「島津実久」分家出身の野心家。宗家の家督を狙い、忠良父子と激闘!

島津実久のイラスト
島津実久のイラスト
室町時代末期に本家争いでの内乱が起こった薩摩の島津家。この内乱を平定していったのが、相州・伊作家である島津忠良・貴久父子でした。そして薩摩中興の祖と言われる忠良・貴久父子に対立していたのが、薩州家の島津実久(しまづ さねひさ)です。

薩摩藩主の血統に対して反抗し続けた実久は、島津家の歴史にとって悪役とされています。本当に島津本宗家を乗っ取る悪人だったのでしょうか?島津本宗家の家督争いの背景に迫ります。

宗家の家督継承をもくろむ

島津本宗家の後見を務める

実久は、島津分家の一つである薩州家4代当主・島津忠興の嫡男として永正9年(1512年)に生まれました。

幼少期の逸話は特にありません。歴史に登場するのは、14歳の若さで島津本宗家の家督を相続した第14代当主・島津勝久(このときは初名の「忠兼」)の後見となってからです。

薩州家は島津の分家の中でも最大の権勢を誇っていました。勝久は、守護である本宗家の権力が弱まっていたため、薩州家当主だった忠興の支援を得ようとして彼の娘を正室にします。それと同時にその弟の実久にも政治の後見をしてもらいます。

宗家家督は島津貴久に

薩摩の歴史では、守護の補佐をしていた実久が専横ぶりを発揮し「本宗家の家督を譲れ」と迫ったと言われています。

やがて、その専横ぶりに嫌気がさした勝久は、正室を離縁して実久とも距離を置こうとします。忠興が大永5(1525)年に死去してしまったため、薩州家の利用価値が亡くなったと勝久が判断したという説もあります。

勝久は勢力を拡大してきた伊作家出身の島津忠良・貴久父子に本宗家の家督を渡してしまいます。そして、島津貴久が第15代として本宗家の家督を継ぐことに…。

島津貴久の肖像画
島津貴久はかの有名な島津四兄弟の父で知られる。

島津忠良・貴久父子との争い


実力行使で勝久の悔返しへ

薩摩の正史では、中興の祖である忠良と貴久から見た歴史が正しくなります。よって、忠良と貴久と戦い続け、彼らを本宗家として認めなかった実久は、薩摩の中ではヒールとなってしまいます。

実際、大永7年(1527年)に実久は帖佐・加治木の島津昌久と伊地知重貞・重兼父子の蜂起を支援して、忠良・貴久の反対勢力をあおります。

そして忠良・貴久父子の排除を画策すると同時に伊作に隠居をしていた勝久の説得にあたるのですが、これがまさかの大当たり。「貴久への本宗家当主・薩摩の守護職を取り返しましょう」と持ち掛け、勝久に本宗家の家督と守護職を取り戻させるのです。

※「悔返し(くいかえし)」とは、子孫に譲与したり、他人に贈与したものを、父母や本主が取戻すこと。中世の法律用語。


本宗家当主の早世が続いて14歳で家督を継がなければいけなかった勝久。朝令暮改の様な政治を繰り返す彼の人間性の浅さが、本宗家の家督争いを引き起こしたと考えられています。

また、老中の編成を繰り返したことにより、老中の派閥争いも生じさせ、結局は実久派閥の老中たちから追い出されています。なんだか自業自得感が否めません。

実久に本宗家当主の期間があった!?

直臣の多くが勝久の復帰を支持し、忠良と貴久は孤立します。そして、人望のない勝久を見限った老中たちを味方にして、実久は国政を自分に委任する書状を勝久に要求します。

勝久はあっさりと「屋形」という当主の地位を手放して実久に与え、そして自分は帖佐にまたまた隠居。こらえ性がなく、プライドだけは高かったのか、当主の器がなかったと言わざるを得ません。

勝久に「屋形」の称号を譲られたという史実は、実久が島津本宗家の家督を継いでいた証拠ではないかと言われています。ただし、この後の薩摩藩の歴史に実久が当主であったという記録はありません。あくまでも貴久の家督継承を邪魔する悪役でしかなかったのです。

加世田城をとられる

本宗家の家督をあきらめない忠良・貴久父子は薩摩に勢力を広げていきます。天文6年(1537年)に忠良は実久に和平を持ち掛けますが、交渉は決裂。再び戦いとなります。

忠良・貴久父子は、天文7年(1539年)に加世田城、翌天文8年には谷山紫原の戦いにおいて薩州家の谷山本城・苦辛城・神前城を陥落します。

忠良・貴久父子と実久は激戦を広げているように見えますが、戦に出ているのは忠良・貴久父子だけで、実久が陣を張った様子は見られません。実久は、味方を集めるための交渉術に長けていましたが、実戦には向いていなかったようです。

最期まで権力を欲した実久

谷山紫原で敗れ、形勢の立て直しができないと見たのでしょうか、その後は忠良・貴久父子に立ち向かうことなく、ひっそりと和泉(出水)で隠居生活を送っています。

実久は、島津の歴史からは姿を消しますが、決して本宗家の守護職をあきらめていたわけではなかったようです。

貴久が中央政権から修理大夫を任官された後の天文22年(1553年)に上洛し、13代将軍・足利義輝に拝謁しています。これは貴久に並ぶ任官を欲していたと考えられています。しかし、その帰国の途上に病死、その生涯を閉じました。

あきらめきれなかった権力への渇望を感じさせる実久でしたが、薩州家は貴久の血統が支配する島津本宗家の分家の一つとして生きるしかなくなります。

実久の子・義虎は本宗家への対抗心から九州征討に来た豊臣秀吉に真っ先に服従しますが、孫の忠辰の時に秀吉の朝鮮出兵に応じずに秀吉の怒りを買って改易されてしまいます。

ゆっくりとフェードアウトしていった実久同様、薩州家の寂しい末路となりました。


【主な参考文献】
  • 新名一仁「島津貴久」戎光祥出版、2017年
  • 新名一仁編著『薩摩島津氏』戎光祥出版社、2014年

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  この記事を書いた人
Ten-ten さん

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