最後の将軍を輩出した家柄!御三家とは異なる「御三卿(ごさんきょう)」って何のこと?

 2021年の大河ドラマ『青天を衝け』は渋沢栄一が主人公ですが、栄一の仕えた徳川慶喜も印象的に描かれていますね。徳川第15代にして武家政権最後の将軍として知られる慶喜ですが、水戸家から一橋家の養子となり、そのうえで将軍に就任しました。

 徳川将軍を継げるのは宗家以外に、御三家のうちの尾張徳川家と紀伊徳川家というイメージがないでしょうか。実は慶喜が養子入りした一橋家は、江戸時代半ばに創設された将軍の跡継ぎを出せる家柄、「御三卿(ごさんきょう)」の一角でした。

 とはいえ、御三家に比べると少し想像しづらいかもしれませんね。そこで今回は、そんな「御三卿」の意味と歴史をざっくりとみてみましょう!

御三卿とは

 御三卿のはじまりは初代・家康の頃ではなく、享保元年(1716)~延享2年(1745)に将軍職を務めた、8代・徳川吉宗の時代です。

 紀州藩第5代藩主から将軍に就任した吉宗は、御三家の尾張藩第7代藩主・徳川宗春と対立する局面がありました。この時代には御三家といえども、将軍家との距離感は当初期待されたようなものではなくなっていたと考えられています。

 吉宗は御三家以外での将軍後嗣を擁立できるよう、自身の子らを一家として取り立てました。吉宗の子2名に孫1名を加えた三家が、御三卿の起源となっています。

 「卿」というのは三位以上の官位保持者を「公卿」と呼ぶことに由来するなどの説がありますが、『国史大辞典』では八省の長官職への任官例によるという説には懐疑的な立場を示しています。

 御三卿は「田安」「一橋」「清水」の各家が知られていますが、本来の姓は「徳川」であり、上記の家名は号としての名乗り、あるいは通称として呼ばれているものです。

 その名は江戸城の田安・一橋・清水の各門内に屋敷を与えられたことに由来しており、立場としては御三家のような大名家ではありませんでした。将軍の「厄介」、つまり家族の一員という位置付けであり、独立した国主ではなかったのです。

 御三卿には幕府から10万石が支給されていましたが、その領地は近畿および関東とその周辺に分散しており、その経営は幕府に委任する形で代官所が行っていました。家格としては御三家の尾張家・紀伊家に準じるものとされ、御三卿の各家間に序列はなかったとされています。

 当主は元服後に「従三位中将」に叙任、家督相続後には「従二位中納言」を経て「従二位大納言」まで昇進することから、将軍家以外での極位極官であったことがわかります。

 それでは次に、各御三卿家の始祖・系統・領地・有名な人物などを概観してみましょう。

田安徳川家

 8代将軍・吉宗の次男「徳川宗武」を始祖とする家です。宗武が江戸城田安門内に屋敷を与えられたのは享保15年(1730)のことで、翌年にこの地に移転しています。

 当初の収入源は蔵米の支給という体裁でしたが、延享3年(1746)に領地へと変更され、武蔵国・上野国・甲斐国・和泉国・摂津国・播磨国に分散した10万石が与えられました。

 田安家が輩出した最も有名な人物としては、幕末四賢侯に数えられた越前福井藩主「松平春嶽(慶永)」が挙げられるでしょう。春嶽は田安家3代・徳川斉匡(なりまさ)の八男として生まれ、天保9年(1838)に福井藩松平氏の養子となりました。


一橋徳川家

 8代将軍・吉宗の四男「徳川宗尹(むねただ)」を始祖とする家です。宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたのは元文5年(1740)のことで、翌寛保元年にこの地に移転しています。

 延享3年(1746)には、武蔵国・下野国・下総国・甲斐国・和泉国・播磨国・備中国に分散した10万石を与えられましたが、時期によって領地には多少の変動が生じています。

 一橋家は御三卿の中で唯一、将軍を輩出した家として知られています。具体的には11代 家斉と15代 慶喜の2名ですが、慶喜は第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家には養子として入った経緯があります。



清水徳川家

 吉宗の長男で9代将軍を継いだ徳川家重の次男、「徳川重好」を始祖とする家です。重好が江戸城清水門内に屋敷を与えられたのは宝暦8年(1758)のことで、翌年に元服しこの地に移転しました。

 同12年(1762)には、武蔵国・上野国・甲斐国・大和国・和泉国・摂津国・播磨国に分散した10万石が与えられました。清水家初代の重好には実子がなく、大正期まで代々養子によって相続されてきた家でした。

 御三卿は他の大名家と異なり、嗣子がなくても即座に御家が断絶することはなく、当主不在で存続させる「明屋敷(あけやしき)」または「明屋形(あけやかた)」と呼ばれる制度下にありました。しかし清水家だけは初代以降、養子の当主を立てるまで一時的に幕府の預かりとなった経緯があります。

 江戸期最後の清水家当主は、将軍・慶喜の弟である「徳川昭武」だったことが知られています。


おわりに

 御三卿は御三家に比べ、いわば自由度の高い権威をもっていたといえます。その子弟はさまざまな大名家へと養子入りしており、御三家や将軍家にもその血統を送り込んでいるため非常に複雑な系図が描き出されます。

 いずれにせよ名目上は御三卿から最後の将軍を輩出しており、維新後に徳川宗家を継いだのも田安家の「徳川家達(いえさと)」だったことも示唆に富んでいます。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『全文全訳古語辞典』(ジャパンナレッジ版) 小学館
  • 『古事類苑』(ジャパンナレッジ版)

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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