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東北の偉人 伊達政宗の生い立ちとは? ~幼少の梵天丸時代、元服、結婚、初陣、そして当主へ~

ろひもと理穂
 2020/12/04

伊達氏17代目当主となる伊達政宗は「独眼竜政宗」の名でも有名で、数いる戦国大名の中でもかなりの人気を誇っています。

はたして家督を継ぐまでの政宗はどのように過ごしてきたのでしょうか。今回は政宗の幼少期から初陣までにスポットをあて、その記録についてお伝えしていきます。

政宗の幼少時期

梵天丸の養育係は誰だったのか

政宗の幼名は「梵天丸」です。御幣様とも呼ばれていました。

傅役は片倉小十郎景綱。文武に優れた武将として知られています。後年、政宗の軍師的な役割も務めたほどの知略家です。その影響力は大きかったことでしょう。

また、梵天丸の養育を依頼された「虎哉宗乙」という禅僧の存在も欠かすことはできません。虎哉宗乙は美濃国出身で、快川紹喜に師事しており、天下の二甘露門のひとりに数えられるほどの名僧でした。

伊達氏の菩提寺である東昌寺に5年間ほど在籍していたこともあり、その縁を辿って、伊達氏16代当主の伊達輝宗が長子である梵天丸の養育を依頼しました。一度は断ったそうですが、輝宗の熱意に負けたのでしょう。

元亀3(1572)年に米沢郊外の慈雲山資福寺に入り、梵天丸の養育係を引き受けました。虎哉宗乙は43歳、梵天丸は6歳のことです。

この師事関係は、虎哉宗乙が亡くなる慶長16(1611)年まで続きました。梵天丸は漢字や仏教の他、五山文学などを虎哉宗乙から学びました。兵法書の指南も受けた可能性があります。

こうして虎哉宗乙の影響によって梵天丸の才が芽吹いていったのです。

不動明王を初めて見たときのエピソード

虎哉宗乙に師事する以前の梵天丸の器量を示すエピソードが、『性山公治家記録』に記載されています。

梵天丸が5歳だった頃の話です。傅役の景綱と共にある寺を訪れた際に、梵天丸は不動明王像を初めて見ました。
柔和な仏像しか見たことのなかった梵天丸は、この恐ろしい表情をした不動明王が仏だと信じられなかったようで、寺の住職に質問しています。
不動明王は外に剛、内に慈愛を備えた仏であることを知り、5歳ながら梵天丸は「これこそ大名の手本だ」と言って納得しました。

このエピソードは、政宗が梵天丸と呼ばれていた幼少期から、伊達氏当主としての役割を理解していたことを示しています。

失明と母の愛情

この才を認めたのが父親である輝宗でした。しかし、梵天丸の実の母親である義姫は梵天丸を疎んじるようになっていきます。それは梵天丸が天然痘にかかり、その毒が回って右目を失明したからです。

梵天丸が失明したのは5歳の頃とも、7歳の頃とも伝わっており、正確な時期はわかっていません。

『性山公治家記録』によると、義姫は「五体満足でない梵天丸は、奥州探題の要職に就くのは相応しくない」と述べており、梵天丸の弟の竺丸をかわいがりました。

義姫は最上義守の娘であり、最上氏が器量のある梵天丸よりも竺丸を当主にした方が伊達氏の勢力は弱まると画策したため入れ知恵したという説もあります。一部の伊達氏家臣も義姫の言葉に同調していました。

容姿が醜くなり、母からの愛情も失った梵天丸は性格的にもひねくれ、内向的になっていたようで、それが家臣たちには弱々しく映ったのかもしれません。

梵天丸の非凡さに気づき、家督を継がせたい輝宗としては、義姫や家臣たちを納得させる必要があったのです。

伊達氏当主への道

政宗の元服

梵天丸の元服は天正5(1577)年11月15日、11歳のときであり、これは他の武将と比較するとやや早いと思われます。

当時の伊達氏は前年から領土問題を巡り、宇多郡の相馬氏と交戦状態でした。当主の伊達輝宗としても、戦続きの中でいつ何が起こるかわからず、もしもの時を想定して家督を誰に譲るのかはっきりとさせておきたかったのでしょう。

家督争いは混乱を招き、勢力が大きく低下してしまうきっかけになりやすいので、輝宗としてはその事態も案じていたのだと考えられます。

今の状況で輝宗が亡くなった場合、確実に梵天丸側と竺丸側の衝突が起きます。実の母である義姫が竺丸を推すのは目に見えていますし、そうなると実家の最上氏も介入してくるでしょう。伊達の家中は二分され、下手をすると伊達氏滅亡の危険性すらあります。

こうした背景もあり、この早い段階で梵天丸を元服させ、伊達藤次郎政宗を名乗らせたのです。次郎の名は伊達氏当主が代々名乗ってきたものであり、輝宗は家督をこの政宗に譲ることを公に示しました。

伊達持宗以来、6代に渡って伊達氏当主は室町幕府将軍から一字拝領してきましたが、天正元(1573)年に室町幕府は滅んでおり、輝宗は伊達氏の中興の祖である9代当主大膳大夫政宗の名を名乗らせました。さらなる伊達氏の発展を、政宗に期待したものだと推測されます。

政宗の結婚

元服の早かった政宗ですが、正室を迎える時期も同様に早く、天正7(1579)年、13歳の若さでした。

元服したとはいえあきらかにまだ子どもです。しかも相手の愛姫(陽徳院)はまだ11歳でした。

相馬氏と軍事衝突を続けている伊達氏が、政略結婚の相手に選んだのは陸奥国高野郡三春城主の田村大膳大夫清顕でした。清顕夫婦はともに伊達稙宗の外孫であり、同族の関係です。

愛姫の実母は相馬顕胤の娘でしたから、輝宗としては相馬氏側の勢力を切り崩していく狙いもあったのでしょう。

ちなみに愛姫は清顕の一人娘であり、伊達氏への輿入れが決まった際には、政宗と愛姫の間に生れた子(二男以降)を清顕の養子にし、田村氏を継ぐことが約束されていました。

ただし生れた子が早世するなどしてこの約束は守られておらず、政宗と愛姫の第一子であり家督を継いだ伊達忠宗の三男(田村宗良)が後に田村氏を再興しています。

政宗の初陣

元服を済ませ、結婚した政宗は、天正9(1581)年5月の相馬氏との戦で初陣を果たします。15歳のときです。

相馬盛胤・相馬義胤父子は戦上手で、ここまで伊達氏は苦戦を強いられていましたが、この戦いで輝宗は調略によって小斎城奪還を成功させています。

輝宗にとってはかつて伊達氏の領土であった伊具郡の金山、小斎、丸森を相馬氏から取り戻すことが悲願だったのですが、むしろ伊達氏の領土である伊達郡や信夫郡へ侵攻されるような形勢だったのです。

この政宗の初陣から形勢は変わり始めます。相馬氏は田村氏を頼って伊達氏との和睦を画策するようになりました。政宗は翌年も杉目城から伊具郡角田城への進軍に参加しています。

政宗の活躍ぶりは記されていませんので、合戦とはどのようなものなのかを自分の目で見て確かめる機会に過ぎなかったかもしれません。

伊達氏の攻勢は続きますが、田村氏の他、石川氏や佐竹氏、岩城氏も調停を務めて輝宗を納得させ、天正12(1584)年5月に伊達氏と相馬氏の和睦が成立しました。

輝宗は和睦の条件として伊具郡南部の返還を求めており、こうして見事に旧領の奪還をやり遂げたのです。そういった外交交渉の経過も政宗にとってはいい勉強になったのではないでしょうか。

まとめ

政宗の非凡さだけではなく、その器量を認めた父親である輝宗の存在があったからこそ、政宗は伊達氏の家督を継ぎ、独眼竜政宗として活躍できたのです。

政宗の幼少期を確認すると、伊達氏当主への道筋を整えてくれた輝宗の愛情を強く感じることができます。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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