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つぼのはち



つぼのはち
秋田出身で敗者側から見た戊辰戦争を書いた歴史学者、京都大学名誉教授の佐々木 克さんによれば、「説得工作から同盟結成に至る経緯を河井が知らなかったはずがないし、同盟は反政府的立場を明らかにし新政府軍の進攻をくい止めようと派兵しているのである。現実的な問題として会津藩や同盟の諸藩を説得して、武器を収めさせることは至難のわざであることは、誰の目から見ても明らか。それが可能であると考えるほど、河井は楽天家であったのだろうか。そして河井は何故このような段階になるまで動こうとしなかったのか。会津藩を説得する機会はこれまでいくらでもあっただろうに。河井の中立策は、政府と会津藩らから等距離に位置してのものではないのである。むしろ会津側に立っている。そして長岡藩だけが戦争を回避するために中立を維持しようとしていたのではなかったのだ。先に庄内、会津、桑名、長岡の譜代雄藩間に提携があったのではないかと推測したが、長岡藩の行動は、少なくとも桑名、会津との結びつきを背景にして考えた方がより理解しやすい。」
と言っています。それに長岡藩は中立的な立場なのに新潟町には桑名、会津の軍が進駐してたようですし、それを考えると新政府軍側ではなく会津寄りだった可能性はあると思いました。

また2013年頃、会津庄内が蝦夷地の一部を担保にドイツと交渉してた証拠が見つかっており、
ドイツに訪れて確認した研究チームは「もし戊辰戦争が長引いていたら実現していた可能性がある」と答えています。河井に任せて時間がかかっていたら戦況が大きく変わっていた可能性はありますね。

新政府軍側には十分な戦力があったわけでもなく、関東では戦況が悪化してかなり苦戦してたようで、新政府軍に恭順した東北の藩が離反してます。会津討伐方針が決まった後に会津藩に和平工作をしているところをみても、新政府軍側は特別有利だったわけではなかったのでしょうね。
だからこそ会津藩も勝てるかもしれないと考えていたのかもしれません。
多くの東北諸藩が味方につけば五分五分に近くなるでしょうし、旧幕府勢の中には未だに抵抗する
者達もいたようですから。また旧幕府側の東北諸藩が有利になれば、新政府軍に寝返った藩も東北諸藩につく可能性も十分ありえたでしょうね。
2025/09/14 06:37:11