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  • 武田信玄
 2019/02/04

「穴山梅雪(信君)」主君勝頼を裏切ったあとの運命はいかに?

穴山梅雪の肖像画

穴山信君といえば、やはり「裏切り」のイメージが強いという方も多いのではないでしょうか。実際に信君は小山田信茂と同様、落ち目の主君・武田勝頼を裏切ったために不忠者として語られることがほとんどです。ただ、当時の信君の生涯そのものについては、裏切りの事実とは異なり、あまり知られていません。

そこでこの記事では信君の生涯を紹介していくとともに、主君の裏切りに至った過程、その原因等を考察していきます。
(文=とーじん)

武田一門、武田穴山氏の歴史

信君が生まれた武田穴山氏は、甲斐武田氏の一門に数えられ、武田性を名乗ることが許された数少ない一族でした。しかし、その家柄は武田家臣であるとともに国衆でもあったため、のちの信君の裏切りにも関わってきます。

国衆というのは、独自の領国をもった武士であり、土地とのつながりが強い領主をさします。彼らの多くは戦国大名の家臣団に組み込まれています。戦国大名との違いなどの詳細は、以前に書いた小山田信茂の記事で触れていますので、こちらもぜひご参照ください。

武田家と蜜月の関係にあった穴山氏

もともと穴山氏は山梨県韮崎市のあたりに領国をかまえていた国人領主でしたが、南北朝期に武田信武の子息を養子に迎えることにより、甲斐武田氏の庶流として家を存続させていきます。

甲斐武田氏の略系図
甲斐武田氏の略系図

その後も武田家の養子たちが穴山家の家督を継いでいきますが、一方で応永23年(1416年)に、当時の武田家当主・武田信満が上杉禅秀の乱で禅秀に味方したために自害に追い込まれ、武田宗家がいったん断絶。

このころの武田穴山氏の家督は武田家の養子であった穴山満春が継いでいました。満春の代に穴山氏は領国を河内の南部(現在の山梨県南部市)へと移しています。実のところ、満春は武田信満の弟(上記の武田略系図でいう武田信元)だったため、甲斐武田氏の後継として甲斐の守護大名を務めたようです。

ところが満春はまもなくして病死。その結果、当時亡命していた武田宗家の嫡男・信重が帰国し、家督を継ぐことになったとされています。このため、武田穴山氏が武田宗家を継承することはありませんでした。

仮に満春が病死していなければ、歴史は大きく変わったのかもしれません。

今川氏の侵攻に翻弄される穴山氏

その後は武田家から養子を迎えることなく、穴山氏単体で家督を継承していきました。同時に武田家とは姻戚関係を結んでおり、依然として蜜月の関係を構築していたことは変わりませんでした。

しかし、応仁元年(1467年)から応仁の乱をきっかけに戦国期に突入すると、武田氏の後継争いや堀越公方をめぐるクーデターが勃発。内紛と戦で武田家が混乱に陥ると状況が一変します。

そのころは、甲斐の覇権をめぐって今川氏と武田氏が対立関係にありました。そこに後継者争いや官職をめぐる争い、果ては室町幕府をも巻き込んだ将軍をめぐる問題などが複雑にからみあい、敵と味方がハッキリしないような泥沼の争いが繰り広げられていました。

その争いの一環として、今川氏が武田領である甲斐国へと侵攻。当時武田穴山氏の家督を握っていた穴山信懸は、当初武田家寄りの態度を表明しましたが、永正10年(1513年)に、子息の清五郎に暗殺されるという憂き目に遭います。これは穴山家内部の親今川派が、親武田派であった信懸を暗殺することで、家内の実権を掌握するねらいがあったとされています。

ただし、戦の最中に家督を継いでいた穴山信嵐と信友の親子は今川氏を離反し、ふたたび武田家に従属しています。その後今川氏が武田氏に敗れ敗走したのちは、領国を下山(現在の山梨県身延町)に移し、武田信虎の支援をうけることで河内地域を統一した可能性が高いとされています。したがって、信君は武田家の支援をうけつつも、過去には離反した歴史をもっている武田穴山氏の後継ということになります。

出生から家督相続に至るまで

さて、これまで穴山氏の歴史をみてきましたが、ここからようやく本題に入りましょう。信君は天文10年(1541年)に生まれました。父は先に登場した穴山信友です。

名前の読みは「のぶきみ」とするものが通説でしたが、鉄山宗純起草の「江尻城鐘銘」において「タケタノフタ々」という表記があり、さらに『鉄山集』でも「ノブタ々」と注釈がつけられていることから、読みは「のぶただ」であることが確認されています。
また、幼名は「勝千代」「彦六郎」で、後に出家した際には、「梅雪斎不白」を名乗っています。

信君の史料への初出は『稲葉文書』です。天文11年(1541年)に信友が誕生した息子勝千代のために社領を寄進したことが確認されています。その後の幼年期は、主に武田宗家の人質として過ごしていたようです。

永禄元年(1558年)には、河内領支配のための文書を発給しており、この頃には信友に代わって家督を継いでいたと考えられています。領国支配の方法は武田氏の方法を踏襲しており、武田家との深いつながりが確認できます。また、騎馬200騎を率いたとされています。

信玄治世期の活動!隣国駿河に精通した「今川通」

信玄の治世下で信君が主に軍事と外交の面で活躍していた様子が確認できます。特に父祖以来の使命であった隣国駿河の今川氏に対する情報収集・調略・交渉など外交面での活躍が光ります。このように「今川通」ともいえる彼の活躍をみていきましょう。

「今川通」としての活躍

まず、「佐野家文書」によれば、永禄6年(1563年)に勃発した「遠州綜劇(えんしゅうそうげき)」(=今川氏真に対する今川家臣たちの反乱)の際には、家臣の佐野泰光を通じて、その情報を関東遠征中の武田信玄に報告していたことが確認できます。さらに、穴山氏を窓口として反乱を起こした遠江国衆に対する書状の送付も行なっています。

その後も、『甲陽軍鑑』によれば、武田軍による駿河侵攻の際には、今川家中への調略を主に担当し、今川旧臣より差し出された人質を下山で預かっていたとされています。

また、今川家臣と武田家の取次も担当しており、この際の軍事侵攻の下準備として、徳川氏との同盟交渉にも中心的な役割を果たしたとされています。この他にも、近江国浅井・蒲生氏・六角氏・三好氏などとの交渉でも取次を務めるなど、外交のエキスパートともいえる存在でした。

戦にも生かされた外交力

永禄12年(1569年)には、葛山氏元とともに駿河大宮城を攻めています。これは、北条・今川両氏の背後をけん制するねらいがあったとされています。しかし、城主の富士信忠の激しい抵抗もあり、この攻略は一旦失敗に終わりました。その後、同年4月には駿河侵攻が一時とん挫したことをうけ、信玄より興津城の警固を命じられています。

この他にも、『甲乱気』によれば、後に蒲原城を預けられますが、信玄よりその野心を警戒され、取り上げられたという説もあります。そして駿河攻略を再開すると、ついに大宮城を降伏させます。その際、富士信忠は信君を通じて降伏を申し入れており、両者は昵懇の間柄になったとされています。
信君は敵として対峙した際でも、何か人を惹きつけるモノをもっていたのかもしれません。

元亀元年(1570年)には、重臣万沢遠江守を失いつつも駿河国花沢城攻めに尽力し、さらに同3年(1572年)の西上作戦では対今川家の調略を担当しました。三方ヶ原の合戦で穴山衆が多大なる戦功をあげたという記述が『甲陽軍鑑』を含めた複数の史料で確認できるなど、その外交力は戦にも生かされていたことがうかがえます。

勝頼治世期の活動!先見性と立ち回りのうまさが光る

ここまでは、数多くの面で活躍してきた信君。しかし、ご存知のように武田家は、信玄の死後急速に衰えていくことになります。それに際して、信君は外交で活躍した交渉術を武器に、武田家とは運命を異にすることを決断します。

長篠で生じた不和!勝頼との対立が表面化していく

天正3年(1575年)に勃発した長篠の戦いでは、長篠城の後詰として出陣するも、徳川軍と遭遇し敗退しています。

その後は劣勢に陥る武田軍の中でひとり気を吐いたとされ、城の包囲戦や調略などの点で戦功を示しました。しかし、自身が徳川軍に敗走した経験から、徳川・織田連合軍との決戦には強く反対したとされています。

一方で主君の勝頼は決戦を強く希望していたとされ、これをきっかけに不仲になっていったとされています。そのため、『甲陽軍鑑』によれば、実際に行なわれた合戦においては、ほとんどめぼしい戦果を挙げることなく撤退したとされています。

織田・徳川方との内通!着々と裏切りの準備を進めていく

その後は、山県昌景が戦死したこともあり、駿河・遠江地域の支配に重要な役割を果たしていくようになりました。ただ、この時期の事績や評価に関しては史料によってさまざまであり、ハッキリとしたことはわかっていません。

なお、天正7年(1579年)には、息子の勝千代が文書の発給を開始しており、この頃には家督を譲り、出家して「梅雪」を名乗っていた可能性が高いとされています。この息子勝千代と武田勝頼息女との婚姻を画策していましたが、これに失敗したことが決定打となり、織田・徳川方と内通し武田家を離反することを決意したとされています。

内通に成功するも、不幸は突然訪れる…

天正10年(1582年)に武田家が侵攻をうけると、すでに内通していた梅雪は正室と嫡男を奪還し、正式に徳川氏に降伏。その後、織田信忠と謁見し、徳川氏より穴山侵攻に際して略奪された人馬などが返還されています。

同年3月に武田家が滅亡すると、梅雪は織田信長との謁見も認められ、甲斐国本領を安堵されるなど、織田家の家臣として地位を確立しました。そして織田家の了承を得る形で武田氏を相続すると発表し、その御礼申言に際して家康と共に安土城に滞在する信長を訪ねています。

しかし、ここで戦国ファンならある事実に思い当たるでしょう。そう、安土といえば「本能寺の変」です。武田滅亡からまもなくして勃発した変の当初、梅雪は堺に滞在しており、その知らせを聞いて甲斐国への帰国を企図しました。しかし、撤退の最中に一揆衆に襲われてまさかの横死。内通を華麗に成功させるところまでは完璧な采配をみせましたが、本能寺の変というイレギュラーに行く手を阻まれるという、悲劇的な末路を迎えることになったのです。

当時の時勢を考えれば、織田家に属したことはかなりのアドバンテージであったはずであり、亡国の武将としては異例ともいえる出世でしたが、こういった結末を迎えることに。これが因果応報というものなのでしょうか。戦国の世は厳しいものです。

まとめ

ここまで穴山信君の生涯を振り返ってきました。その生涯をみていくと、同じタイミングで裏切りを図った小山田信茂とは共通点が多い一方、裏切りの結果が大きく異なっていることがわかります。

信君は外交畑で活躍していた上に、長篠の直後に内通したうえで離反しているのが特徴です。一方の信茂は、戦の腕はあったものの、敵に内通せずに滅亡寸前に突発的に離反をしたのが特徴です。

両者を比較すると、信君は実に首尾よく離反の下準備を進めていたのに対し、信茂はやや浮足立って離反をしてしまった印象がぬぐえず、それが織田方に与えた印象にそのまま直結してしまったのでしょう。しかし、裏切りに成功こそしたものの、結果的に武田家と運命を共にするのとそう大差なく命を落としてしまったということも事実です。むしろ、個人的には用意周到なぶん、信茂よりも信君のほうがずっと「不忠者」であるようにさえ感じられました。

同じ国衆で武田家重臣の両家は、結果的にどちらも裏切りに「失敗」してしまったようにも感じられます。しかし、だからといって武田家と運命を共にしていれば生き延びられたかといえば、おそらくそうではないでしょう。そういった観点から考えれば、一番生き延びる可能性が高かったのは信君であり、不運ではあったもののその先見性と行動力は評価されるべきでしょう。

【参考文献】
  • 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年。
  • 柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。



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