仙台藩初代藩主・伊達政宗の領国経営とはどのようなものだったのか?

 奥羽において最大勢力を誇る伊達氏でしたが、豊臣秀吉の天下統一とともに領土拡大の道を断たれてしまいます。さらに奥羽仕置(1590)において転封となり、旧領の一部没収という憂き目に遭うのです。

 そうした中で伊達政宗はどのような領国経営をしていったのでしょうか? 今回は奥羽仕置き以降の政宗の領国経営についてお伝えしていきます。

政宗の2度に渡る城下町の建設

岩出山への入部と知行制度

 政宗は天正17年(1589)に宿敵である蘆名氏を滅ぼし、会津を手に入れますが、それ以前に秀吉から私戦を禁止する奥羽惣無事令が発せられていたこともあり、天正18年(1590)の奥羽仕置で会津を没収されてしまいます。

 さらに翌天正19年(1591)にも再び奥羽仕置が行われ、伊達氏は伊達郡や信夫郡などを没収され、新たに葛西・大崎12郡を与えられました。このとき政宗は居城を米沢城から陸奥国玉造郡 岩出山城(岩手沢)へ移し、そして城下町を整備したのです。

宮城県大崎市にある岩出山城跡の遠景
宮城県大崎市にある岩出山城跡の遠景

 岩出山城を拠点にした一番の理由は、大一揆の起こった葛西・大崎を鎮圧するためには好都合な場所にあったからだと考えられています。

 このときの伊達氏の領地は、江刺、胆沢、気仙、磐井、本吉、登米、牡鹿、加美、玉造、栗原、遠田、志田といった葛西・大崎12郡と、旧領の桃生、黒川、宮城、名取、亘理、伊具、柴田、宇多の8郡を併せて20郡、58万石だったと『寛政重修諸家譜』には記されています。

 岩出山に入部した政宗は城付領知行形態を続行し、新領地の知行割りを行いました。『治家記録』には、石川昭光 志田郡松山城 600貫文や、留守政景 磐井郡黄海城・黒川郡大谷城 2000貫文など、重臣の知行割りが記されています。

仙台の開府

 政宗はこの後、もう一度城下町の建設を行いました。それが慶長5年(1600)12月です。徳川家康の許しを得て、国分氏の千代城を大増築、大修繕しました。これが仙台藩の本拠地となる仙台城です。

仙台城隅櫓
仙台城隅櫓

 普請を開始したのは、翌慶長6年(1601)1月ですから、どちらも関ヶ原の戦い直後にあたります。なぜ政宗が仙台城に大城下町を建設しようとしたのか、その理由は、この関ヶ原の戦いにありました。

 関ヶ原の戦いの前、家康は政宗に対し、旧領である長井、伊達、信夫といった49万石を加増することを約束しています。いわゆる「100万石の御墨付」と呼ばれているものです。

 それ以前の領地と合計すると100万石を超える計算となりますが、そんな広大な領地を支配するには、地理的に岩出山では不都合だったわけです。ただし、関ヶ原の戦い後に政宗に与えられた領地は、旧領の刈田のみであり、伊達や長井などは反故されています。仙台藩が62万石とされているのはこのためです。

 寛永11年(1634)8月、政宗は3代将軍・徳川家光より領知判物を与えられており、そちらには陸奥国60万石、常陸国1万石、近江国5千国と新たに別の近江国5千石を加えて、62万石と記されています。

 100万石を目指していた政宗としてみれば、領地が秀吉の頃から比べてもほとんど増えなかったのは誤算だったでしょうし、ショックを受けていたのではないでしょうか。

検地と新田開発

三度にも渡る検地を実施

 秀吉の天下統一が成されてから徹底されたのは、兵農分離と検地です。政宗も時代の移り変わりに敏感に反応し、自ら検地を実施しています。

 その最初の検地が文禄2年(1593)陸奥国で行われたものです。期間は文禄4年または5年までと考えられており、豊臣政権の奉行による直接検地ではなく、大名による検地の形態です。『文禄検地帳』によると、郷単位で検地が実施されていたことがわかります。

 その後の検地は関ヶ原の戦い後となり、慶長10年(1605)12月と慶長12年(1607)に実施されました。特に慶長12年(1607)の際は、富塚守綱を検地奉行に命じ、領内総検地を行い、家臣の領地の知行高と実高を一致させ、知行地を均一化する狙いがありました。

 政宗が行った最後の検地が元和4年(1618)です。この時期には郷単位から村単位で検地が実施されたことがわかります。百姓を検知帳名請人とすることで兵農分離を徹底させたのです。なお、仙台藩の検地は寛永時期にも実施されますが、政宗の元和検地でほぼ基礎作りが完成されていたと考えられます。

 検地は大名にとって最重要の経済対策でした。万事ぬかりのない政宗のことですから他藩に先駆けて率先して行なっていったことは言うまでもありません。

新田開発による石高の増加

 江戸幕府が成立して以降、合戦による領土拡大は不可能となります。秀吉が亡くなったことを好機と捉え、領土拡大を図った政宗でしたが、天下太平の世の中になってしまった以上、軍事力ではどうしようもありません。

 しかし仙台藩は62万石から30万石以上の石高を増やしていきます。その方法は「新田開発」でした。仙台藩の領地にはまだ開墾されていない土地が多かったのです。しかも北上川や迫川、鳴瀬川など水利に恵まれていた点も仙台藩にとっては有利に働きました。

 ただし、治水についてはうまく管理できていない面があり、特に北上川については一度氾濫すると大きな損害を生み出していました。この北上川の治水を最初に担当したのが、白石宗直です。

 宗直はもともと胆沢郡水沢の領主でしたが、北上川の治水に着手すべく、慶長9年(1604)12月、移封を命じられ、寺池城(登米城)に入り、登米1万2千石の領主となりました。宗直は治水工事によって北上川の流路を変更し、さらに堤防を新しく築いて開墾できる領地を増やすことが目的でした。宗直の名にちなんで相模土手と呼ばれる堤防は3年の年月をかけて完成しています。

 このように新田開発を推奨していった結果、米の収穫量は増え、当時の江戸の米市場のトップシェアを占めていました。江戸の米相場は仙台藩によって左右されたといわれています。政宗の領国経営がうまくいったからこそ仙台藩は、江戸への最大の米移出藩となったのです。

 ちなみに仙台藩は江戸に送る米を確保するため、農民の余剰米を買い上げる買米制を導入しているほどです。政宗は江戸に米を送るために北上川を改修し、河口港の石巻港も整備しました。戦いがなくなった平和な世の中でも、政宗の才は政治面でもいかんなく発揮され、その存在感は他藩を圧倒していたのです。

おわりに

 秀吉の時代には旧領を没収されるなど苦渋を味わった政宗でしたが、それに腐ることなく次世代のリーダーとなる家康と深い絆を作り上げ、領土拡大を目指しました。江戸幕府が成立し、領土拡大が厳しくなってからもその意欲は失われず、健全な方向で石高を増やしていった政宗の領国経営はさすがです。

 ただし、米に頼りすぎた経営は、凶作時に弱く、天明の大飢饉時には仙台藩は人口の20%が減少するという未曾有の大被害を受けています。これは、戦が終わった世の中であっても、まだ平穏に暮らしていくのは困難だったことを示しているといっていいでしょう。政宗としてもそこまで先を読んだ手は打てなかったということです。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。