「島津貴久」島津四兄弟の父。戦国大名島津家の礎を築く!

 島津第15代当主の島津貴久(しまづ たかひさ)は「島津の英主」と讃えられる名君です。父親である相州・伊作家の当主であった島津忠良(日新斎)と共に島津家の「中興の祖」とも言われています。

 島津一族は、室町時代末期に、守護職である本宗家を狙って内乱状態になりますが、その内乱状態を統一していったのが、忠良・貴久父子でした。

 今回は島津家の礎を築き、島津四兄弟の父でも知られる島津貴久の足跡をたどっていきます。

一族の内乱の中、宗家家督を継承

 島津貴久は永正11年(1513)、島津家中興の祖、島津忠良の長男として誕生しました。幼名は虎寿丸。

 父の忠良は分家にあたる伊作家の当主でした。伊作家を担った忠良の母・常盤(貴久の祖母)は、望まれて同じく分家にあたる相州家の運久に再嫁しますが、忠良に相州家を継がせるという条件が出されます。その結果、忠良は相州家の家督も相続し、養父である運久と子の貴久とともに島津一族の内乱を乗り切っていきました。

 なお、貴久の母は薩州家、島津成久の娘である御東です。このころ、伊作・相州家と薩州家とは姻戚関係にあり、良好な関係を築いていたことがわかります。


本宗家の養子になる

 島津一族は、室町末期から内乱状態にありました。それに加えて、本家であり、守護職を守る島津本宗家の当主が、自害(第11代忠昌)、早逝(第12代忠治)、早逝(第13代忠隆)と、本家としてはあり得ない脆弱な地盤になっていました。

 第14代本宗家を継いだ勝久(当初は忠兼)は当時はわずか14歳。政治力の頼りなさから、勝久の正室は薩州家から迎え、その弟である実久に後見として政治を補佐してもらうことに。この実久が、このまま補佐役に徹すれば問題はなかったのですが、第15代の後継者として自分を名指しをするように勝久にごり押しをするなど、権力を振りかざすようになります。

貴久の家督継承

 こうした中、暴威をふるう実久を疎んじた勝久は、実久の姉と離縁して薩州家と距離を置き、軍事的な力を強めてきた忠良に猛烈なアプローチを送り、貴久に本宗家の家督を譲ることを決意。

 忠良は、再三に渡って固辞したとされていますが、勝久からの家督移譲を受けることになります。実際のところ、勝久が懇願したのではなく、頼りない本宗家の勝久を見限った相州家によるクーデターではないかとも言われています。

 島津の正史では、貴久は大永6~7年(1526~27)の間に守護職を譲渡されたと考えられています。しかし、貴久の伝記である『貴久記』には、正式に守護と称したのは、天文14年(1545)以降であると書かれているからか、当初から守護職を正式に委譲されたとは考えられていないようです。

背景にあった本宗家老中の勢力争い

 島津本宗家の家督移譲は、忠兼と忠良の意思だけによるものではなく、老中の派閥争いが背景にあると考えられています。

 本宗家の頼りない勝久は、守護職を補佐する老中たちから離反され、相州家と結びつきの強い老中たちが貴久を迎え入れたとされています。つまり、島津一族の内乱そのままに老中も派閥を作って分かれており、その老中の意図も汲まれて本宗家の家督移譲がすすめられたのです。

 家督移譲後に勝久は、忠良の領地である伊作に隠居しますが、自らの意思で隠居したのか、伊作家の家臣たちに連れていかれたのかは定かではありません。忠良はこの時から日新斎と名を改めます。


島津実久の台頭

勝久の悔い返しにより、本宗家を追い出される

 貴久が本宗家の跡継ぎになって面白くないのは実久です。彼はすぐさま反旗を翻しました。

 まずは、帖佐・加治木の島津昌久と伊地知重貞・重兼父子の蜂起を支援。そして、忠良が帖佐・加治木の討伐に行っている間に伊作の勝久に守護職の返上を説きに行きます。勝久も割と簡単に返上案を受け容れ、家督譲渡の無効(悔い返し)を宣言し、守護職に復帰するのです。

 鹿児島清水城にいた貴久は、実久方の追っ手をかわしつつ、側近に守られながらかろうじて脱出し、田伏まで逃げ帰ります。日新斎も、田布施に一時撤退を余儀なくされますが、すぐに伊作城を奪回しています。

 田布施に逃げ帰るときに、貴久はわざわざ敵地である伊作城の勝久に会いに行ったというエピソードがあります。

 一度でも養父になった勝久に義を通すため、別れの挨拶に行き、これに感激した勝久が歓迎したうえに、無事に田布施まで送り届けた、という美談になっていますが、これは、島津家の正当なルーツのため創作された話であろうと言われています。

 この後、日新斎と貴久父子の島津統一に向けての長い戦いが始まります。

復権した勝久の排斥運動

 勝久が復権すると、多くの領主が勝久・実久方に転じ、日新斎・貴久父子は孤立してしまいます。同盟関係にあった生別府城の樺山広久も、勝久方から包囲され説得によって降参します。

 一方で、復権にあぐらをかくようになった勝久は、側近たちからの信頼を失っていきます。やがて側近らの間に実久方の派閥が生じ、勝久排斥運動が勃発。結局、勝久は実久に国政移譲をし、「屋形」の地位を譲って大隈国帖佐に逃亡しています。

 こうして実久は守護としてふるまうようになり、島津本宗家の実権を握りました。ただし、島津家の正史には実久が家督を継いだことにはなっておらず、正式な本宗家としての歴史には残されていません。島津家では、あくまでも第15代島津本宗家は貴久が後継であったとされているようです。


薩摩統一へ

貴久の子・島津四兄弟の誕生

 日新斎・貴久父子の悲願である三国平定をのちに成し遂げるのは、貴久の子であり、島津四兄弟と称される義久・義弘・歳久・家久です。

 忠良と貴久が、地盤を固めている間に、貴久を将来的に助ける子息たちが次々と生まれました。

  • 天文2年(1533):義久
  • 天文4年(1535):義弘
  • 天文6年(1537):歳久
  • 天文16年(1547):家久

 最初の貴久の正室は大隈国肝付兼興の娘でした。若くして亡くなったため、この室との間には子はいません。次の室となった薩摩国入来院重聡の娘雪窓夫人は、長男から三男の三人を生みました。なお、四男の家久は、側室であった橋姫が母となっています。

 この四兄弟は、やがて薩摩・大隈・日向の三州統一を成し遂げ、戦国時代の荒波を乗り越え、薩摩藩の礎を築いた英傑となるのです。

加世田城を制圧して優位に立つ

 天文6年(1537)に、日新斎と実久の間で和平交渉が成されますが、うまくいかずに決裂します。そして、忠良・貴久父子と実久との全面抗争に至ります。

 天文7年(1538)に薩州家の拠点である加世田城を忠良・貴久父子が攻め、一度は撤退を余儀なくされますが、再度の夜襲により攻め落とすことに成功します。これにより薩州家本拠地である薩摩北部への重要ルートを抑えることができました。

実久との決戦、谷山紫原の戦い

 天文8年(1539)の谷山紫原は、薩州家実久との最終決戦となります。貴久は、この決戦を制し、薩州家の谷山本城・苦辛城・神前城を陥落します。

 同時並行で日新斎は川辺高城、平山城、まで出陣し、降伏開城させています。これらの戦いに実久が出陣してきた様子はなく、形勢が悪化したことを見たのか、このまま実久との全面抗争は幕を閉じるのです。

太守として認められる

 天文14年(1545)に日向南部を支配する北郷・豊州家の両氏が貴久のもとに参上し、貴久を「守護職として仰ぎ奉る」という意思を表明します。この有力御家人の太守承認によって、貴久の地位は確かなものとなります。

 次いで貴久側も、「一門・一家・譜代・随身ノ侍」を参集させ、一同が貴久の守護職を承認するという演出をし、確立した地位を知らしめることに成功します。

 この時、京都から参議の町資将が、前関白近衛邸新造費用上申の督促のため下向しており、守護承認の場に出くわして祝言を述べています。近衛家は平安時代には島津家の主家であったため、貴久の時代までつながっていました。

 天文21年(1552)には近衛家を通して長男が、第13代将軍足利義輝の一字を賜り、義辰(のちの義久)と改名。その後、薩摩守護職が賜ってきた修理大夫に正式に任官されています。

 こうしてようやく、島津一族をはじめ、朝廷や室町幕府にも、貴久が正式に薩摩国の守護、および島津本宗家を継承したことを認められるのです。

残された大隈国の平定:岩剣合戦

 正式に中央政権に第15代島津本宗家に認められても、三州の一部の地域にはいまだ貴久を太守と認めていない領主もたくさん残っていました。

 その決戦の場が大隈国の岩剣城でした。天文23年(1554)に勃発した岩剣城の戦いは、一カ月にも及ぶ泥沼の戦いでした。標高150mの断崖絶壁に覆われた堅固な城であったため、攻城は困難を極めましたが、これを制した貴久は、大隈国の拠点を築くことができました。

 この戦いは、義久・義弘・歳久が初陣を果たしたことで知られています。また、これより前に日本に伝来していた鉄砲を最初に使用した合戦だったとされています。

ザビエルとの面会

 なお、貴久の功績にサビエルとの面会があります。天文18年(1549)に来日したザビエルは、貴久と面会してキリスト教布教の許しを得ています。

 これは貴久がキリスト教を理解し、信仰したのではなく、南蛮渡来の輸入品に対する下心がザビエルの布教を許したのです。

フランシスコ・デ・ザビエルの肖像画
イエズス会の創設メンバーの1人で、日本にはじめてキリスト教を伝えたザビエル。

 貴久は、鉄砲や火薬をいち早く戦に導入しており、戦に明け暮れていた島津家にとってそれらは欠かせないものでした。ザビエルを厚遇することによって、輸入がたやすくなることを期待しての布教許可だったのです。

 結果的には、鹿児島の僧侶たちの反感を買ったため、すぐに禁教令が出ますが、貴久はキリスト教への好感を表した武将の一人でもありました。

義久への家督移譲、出家

 永禄7年(1564)に貴久は「陸奥守」、長男義久は「修理大夫」に任ぜられます。この任官によってかつての本宗家14代目の勝久を越えた格となり、義久が正当な後継と認められたことになります。

 永禄9年(1566)には出家して「伯囿」と号しています。この後、貴久は義久に全権を委譲して隠居したとされています。しばらくは加勢をしますが、永禄11年(1568)に父・日新斎が病没してからは加世田城に入り、静かな余生を送りました。

 父の死から3年後の元亀2年(1571)、加世田城で病没。享年は58。幼少時から本宗家の後継者争いに巻き込まれ、戦いに明け暮れた貴久は、4人の勇猛果敢な息子に恵まれ静かな余生を閉じたのでした。


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  この記事を書いた人
Ten-ten さん

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