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  • 島津義弘
 2019/04/01

「島津貴久」島津四兄弟の父。戦国大名島津家の礎を築く!

島津貴久の肖像画

島津第15代当主の島津貴久は「島津の英主」と讃えられる名君です。父親である相州・伊作家の当主であった島津忠良(日新斎)と共に島津家の「中興の祖」とも言われています。島津一族は、室町時代末期に、守護職である本宗家を狙って内乱状態になります。

その内乱状態を統一していったのが、忠良・貴久父子でした。島津中興の祖と言われる貴久が、島津家の礎を築いた足跡をたどっていきましょう。
(文=Ten-ten)

強力な父親の影

貴久の父は島津家中興の祖、忠良です。

忠良は父を早くに亡くし、幼くして島津伊作家の当主となります。伊作家を担った母親である常盤は、望まれて島津相州家の運久に再嫁しますが、忠良に相州家を継がせるという条件を出します。その結果、島津相州家の家督も相続した忠良は、養父である島津相州家運久と子・貴久と共に島津一族の内乱を乗り切っていきます。

忠良・貴久父子は、島津家の平定に導いた英傑として伝えられています。

永正11年(1513年)に忠良の長男貴久が誕生します。幼名を虎寿丸と言い、母親は島津薩州家成久の娘である御東です。この時は、伊作・相州家と薩州家とは姻戚関係にあり、良好な関係を築いていたことがわかります。

本宗家の養子になる

島津一族は、室町末期から内乱状態にありました。それに加えて、本家であり守護職を守る島津本宗家の当主が、自害(第11代忠昌)、早逝(第12代忠治)、早逝(第13代忠隆)と本家としてはあり得ない脆弱な地盤となってしまいます。

第14代本宗家を継いだ勝久(当初は忠兼)は当時若干14歳。政治力の頼りなさから、勝久は薩州家から正室を迎え、その弟である実久に後見として政治を補佐してもらいます。この実久が、このまま補佐役に徹すれば問題はなかったのですが、権力を振りかざすようになります。第15代の後継者として自分を名指しをするように勝久にごり押しをします。

暴威をふるう実久を疎んじた勝久は、実久の姉と離縁し、薩州家と距離を置きます。そして軍事的な力を強めてきた相州家忠良に猛烈なアプローチを送り、貴久に本宗家の家督を譲ることを決意します。忠良は、再三に渡り固辞したとされていますが、勝久から貴久からの家督移譲を受けることになります。実際は、勝久の懇願ではなく、頼りない本宗家の勝久を見限った相州家によるクーデターではないかとも言われています。

島津の正史では、貴久は大永6-7年(1526-27年)の間に守護職を譲渡されたと考えられています。しかし、貴久の伝記である『貴久記』には、正式に守護と称したのは、天文14年(1545年)以降であると書かれているからか、当初から守護職を正式に委譲されたとは考えられていないようです。

背景にある本宗家老中の勢力争い

島津本宗家の家督移譲は、忠兼と忠良の意思だけによるものではなく、老中の派閥争いが背景にあると考えられています。

本宗家の頼りない勝久は、守護職を補佐する老中たちから離反され、相州家と結びつきの強い老中たちが貴久を迎え入れたとされています。つまり、島津一族の内乱そのままに老中も派閥を作って分かれており、その老中の意図も汲まれて本宗家の家督移譲がすすめられたのです。

家督移譲後に勝久は、忠良の領地である伊作に隠居しますが、自らの意思で隠居したのか、伊作家の家臣たちに連れていかれたのかは定かではありません。忠良はこの時から日新斎と名を改めます。

勝久の悔い返しにより本宗家を追い出される

貴久が本宗家の跡継ぎになって面白くないのは実久です。彼はすぐさま反旗を翻します。

まずは、帖佐・加治木の島津昌久と伊地知重貞・重兼父子の蜂起を支援します。そして、忠良が帖佐・加治木の討伐に行っている間に伊作の勝久に守護職の返上を説きに行きます。勝久も割と簡単に返上案を受け容れ、家督譲渡の無効(悔返)を宣言し、守護職に復帰してしまいます。

鹿児島清水城にいた貴久は、実久方の追っ手をかわしつつ、側近に守られながらかろうじて脱出し、田伏まで逃げ帰ります。日新斎も、田布施に一時撤退を余儀なくされますが、すぐに伊作城は奪回します。

田布施に逃げ帰るときに、貴久はわざわざ敵地である伊作城の勝久に会いに行ったという逸話が残されています。一度でも養父になった勝久に義を通すため、別れの挨拶に行き、これに感激した勝久が歓迎したうえに、無事に田布施まで送り届けた、という美談になっています。これは、島津家の正当なルーツのため創作された話であろうと言われています。

この後、日新斎と貴久父子の島津統一に向けての長い戦いが始まります。

復権した勝久の排斥運動

勝久が復権すると、多くの領主が勝久・実久方に転じ、日新斎・貴久父子は孤立してしまいます。同盟関係にあった生別府城の樺山広久も、勝久方から包囲され説得によって降参します。

一方で、復権にあぐらをかくようになった勝久は、側近たちからの信頼を失います。側近たちの間に実久方の派閥が生じ、勝久排斥運動が起こり、結果的に大隈に勝久は逃げていきます。

勝久は、実久に国政移譲をし、「屋形」の地位を譲って、大隈国帖佐に退去します。こうして実久は守護としてふるまうようになり、島津本宗家の実権を握ります。しかし、島津家の正史には実久が家督を継いだことにはなっておらず、正式な本宗家としての歴史には残されていません。島津家では、あくまでも第15代島津本宗家は貴久が後継であったとされているのです。

貴久の子・島津四兄弟の誕生

日新斎・貴久父子の悲願である三国平定を成し遂げるのは、貴久の子であり、島津四兄弟と称される義久・義弘・歳久・家久です。忠良と貴久が、地盤を固めている間に、貴久を将来的に助ける子息たちが次々と生まれます。

最初の貴久の正室は大隈国肝付兼興の娘でした。若くして亡くなったため、この室との間には子はいません。

次の室となった薩摩国入来院重聡の娘雪窓夫人は、天文2年(1533年)に長男忠良(後の義久)、天文4年(1535年)には義弘、天文6年(1537年)に歳久を生みます。四男となる家久は、側室であった橋姫を母として天文16年(1547年)に生まれます。

この四兄弟は、薩摩・大隈・日向の三州統一を成し遂げ、戦国時代の荒波を乗り越え、薩摩藩の礎を築いた英傑となります。

加世田城を制圧して優位に立つ

天文6年(1537年)に、日新斎と実久の間で和平交渉が成されますが、うまくいかずに決裂します。そして、忠良・貴久父子と実久との全面抗争に至ります。

天文7年(1538年)に薩州家の拠点である加世田城を忠良・貴久父子が攻め、一度は撤退を余儀なくされますが、再度の夜襲により攻め落とすことに成功します。これにより薩州家本拠地である薩摩北部への重要ルートを抑えることができました。

実久との決戦、谷山紫原の戦い

天文8年(1539年)の谷山紫原は、薩州家実久との最終決戦となります。貴久は、この決戦を制し、薩州家の谷山本城・苦辛城・神前城を陥落します。

同時並行で日新斎は川辺高城、平山城、まで出陣し、降伏開城させています。これらの戦いに実久が出陣してきた様子はなく、形勢が悪化したことを見て取り、このまま実久は自ら動くことはなくなります。 こうして実久との全面抗争は幕を閉じます。

太守として認められる

天文14年(1545年)に日向南部を支配する北郷・豊州家の両氏が貴久のもとに参上し、貴久を「守護職として仰ぎ奉る」という意思を表明します。この有力御家人の太守承認によって、貴久の地位は確かなものとなります。

次いで貴久側も、「一門・一家・譜代・随身ノ侍」を参集させ、一同が貴久の守護職を承認するという演出をし、確立した地位を知らしめることに成功します。

この時、京都から参議の町資将が、前関白近衛邸新造費用上申の督促のため下向しており、守護承認の場に出くわして祝言を述べています。近衛家は平安時代には島津家の主家であったため、貴久の時代までつながっていました。こうして中央政権の実力者にも、守護職継承は、貴久であることを見せつけたのです。

天文21年(1552年)に近衛家を通して貴久の長男忠良に第13代将軍足利義輝の一字を賜り、義辰(この後義久となる)と改名します。その後、薩摩守護職が賜ってきた修理大夫に正式に任官され、中央政権にも正式に島津本宗家を継承したことを認められます。

残された大隈国の平定:岩剣合戦

正式に中央政権に第15代島津本宗家に認められても、三州の一部の地域にはいまだ貴久を太守と認めていない領主もたくさん残っていました。その決戦の場は大隈国岩剣城となります。

天文23年(1554年)の岩剣城の戦いは、一カ月にも及ぶ泥沼の戦いとなります。標高150mの断崖絶壁に覆われた堅固な城であったため、困難な戦いとなりました。この合戦が、貴久の子、義久・義弘・歳久の初陣となります。苛烈な戦いを制し、岩剣城を落城した貴久は、この勝利により大隈国の拠点を築くことができました。

この戦いは、これより前に日本に伝来していた鉄砲を最初に使用した合戦であったとされています。

ザビエルにキリスト教の布教を許す

貴久の功績に、サビエルとの面会があります。天文18年(1549年)に貴久と面会したザビエルは、貴久にキリスト教布教の許しを得ます。貴久がキリスト教を理解し、信仰したのではなく、南蛮渡来の輸入品に対する下心がザビエルの布教を許したのです。

貴久は、鉄砲や火薬をいち早く戦に導入しており、戦に明け暮れていた島津家にとってそれらは欠かせないものでした。ザビエルを厚遇することによって、輸入がたやすくなることを期待しての布教許可だったのです。

結果的には、鹿児島の僧侶たちの反感を買ったため、すぐに禁教令が出ますが、ザビエルと面会しキリスト教への好感を表した武将の一人でもありました。

義久への家督移譲と出家

永禄7年(1564年)に貴久は、「陸奥守」、長男義久は「修理大夫」に任ぜられます。この任官によって貴久は、かつての本宗家14代目の勝久を越えた格となり、義久が正当な後継と認められたことになります。

永禄9年(1566年)、貴久は出家して「伯囿」と号します。この後、義久に全権を委譲して隠居したとされています。しばらくは加勢をしますが、永禄11年(1568年)に父・日新斎が病没してからは加世田城に入り、静かな余生を送っています。

そして父が没してからわずか3年後の元亀2年(1571年)、加世田城で病没しました。享年は58。幼少時から本宗家の後継者争いに巻き込まれ、戦いに明け暮れた貴久は、4人の勇猛果敢な息子に恵まれ静かな余生を閉じたのでした。


【主な参考文献】
  • 新名一仁『島津貴久 戦国大名島津氏の誕生』戎光祥出版、2017年
  • 三木靖『島津義弘のすべて』新人物往来社、1987年
  • 新名一仁『薩摩島津氏』戎光祥出版社、2014年
  • 『日本史広辞典』山川出版社、1997年
  • 鹿児島県「島津忠良と島津貴久について」




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