禁じる
天正5年
(1577年)
長忠が高天神城より移住した被官の諸役を免除
天正6年
(1578年)
武田勝頼が高天神城を拠点に横須賀城の攻撃を試みる
天正7年
(1579年)
武田勝頼が遠江攻略に際して高天神城を拠点にする
天正8年
(1580年)
徳川家康が5000騎で高天神城を包囲
天正9年
(1581年)
武田軍が城を出て総攻撃を行い敗北。高天神城は落城し、廃城に
昭和50年
(1975年)
国指定史跡に
平成10年
(1998年)
発掘調査開始
平成29年
(2017年)
日本100名城に選定



【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 掛川市HP 高天神城関係歴史年表

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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