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【記録】三億円事件…東京都府中市で現金輸送車が白バイ警察官に変装した男に強奪された未解決事件

犯人のモンタージュ写真イラストイメージ
犯人のモンタージュ写真イラストイメージ
 1968年に東京都府中市で起きた三億円事件といえば、昭和を生きた方で知らない方はいないというほど、有名な事件です。白バイ警官の服装をした犯人のモンタージュ写真はこの事件の象徴と言えるものです。既に公訴時効が成立し、20年間の民事賠償請求権も消滅しており、今、真犯人が名乗り出ても何の訴追も請求もできません。

 この事件は推理作家、映画監督などの想像力を刺激したため、たくさんの作品の題材ともなっていますが、既に56年間という長い月日が経ち、取り上げられる事もなくなりました。つまり風化が進んでいる訳です。

 そこであえて、この三億円事件を辿り、記録しておきたいと思います。というのも、現代社会の中枢で活躍していらっしゃる皆さんの中には、この事件を知らない方も多いでしょうし、現代でも三億円という金額は大金だからです。その大金を盗み、逃げ切った人物がいるということを記録しておくことは、それなりの意味があることだと思うのです。

事件の概要

 昭和43年(1968)12月10日の朝9時、おりしも大雨の降る中、日本信託銀行国分寺支店から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場に向けて、工場従業員に支給するボーナス・2億9430万7500円の現金を積んだ黒のセドリックが出発しました。

 当時は給与・賞与とも銀行振込ではなく、紙袋に入れた現金を手渡しで支給するのが普通でした。銀行側で既に従業員4525人分の封筒に仕分けが行われており、東芝府中工場では従業員に来た現金入り封筒を手渡すだけ、という状態で4525枚の現金入り封筒はジュラルミンケース3つに収められていました。そして、この現金輸送を担当したのは4人の日本信託銀行国分寺支店の銀行員でした。

 現金を積んだセドリックが府中にある府中刑務所の真横を通る、通称「学園通り」を走っていたところ、後ろから1台の白バイがやって来てセドリックに止まるよう指示を出しました。

「なんだろう? スピードは守っているんだけどな」

 当時、「学園通り」の制限速度である30km/hで走行していた運転手はそう思いながらも、車を左に寄せ止めました。すると、白バイから降りた警官の服装をした男が言ったのです。

白バイの男:「小金井署の者ですが、巣鴨警察署からの緊急連絡で、貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破されました。この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので、車の中を調べて下さい」

 実は先日に〝巣鴨支店長宅を爆破する〟という強迫文が届いており、銀行側は銀行員に念のために注意喚起をしていました。

 これを聞いた銀行員4人は「本当に爆破されたのか」と驚き、慌てて車内を調べました。しかし爆発物のような物は見あたりません。運転手は注意喚起に応じて事前に点検したことを伝えたものの、白バイ警官に言いくるめられます。

「昨日点検したが、そのようなものは無かった」

白バイの男:「車の下にあるかもしれない」

 白バイ警官に扮した男は、まずボンネットを開けさせて調べ、それから車の下に潜り込みました。万一、車の下に爆発物があるとしたら車に乗っていたら危険なため、4人の銀行員は車から降りて成り行きを見守っていました。

 すると、輸送車の下から突然、白煙と赤い炎が吹き出し始め、白バイ警察官は叫びました。

白バイの男:「有ったぞ!ダイナマイトだ!爆発するぞ!早く逃げろ!」

 びっくりした4人の銀行員は東へ100メートルほど遠ざかり、民家の物陰や垣根に身を伏せます。1人は後から来た自衛隊の車を止め、事情を説明していました。その直後、白バイ隊員は、現金輸送車の運転席に乗り込みエンジンをかけ、自ら輸送車を運転して府中街道方面へ急発進させました。府中街道「刑務所角」交差点を赤信号無視で右折し、大型ダンプカーと衝突しそうになりながらも恋ヶ窪方面へ走り去ったのです。

 この間、わずか3分間の出来事でした。

 当初、4人の銀行員は白バイ警官が危険な車を現場から遠ざけるために急発進して去ったと考え、「勇気のある警官だ」と感心していました。

 しかし車の去った跡に赤い炎を出し、白い煙を出している物が置かれていました。当初はダイナマイトではないかと、遠巻きに見ていましたが、それは段々と鎮火していきました。鎮火した物に、おそるおそる近づいてみて見ると、それは発煙筒のような物でした。

 さらに運転手は白バイがヤマハ製のオートバイであることに気が付きます。当時は白バイといえばホンダ製が主流で、僅かにメグロ製が数台残っているという状態であったことを知っていたのです。

「この白バイは偽物だ! ヤマハ製の白バイなど無いはずだ!」

 この時点で初めて銀行員4人は積んでいた現金を盗まれたことに気が付いたのです。

 銀行員の一人は近くの商店から銀行に電話をかけ、支店長代理にことの経過を報告し、一人の銀行員は刑務所の監視塔に向かって警察を呼んでくれるよう大声で呼びかけました。こうして警察の捜査が始まりましたが当初、警察は車の乗り換えを想定しておらず、黒いセドリックの行方を探し始め、一斉検問が引かれました。


 事件が起きて1時間近く経った、午前10時18分に発生現場から北へ約1km離れた空地に黒のセドリックが乗り捨てられているのが発見されましたが、現金を入れたジュラルミンケースはありませんでした。以後、検問は黒のセドリックから全車検問に切り替えられます。犯人が車を乗り換えたことが判明したからです。しかし、乗り換えた車がどんな車なのかはまだ分かりませんでした。


 府中署に三億円強奪事件特別捜査本部が同日の午後4時に設置され、本格的な聞き込み捜査をした結果、乗り換え現場に濃紺のカローラが止まっていたという目撃証言が複数出てきましたが、それは数日経ってからのことでした。捜査本部は今度は濃紺のカローラの行方を追いますが、この車の行方は杳として分かりませんでした。

 一方、府中市栄町の空き地に濃緑のカローラが乗り捨てられているのが発見され、近所の人の目撃証言から、この車は朝にはおらず、午前10時頃から止まっていたこと、朝にはシートをかけたバイクと思われる物がおかれていたこと、バイクのエンジンをかける音がした、ということも分かりました。また現場には黒いレインコートが捨てられていました。

 これで犯人の動きが少し分かりました。犯人は白バイ警官の服装をして上から黒のレインコートをはおり、銀行から現金輸送車が出発するのを確認していたのです。日本信託銀行国分寺支店周辺で現金輸送車の出発時に、黒のレインコートを着て見ていた人物が数人に目撃されていたことから分かった事実です。

 さらに現金輸送車に乗っていた銀行員の証言から濃緑のカローラがしばらく前を走っていたことも分かりました。つまり、犯人は現金輸送車が出発すると濃緑のカローラで追いかけ、前を走っていたのです。

 そして、府中市栄町の空き地でシートをかけてあったバイクに乗り換え、レインコートを脱ぎ捨てて警官の姿になり、現金輸送車を追ったのです。そして現金輸送車を車ごと盗み、北に1km離れた空地で濃紺のカローラにジュラルミンケースごと現金を移して走り去った、という訳です。

 府中市栄町の空き地で濃緑カローラから白バイに乗り換えるのに犯人は相当に焦ったのでしょう。バイクにかけておいたシートがバイクの後端にからまってしまいましたが、ぐずぐずしていると現金輸送車は「学園通り」を通りすぎてしまいます。そのため、シートをひきづったまま現場にやってきたのです。これはアクシデントでしたが、事前に入念で周到な計画を練り、準備した犯罪であることはお分かり頂けると思います。

 そして事件発生から5か月後の昭和44年(1969)4月9日、府中市の本町住宅団地という団地の駐車場に濃紺のカローラがシートをかけられて捨てられているのが発見されました。ようやくセドリックから乗り換えた車が見つかったのです。中には空のジュラルミンケース3個が出てきました。



 この本町住宅団地にある駐車場というのは、誰かが適当な所に車を止めても誰も気にしないという場所であり、他にも2台の盗難車が発見されました。運の良いことに事件のあった12月10日の翌日に自衛隊の偵察機がこの辺りの俯瞰写真を取っており、それに濃紺のカローラのあった場所に既にシートをかけた車が置かれていたことから事件の翌日にはもう、ここに乗り捨てられていたことが判明します。そして濃緑のカローラ、濃紺のカローラ、白バイに偽装したヤマハのバイクは全て盗難車であることも分かりました。

 これで全部で4つの場所が出てきました。以下に列挙してみましょう。

  • 1:事件現場である学園通り
  • 2:セドリックから濃紺のカローラに乗り換えた事件現場から北へ約1km離れた空地
  • 3:バイクを用意し濃緑のカローラを乗り捨てた栄町の空き地
  • 4:濃紺のカローラが捨てられていた本町住宅団地の駐車場

 これらの4つの場所は徒歩で歩いても全てを回るのに30分もかからない、という密集した地域に存在しているのです。このことから犯人は府中市のこの辺りに土地勘がある人物であることが容易に推定されました。この地図の左下に東芝工場がありますが、もう少し走れば到着しているというギリギリの地点で犯行が行われたことも分かります。

 このタイミングではひっかかったシートを外している時間の余裕はなかったでしょう。つまり犯人は東芝工場の場所も知っていたはずなのです。もうすぐそこだから急がねばならなかったのです。

 この地図を見ていると犯人の家も、この地図内にあるのではないかと思われてしまいます。それくらいに現地事情に詳しくないとできない犯罪であったことは事実です。

 またバイクも含め、遺留品は60点以上もあり、これだけあれば捜査は簡単だろうと思わせるものでした。しかし遺留品の大部分は大量生産、大量販売された品物、あるいは盗品であり、遂に犯人を特定する要素となる物はありませんでした。この大量の遺留品はわざと捜査を攪乱させるために残されたのではないか、とも考えられています。つまり犯人は警察の動き方もある程度、予想していたということです。

 偽装した白バイも、本物と思われてもおかしくないくらい上手に偽装していた点とも合わせると、犯人は警察について相当に詳しい人物と思われます。また、車とバイクを自在に操作していることから当時にしては異常に運転技術に長けて居ることがことが伺えます。

 捜査は難航し、当初86人だった捜査員は翌年には200人に増員されましたが進展はなく、翌年には80人、翌々年には45人、次の年には20人と徐々に規模が縮小されていきました。そして昭和50年(1975)12月10日、ついに公訴時効を迎え、捜査本部は撤廃されてしまうのです。

事件当時と現代の世相の違い

 以上、事件の顛末を簡単に述べてみましたが、この事件は当時の世相、状況を知らないと理解できない部分も多いので、いくつか指摘しておきます。

何故、普通の車両を用いて現金輸送を行っていた? 警備はどうなっていた?

昭和43年(1968)当時、現金輸送車が襲われることは想定されていませんでした。この事件をきっかけに現金輸送には専用の車両を使い警備員が行うようになったのです。

 給与、賞与が現金で手渡しというのは全ての会社で行われており、珍しいことではなく当時では当然のことでした。ですので、そのための現金を輸送することは日常茶飯事であったのです。この事件をきっかけに給与、賞与を銀行振込に変更する会社が続出したのです。

犯人はどうやって12月10日が東芝の賞与を現金輸送する日だと知ったのか?

 実は捜査本部も当初、この点に着目しました。この犯罪は事前に12月10日の朝に現金が輸送されることを知っていなければ準備できない犯罪なのです。

 ですので当初は日本信託銀行と東芝府中工場の関係者が疑われました。しかし捜査を進めてみると、なんと日本信託銀行国分寺支店のある界隈では、毎月、ジュラルミンケースで東芝へ現金輸送が行われるのは恒例行事であり、周辺の人達は皆、知っていたのです。

 この事実が判明すると、12月10日をキーワードとする捜査は一挙にしぼんでしまいました。元々、犯人は府中市内に土地勘のある人物ですので、この恒例行事のことも知っていたと考えられるのです。現在では現金輸送を行う日時は極秘ですが、事件当時はこうした情報がいくらでも拡散される可能性があった訳です。

 また当日の朝、日本信託銀行近くの路上で黒いレインコートを着て、積み込みを見ていた人物が複数人に目撃されていますが、この人物が犯人である可能性はきわめて高いです。つまり毎朝、日本信託銀行の周辺で毎朝、見張っていれば、現金輸送が行われるタイミングが分かった訳です。

 この黒のレインコートは先の第3現場に脱ぎ捨てられているのが発見されています。

犯人はどうやって現金輸送車のエンジンをかけたのか?

 これは結構、注目される点です。実は運転手は車から避難する際に、ジュラルミンケースのキーと車のキーが束になったキーをハンドル横のエンジンスターターに差し込んだままにしてしまいました。このため、犯人は容易に車を発進させることができました。

 では、もし運転手がキーを抜いて避難したらどうなっていたのでしょうか? ここでこの事件に使われた車、バイクは全て盗難車であると言う点に着目してみて下さい。現在の車では難しいですが、当時の車ではエンジンスターターのセルモーターを回せば良いので、車の配線を心得ていればバッテリーとセルモーターのコードを直結させることでセルモーターを回しエンジンをかけられるのです。

 映画などでもよく出てくるシーンですが、犯人は車の盗難に慣れていることは確実ですので、キーが無くても発進させる術を心得ていたと考えるべきなのです。つまり、運転手がキーの束を残していってくれたのは「大幸運」だったのです。おかげでジュラルミンケースも容易に開けられたことでしょう。

運転手は随分と博識すぎないか?

 昭和43年(1968)という時代は、まだ運転免許を持っている人は多くありませんでした。トヨタからカローラシリーズ、日産からサニーシリーズ、スバルからスバル360等の一般庶民向けの車が発売されていましたが、まだ高価であり、収入の多い世帯で無ければ買えませんでした。なので自動車の免許をとる必要性が薄く、現在のように成人したら免許を取るのが当然、という時代ではありませんでした。

 しかし、国内メーカーから比較的廉価な乗用車が売り出されたことで若者の中には自動車に対する強い憧れを持ち、免許を取得する人が、ちらほら出始めた時期でもあります。この事件でセドリックを運転していたのは日本信託銀行のSという青年で、まだ21歳でした。

 つまり、免許を取ってまだ日は浅いものの、車やバイクには強い憧れを持っていたものと推察されます。何故なら21歳で免許を取るというのは当時では、そういった憧れを持っている人だけだったからです。当然ながら自動車やバイクの雑誌も読み漁っていたでしょう。

 ならば、白バイについて知っていてもおかしくはないと考えられます。また、本来ならキーを差したまま車を離れるのは、いわゆる「キー閉じ込め」の原因にもなるので決して好ましくはないのですが、まだ運転歴が浅いとなれば、あり得ることだと考えられます。

 また、制限速度30km/hの道路を律義に30km/hという低速でノロノロと走っていたことも初心者に近いということを考えると、これも、あり得ることだといえるでしょう。

 この時代、まだ自家用車が少なかった点は、本町住宅団地の駐車場が止め放題で、誰も気にしていなかったという事実にも関係があります。当時の団地居住者の収入では自家用車を買えず、団地内の駐車場は、もっぱら来客用と出入業者が使う業務用だったのです。

 しかし、やがて高度経済成長の恩恵で普通のサラリーマンでも車を買うことが出来るようになります。月賦(ローンのこと)という言葉が流行始めたのが、ちょうどこの時期です。多くの世帯が車を持つようになると、駐車について規則が設けられますが、事件当時は、まだそういった状態ではありませんでした。

三億円事件の前に起こった脅迫事件との関連

 この事件では、事前に〝日本信託銀行巣鴨支店の支店長宅を爆破する〟という脅迫状が事前に送られてきています。4人の銀行員が犯人の言うことを信じたのも、この脅迫状があったからです。つまり、この脅迫状は明らかに犯人の仕業であると考えられます。

 実は三億円事件が起こる数か月前から府中市内では、多摩農協・警察駐在所・一般市民向けに脅迫状が何回も送りつけられており、警察はこれら脅迫事件も三億円事件の犯人によるものと断定しています。その根拠は、脅迫状の筆跡鑑定によるものでした。全て同一人物によって書かれたものであるというのです。

筆跡鑑定の信頼性

 実は筆跡鑑定人という公的資格は存在しないので、筆跡鑑定は自称、筆跡鑑定人であれば誰でも行えます。筆跡鑑定にどの程度の信頼性があるかについては以前より議論がありました。

 1948年に清水市で起きた清水局事件では、犯人とされた男性は否認を続けていましたが、筆跡鑑定人の鑑定で「同一である」とされて有罪・服役。しかし出所後に、犯人とされた男性は自ら真犯人を探し始め、ついには真犯人の逮捕にまで漕ぎつけています。

 つまり、全くの冤罪だったことが証明された訳で、筆跡鑑定がいかに ”あてにならない” かを物語る事件でした。その後、最高裁は筆跡鑑定について以下の見解を示しています。

いわゆる伝統的筆跡鑑定方法は、多分に鑑定人の経験と感に頼るところがあり、ことの性質上、その証明力には自ら限界があるとしても、そのことから直ちに、この鑑定方法が非科学的で、不合理であるということはできないのであって、筆跡鑑定におけるこれまでの経験の集積と、その経験によって裏付けられた判断は、鑑定人の単なる主観にすぎないもの、といえないことはもちろんである。

したがって、事実審裁判所の自由心証によって、これを罪証に供すると否とは、その専権に属することがらであるといわなければならない。

 周りくどい言い方ですが、要するに「筆跡鑑定の結果を証拠採用するかどうかは裁判官の心証次第だ」というのです。従って清水局事件で筆跡鑑定の結果を採用した裁判官は間違った訳ではないとカバーしようとしているとも取れます。

 その一方、筆跡鑑定の証明力には限界があるとも明言しており、非常に苦しい言い訳のようにも取れる判断でした。極端に言えば、筆跡鑑定はあてにならないのです。

一連の脅迫事件の犯人は警察関係者?

 こういった事情を知った上で、一連の脅迫事件を同一人物であるとした警察の根拠は、「ウンテンシャ」「イマ一度ノ機会」「防ダンチョッキ」などの警察用語が多く含まれているから、ということでした。

 百歩譲ってその通りだとして、これらの用語を警察関係者以外、特に実際に取り調べを受ける等の警察と接触の機会があった人間が使わないという保証はどこにもありません。逆に「警察関係者だと思わせるため」に使ったとも考えられる訳で、これだけで同一人物の仕業と断定するのは早計すぎるのではないでしょうか?

 事件の直前に送られてきた〝日本信託銀行巣鴨支店の支店長宅を爆破する〟という脅迫状は明らかに犯人が行ったものと考えるべきですが、他の脅迫事件まで簡単に同一だと決めつけて良かったのでしょうか? これには疑問が残ると言わざるを得ません。

 実は警察は、これらの脅迫事件と三億円事件の犯人は同一人物としたことで、犯人を取り逃がしている可能性もあり得ます。何故なら「他の脅迫事件にアリバイがあれば犯人ではない」とせざるを得ないからです。

捜査の迷走

 三億円事件の第一現場、第二現場の両方からたくさんの遺留品が見つかりました。多くの捜査員は最初「これだけあれば簡単に解決だろう」と思ったそうです。しかし実際には遺留品が多すぎて調べるのが大変になり、逆に捜査の障害となりました。しかも、ほぼすべての遺留品が大量生産、大量販売されたものであり、犯人の特定に結び付くものは1つも出ませんでした。

 わずかに白バイに取り付けられていたメガホンが数個しか売られておらず、すべての売り先が特定できました。しかし、取り付けられていたメガホンはある工事現場から盗まれたものであることが分かり、そこで糸が切れてしまったのです。もちろん、メガホンを盗んだ犯人も分かりません。結局、大量の遺留品は捜査の手を煩わせるだけで事件解決には何の役にも立たなかったのです。

 これは逆に考えると、わざと大量の遺留品を残したという見方もできます。絶対に足がつかないであろう品を大量に残しておけば捜査を妨害できるからです。この事件の犯人は非常に周到な準備をし、計画を練ってから実行しているので、あり得る話でしょう。

 業を煮やした警察上層部は、警視庁のエースと呼ばれたH刑事をこの事件に投入します。H刑事は、この事件の前に世間を騒がせた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を解決したことで一躍有名になった方で「帝銀事件」や「小平事件」など、戦後の有名な事件でも担当を務めました。

 しかしH刑事の捜査は経験からくる勘に頼るところが大きく、被疑者に対して相当に強引な取り調べを行ったことでも有名です。帝銀事件では捜査本部の本流は旧軍関係者が対象でしたが、H刑事は傍流の名刺班でした。そして画家である平沢貞道氏を逮捕したのもH刑事です。

 帝銀事件は非常に特殊な犯罪で犯人は簡単には入手できない毒物を使って見事な手際を見せており、明らかに「何等かの過去を持つ者」でないと不可能な犯罪で、画家である平沢氏には無理な犯罪でした。


 つまり、帝銀事件におけるH刑事の功績は、歴史的に見たらとんでもない企みに加担したことになるのです。これもすべては勘に頼り、「落としのH」とまで呼ばれた強引な被疑者尋問により白状させる手法のためでした。

 また、H刑事は独自の捜査を好み、捜査本部の方針を無視するような行動も多く、H刑事が投入されたことで逆に捜査本部は内部分裂とまで言えるような主張の対立を起こしてしまったのです。H刑事の投入は明らかにマイナス要素でした。

 H刑事のマイナス要素の一例を1つ挙げてみますと、彼は単独犯という主張を行い、持論を述べましたが、大がかりな事前準備のすべてが1人でできたとは思えません。合理的な判断をする人達は複数犯と見ていました。H刑事は時間的にも間に合うことを立証して見せましたが、その持論を裏付ける目撃証言は一つもなかったのです。しかしH刑事は持論を曲げなかったことで捜査本部は単独犯という方向で動かざるを得なくなったのです。

 また、H刑事は犯人がジュラルミンケースから金を抜き取ったのは濃紺のカローラが捨てられていた本町住宅団地の駐車場であることを主張しました。その根拠は車内と車外の汚れ具合の違い、シートのかけ方が不自然な点などが理由です。

 しかし誰がわざわざ、人目に触れる可能性のある団地の駐車場で4525人分の封筒から現金を抜き取るなどという危険な作業をするでしょうか?まず、どこかのアジトに行き、そこで金を下ろし車とジュラルミンケースを団地駐車場に捨てたと考えるのが当然だと思います。H刑事の主張は案外に粗雑だと言わざるを得ないのです。

  • 多摩農協をはじめとする一連の脅迫事件は同一犯という筆跡鑑定による断定
  • 大量の遺留品の追跡捜査
  • H刑事投入による内部分裂

 これらが捜査の進行を妨げたと言って良いでしょう。この事件は強盗事件にはなりません。銀行員4人は犯人にトリックで騙されはしましたが、犯人から何ら威圧は受けていないからです。従って「単なる窃盗事件」であり、刑事控訴の時効は7年という短期間でした。もっとも民事による損害賠償請求権というものが発生時から20年間あるので、犯人は刑事控訴が時効になっても、まだ安心はできなかったのですが。

少年S

 実は警察は真犯人が誰か分かっていたものの、捜査の手が伸びた時には自殺しており、諸般の事情でこれ以上、追及しないことにした、という説が今でも飛び交っています。この説も含め、犯人について検証してみましょう。

 wikipediaで、この事件を検索してみると「少年S」という人物が取り上げられています。Sは通称、立川グループという非行少年グループのリーダーであり、車両窃盗、バイク窃盗の常習犯であったことも記されており、何度も補導・逮捕され、取り調べを受けて留置される経験をしています。さらにSの父親は現役の白バイ隊員でした。

 つまり、Sは警察に取り調べられる経験を何回もしており、警察の捜査の仕方など熟知していたものと考えられるのです。父親が白バイ隊員ではありますが、警察官の制服は貸与品であり、制服で家に帰る警察官はいません。ですが、松本清張氏の調査によると、引退した警官も含め、案外に当時の貸与品管理はいい加減で家に何着かある警察官は珍しくはないそうです。退職の記念に制服を持って帰る人もおり、中には引退後に拳銃自殺を遂げた元警官もいるとのことです。

 この事件で犯人は警察官の制服を着ていますが、それは遺留品にはありません。現代であればコスプレとして着る人もいるので売っていることもあるかもしれません。ですが当時では警官の制服を売っているということは、とても考えられませんでした。

 となると、筆跡鑑定で警察用語が多く出てきた点も考えると警察官が怪しいのでは?と思えてきます。事実、捜査本部は主に引退・退職した警察官を相当に厳重に調べていたようなのです。何しろ制服だけは出てきませんし、当時では入手できる可能性が非常に限られていたからです。

 しかし家に制服があるのであれば、警察官の家族でも可能性が出てくるわけです。そういった線からもSは、この事件の実行犯として、ほぼ全ての要素を満たしていたのです。捜査本部から相当に疑われていたとみるべきなのですが、Sは事件翌日に青酸カリを飲んで自殺しており、取り調べをすることができませんでした。

 この青酸カリ自殺も、考えてみれば一般家庭で青酸カリを常備している家などありませんし、薬局で青酸カリを買うには、毒物及び劇物取締法に基づいた購入時の身元確認や販売記録の保管が義務付けられており、簡単には買えません。その後の取り調べでSが自殺に使った青酸カリは、父親が2年前に知り合いから譲って貰ったものであることが分かりました。

 何故、父親はそんなものを用意したのでしょうか? その理由はSの非行行動が止まらないため、と考えるのは考えすぎでしょうか?

 父親は黙して語りませんが、この事件を語る多くの推理作家は、Sは父親に無理やり青酸カリを飲まされたのではないか、と考えています。現役の警察官の息子が何度も補導・逮捕され、少年鑑別所に送られているというのは父親としては耐えられるものではなかった、と考えても不思議はないからです。

 実は捜査本部でも、この疑いがもたれ、H刑事が父親に会って事情を聴いているのです。その結果、H刑事は

H刑事:「Sは自殺である。また犯人ではなくシロである。なぜなら多摩農協脅迫事件の時に彼は少年鑑別所に収監されていたのだから。この事件は多摩農協脅迫事件と同一人物の単独犯である。従ってSが犯人である可能性は無い」

 このように結論づけ、捜査本部もそれを認め、Sは捜査対象から外されました。しかし、実に不思議なことが捜査本部で行われていたのです。それは、あの有名なモンタージュ写真の件です。

 まず一般的に犯人がサングラスやマスクをしているときはモンタージュ写真は作られないのだそうです。何故なら、間違ったイメージを伝えてしまう可能性があるからだそうです。しかし、この事件は犯人が白バイ隊員の制服を着ていたので、あごのあたりがマスクで覆われていて見えません。つまり本来であればモンタージュ写真は作らないのが普通だったのです。

 あとから捜査に参加したH刑事は、この点を疑問に思い、内部捜査をした結果、モンタージュ写真は運転手の証言だけで作ったという事実を突き止めます。残りの銀行員の意見も聞いたが、それらは反映されずに公開されたようです。

 さらに捜査を進めると、なんと、そもそも、あの有名なモンタージュ写真は目撃者の意見を元に作成したのではなく、Sの容貌に酷似していた人物を土台にして作った疑いが浮上してきたのです。

Sの容貌に酷似していた人物(似顔絵イラスト)
Sの容貌に酷似していた人物(似顔絵イラスト)

 この事実は時効が完成する少し前に一般にも公開され、新聞にも記事として出ましたので覚えている方もいらっしゃるでしょう。当時は「あれだけばらまいておいて、いまさら間違ってました、じゃすまされんだろう」と言われたものです。ちょっとあり得ないような話ですが事実なのです。

 一体、捜査本部はなぜ、こんなことを行ったのでしょうか?単純な疑問ですが、その答えはH刑事にも突き止められませんでした。もしかすると、突き止めたけれど一般には言わなかっただけ、かもしれません。

 そのあたりから捜査本部は少年Sが犯人であることを確信していたけれど、Sは死んでいるので逮捕できない。そこで、せめてものと考え、少年Sに酷似した人物を土台にしたモンタージュ写真を作って公開した…。何のために? 世間一般に、それとなく知らせるために、という説が出てきたのです。

 有名な下山事件でも警察は捜査終了後、非公式なリークという形で自殺説をジャーナリズムに流しましたが、この事件では、このモンタージュ写真がリークだったのかもしれないのです。

 少年Sの父親が警察官であり、本人は既に死んでいる…

 このことが捜査本部に少年Sが犯人であると断定することを、ためらわせたということです。警察も官僚組織である以上、組織の面目や利益を最優先に動く傾向があります。少年Sが真犯人であっては警察の面目にかかわる問題になる、と考えても不思議ではありません。ですので少年Sをシロにするために「多摩農協脅迫事件とこの事件は同一犯」ということにしたのかもしれない、という憶測までも呼んでいるのです。その時期、少年Sは少年鑑別所にいて、完全なアリバイが成立しますから。

 前編で捜査本部の規模が急速に縮小されていったことを述べましたが、それには、こういった裏事情があったのかもしれません。もう真犯人は死んでいるから、これ以上、捜査をしても無駄。かといって真犯人はシロの扱いだから、捜査を辞めるわけにもいかないという訳です。

 ちなみに松本清張氏は少年Sが真犯人と、ほぼ断定しています。まだ、少年Sの家族も存命していましたので家族構成を変え、断定的な表現は避けるようにしながらも、最終的には断言していると言って良い表現で書き綴っています。

 さて、仮に少年Sが真犯人だったとしましょう。それでも解決できない問題が残っているのです。それは三億円の現金はどこに行ったのか?という問題です。

 次は共犯の可能性について触れてみたいと思います。

共犯者がいたとすれば誰だったのか?

 H刑事は単独犯を主張し続けましたが、そうであれば少年Sが三億円の現金を持っていた、ということになります。しかし彼の家がその後、はぶりがよくなったとか、そういうことはありません。むしろ立川グループで少年Sの配下だった少年Zの方が、はぶりがよくなりました。

 少年Zは実家が貧しかったのですが、事件後に自己資金で喫茶店を開店、不動産会社を設立、と一気に金回りがよくなったのです。家具付きの高級アパートに住み、ハワイに別荘を購入。高級外車を何台も乗り回すなど、誰が見ても「何かあったな」と思うようなはぶりの良さでした。しかし少年Zも多摩農協脅迫事件と筆跡が一致せず、脅迫状に張られた切手の裏から出たAB型という血液型とも一致しなかったため、警察はシロと判断せざるをえなかったのです。

 しかし、Zは公訴時効寸前の1975年11月15日に恐喝事件を起こし、警察に逮捕されてしまいます。警察はここぞとばかりに金の出所を追求しました。するとZは色々と説明しましたが追及していくうちに次々と虚言がばれてしまい、その点を突くとZは叫び声をあげ、頭を机や床に打ち付けるなどの自傷行為に走ったのです。警察も、これ以上の追求は無理と諦めてしまいました。

 警察が諦めた理由の1つには、あと一か月後に公訴時効が控えているということもあったそうです。計算してみるとZが使った金額は総額で1億円にもなりましたが、警察は諦めてしまったのです。

 もし少年Zが共犯だとしたら、彼の役割は何だったでしょう? 最も考えられるのは濃紺のカローラに積まれたジュラルミンケースから抜き取った現金を隠匿する係です。

 Zの実家はスナックを経営している母親がおり、彼一人というわけではないので、Zの実家というのは考えにくい場所です。もし捜査の手が及んでも絶対に発見されない場所でなければなりません。実は立川グループには「絶好の場所」があったのです。それは米軍立川基地の中です。米軍基地内はいかに警察であろうとも手が出せないからです。

 立川グループと親しい人の中に米軍立川基地に出入り自由な人がいたことが確認されています。そして、その人物が「大事な大荷物を2-3日預かってくれないか」と米軍の人間に依頼していたことも分かっています。

 この米軍基地内隠匿説というのは松本清張氏、一橋文哉氏共通の説で、最も説得力のある説です。Zの役割は現金を抜き取り、親しい人を通じて依頼した荷物を米軍基地内に運び込むことだったと考えられるのです。

 また、あくまで可能性の話ですが、バイクを用意し濃緑のカローラを乗り捨てた栄町の空き地の準備をしたのはZである可能性もあります。

 実は濃紺のカローラが用意されていた場所は少年Sの家の近くであり、バイクを置いておいた空き地はZの家の近くなのです。目撃証言ではバイクの置いてあった空き地で濃緑のカローラがやってくるだいぶ前にバイクのエンジンをかける音が聞こえたそうです。バイクというのはキックスタートすることが多いのですが車と違い,なかなかエンジンが作動しないこともあります。

 ですので、本番に備え念のために事前にチェックしておいたと考えれば「なぜ、事件勃発のだいぶ前にバイクのエンジンをかけたのか」が説明できるのです。その時間は、まだ現金輸送車は出発もしていなかったので、犯人は日本信託銀行の近くで見張っていたはずなのに、です。

 さて、仮定に仮定を重ねるようで恐縮ですが、少年Sが実行犯、少年Zが共犯で準備のサポートと現金隠匿を担当していたとします。この時、二人とも18歳という年齢です。18歳の少年が二人で行った犯罪としては、ずいぶんと綿密に計画され、用意周到過ぎると思わないでしょうか?また、少年Sが死に、少年Zが所持していた金額が一億円ならば、残りの二億円はどこにいったのでしょうか?

 こう考えると第三の共犯者がおり、その人物が主犯であり全ての計画を作り上げたのではないかという憶測もでてきます。実はドキュメント作家である一橋文哉氏が迫ったのが、その線でした。立川グループというのは集団で非行を働くだけの集団で決して知能犯罪を仕組めるほどの人物はいなかったと証言する人もいるからです。そして立川グループには通称「せんせい」と呼ばれる人物がいたことを一橋氏は突き止めます。調べていけばいくほど、この人物が事件の中心的役割を果たしていたと思えてくるのです。

 「せんせい」は当時、30代後半の男性でしたが、実は多摩農協脅迫事件では脅迫犯が電話でしゃべっており、その声を聴いた人達はみな「30代後半の男性の声だ」と断言しているのです。20歳前後の、まだ若い人物と30代後半の世間を渡る知恵を身に着けた人物とでは声の様子も異なるのです。「せんせい」は見事に多摩農協脅迫事件の犯人の人物像にマッチしているのです。

 もし、警察が考えたように多摩農協脅迫事件と三億円事件が同一犯であるならば、まさに「せんせい」がいて、全体の構図がまとまるのがお分かり頂けると思います。

 一橋氏はこの「せんせい」を追っかけて行き、意外な事実に次々と遭遇します。「せんせい」が元白バイの警察官であったこと、東芝府中に恨みを持っていること、警察にも恨みを持っていること、などです。どれもこの事件を起こす動機となりえるものであり、制服やヘルメットの説明も明快につけることができます。事件の首謀者として「せんせい」ほど適格な人物はいないと言って良いでしょう。

 そして一橋氏は米国にいる「せんせい」を追ってロサンゼルスに飛びます。散々苦労した挙句、ついに「せんせい」本人と接触することに成功しインタビューの許可を取り付けることにも成功しました。「せんせい」と一橋氏の長時間にわたる緊張の一問一答は一橋氏の著書の後半、1/4を占める大部な内容なので、ここに示すことはできませんが結果的に全体の印象としては「せんせい」がホンボシとみて良いように思えます。興味のある方はご一読下さい。

 なお世間一般における、この事件に対する評価ですが意外なことに犯人は決して憎まれてはいません。なぜなら三億円を奪うにあたり誰一人として傷つけていないからです。確かに戦後の未解決事件としては大きなものですが「うまくやりやがったなぁ」というのが、一般庶民の感想だったことを記しておきたいと思います。この時期、定期預金の金利は5%もあり、三億円あれば年間1500万円の利子が付きますので遊んで暮らせたわけです。つまり世間を恐怖に陥れたのではなく、むしろ一種の爽快感を持って受け入れらた事件であると言って良いでしょう。

 事実、日本信託銀行は現金輸送にあたり国内の損害保険会社に保険をかけており奪われた金額はすべて保険で補えました。また、その損害保険会社はアメリカの保険会社に再保険をかけており、こちらも全く損害はありませんでした。つまり、この事件によって国内ではだれも被害を被ってはいないのです。結果的に損をしたのはアメリカの保険会社でした。ですので、松本清張氏の書かれたものもアメリカの保険会社の調査員の調査という形式をとっています。

 もう事件から56年という月日が経っており「せんせい」も生きていれば90歳になろうという状況です。ですのでもう警察が動くこともないでしょう。しかし、まんまと三億円という現金を奪い見事に逃げおおせた奴がいるという事実は確かに面白いと言えます。府中三億円事件ほど、興味が尽きない事件はないと言っても良いでしょう。事件史というと陰惨なものが多い中、この事件が不思議と異彩を放つのはそんなところに原因があるのだと思われます。


【主な参考文献】
  • 一橋文哉『三億円事件』新潮社
  • 松本清張「小説 三億円事件」 新潮社 「水の肌」所載

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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