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紫式部と清少納言は仲が悪かった?その真相とは

はじめに

 『源氏物語』の紫式部、『枕草子』の清少納言といえば、どちらも教科書に載るほどの平安時代を代表する人物です。

 そんな2人の仲についてよく言われているのは、”犬猿の仲だった”、”ライバル同士だった” などのマイナスな関係性でしょう。しかし、実は彼女らは互いに面識がないのです。なぜなら、紫式部は清少納言が引退してから5年後に宮廷出仕しているからです。

 火のない所に煙は立たぬ、ということで、今回は彼女らの関係性にマイナスイメージが定着した理由について解説していこうと思います。

清少納言の自慢癖

 清少納言の枕草子といえば、自慢話が多いことで有名です。

 当時の女性が漢文の知識をもつことや「男文字」とも呼ばれた漢字を書けることなどはあまり良い印象ではなく見せびらかすものではないとされていましたが、清少納言は大いに自慢していました。

 男性陣と和歌において互角に詠い合ったり、天狗になっていた男性たちをやり込めたりするなどその名声を高めていきました。

 この点で、紫式部は清少納言と正反対の性格だったと思われます。

 紫式部が自信の日記の中で、漢文の知識を惜しげもなく引け散らかしたり、つまらない自慢話をしたりすることについて酷評していたのは性格の違いから来ていると思います。

 紫式部も清少納言と同様に、漢字の読み書きや漢文の知識を持ち合わせていました。しかし、彼女はキラキラした場や目立つことを避けていたため、大きな声で自慢する清少納言の態度には嫌悪感を抱いていたのかもしれません。

主の政治的対立

 また、彼女らはそれぞれ異なる主の教養係として仕えていました。

 紫式部は藤原道長の娘である彰子、清少納言は藤原道隆の娘である定子に仕えていました。道長と道隆はご存じのとおり、権力争いをしていましたのでその娘に仕える2人も対立していたと考えるのが妥当だと思います。

 しかし、清少納言が紫式部に対して言及している書物はないので、実際に2人がライバル関係であったのかどうかは判断できません。

 2人の面識がないことを前提として、紫式部が一方的に清少納言を酷評している構図を客観的に見れば、単純に紫式部が清少納言に対して嫉妬心を抱いていたという見方もできると思います。

おわりに

 今回は、犬猿の仲といわれる紫式部と清少納言の関係性について見てきました。

 その背景には性格の違いや政治的な対立があったと思われますが、清少納言から紫式部への批判は見られないため、紫式部のみが清少納言を嫌悪していたと見るのがごく自然です。

 ただし、清少納言が紫式部の夫である藤原宣孝の服装を馬鹿にしたという有名な話もあり、そういった出来事も紫式部が清少納言を嫌う原因となったのかもしれません。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。

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  この記事を書いた人
一茶 さん

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