実は甘党? 壮絶な最期を遂げた片腕の美剣士・伊庭八郎の意外な一面

伊庭八郎の浮世絵(月岡芳年画。出典:wikipedia)
伊庭八郎の浮世絵(月岡芳年画。出典:wikipedia)
伊庭八郎(いば はちろう)は、幕末に活躍した剣客で幕臣でもあった。流派は心形刀流(しんぎょうとうりゅう)で、「伊庭の小天狗」という異名を持つほどの遣い手である。

戊辰戦争では、激しい戦いの最中、片腕を失ったにもかかわらず、箱館戦争にも参戦している。ひたすら戦いを求め、死に場所を求めるような凄まじい闘争心を持っていた伊庭八郎だが、彼の残したある日誌からは、のんびりとした日常や、八郎の意外な面が垣間見える。

そこで今回は、伊庭八郎の生涯とともに彼の日誌にも焦点を当てみたい。

八郎は文学少年

伊庭八郎が生まれたのは、天保14年(1843)。幕末江戸四大道場の1つ、心形刀流「錬武館」の道場主・伊庭軍兵衛秀業(ひでなり)の嫡男である。諱(いみな)は、秀穎(ひでさと)。

父・軍兵衛秀業は、八郎が16歳の時にコレラにかかって亡くなっている。本来なら嫡子である八郎が跡を継ぐはずだったが、若年のため、秀業の一番弟子が養子となり、伊庭軍兵衛秀俊と改名して心形刀流九代目宗家となった。

幼いころの八郎は、剣術よりも学問を好んでおり、漢学や書の他に蘭学にも興味を持っていた。八郎の親友として知られる漢学者の中根香亭(なかねこうてい)が回想している『尺振八君の伊庭八郎を救ひたる始末』によれば、

“八郎は(中略)容貌は清秀なる中に和気有りて一個の美丈夫たり。幼年より読書を長谷部旅翁に学び、書法を市河米庵に学び(中略)詩をも歌をも作り、最も軍記物語を好み、水滸伝の如きは大概諳んじ(そらんじ)たり”
『尺振八君の伊庭八郎を救ひたる始末』より

とある。

現在残っている八郎の書を見ると非常に流麗で勢いのある文字で、八郎の才気を感じさせる。とはいえ、やはり蛙の子は蛙、遅まきながら剣術の稽古を始めると、メキメキと腕を上げていった。

伊庭の小天狗

八郎は、いつしか「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」と呼ばれるほどの名剣士となる。またその容姿は、眉目秀麗・白皙美好で役者のような美男であったと伝わっている。

剣の遣い手で、有名な道場の御曹司、学問もできてその上イケメンとなれば、江戸の女性たちが放っておかない。真実かどうかはわかっていないが、役者のような美男として有名なあの土方歳三と2人して吉原へ遊びに行っていたという話もあるらしい。

剣術、学問、そして遊びと大忙しの八郎だったが、世情は次第に不安定になっていった。

奥詰衆から遊撃隊へ

文久4年(1864)正月。八郎は、第14代将軍・徳川家茂の上洛を警護するために上洛している。同年の9月には、奥詰衆に選ばれた。奥詰衆とは、腕利きの幕臣によって結成された将軍警護の親衛隊である。

将軍警護のため、約半年にわたり京の町で暮らし、その間の出来事を『征西日記』として残している。なんとも勇ましい名前だが、内容は八郎の京都観光や京の食べ物に関することがほとんどで、京を満喫している彼の様子がよくわかる。

壮絶な彼の戦いぶりからはとても想像できない穏やかな日常がそこにある。

甘党・八郎

『征西日記』は、正月14日に八郎が京の手前大津に到着したところから始まり、6月25日に亀山宿(現三重県亀山市)を江戸へ向けて出立する準備をしているところで終わっている。京に滞在した約半年の間、八郎は暇を見つけては京観光に出かけ、美味しい食べ物に舌鼓を打っている。『征西日記』から八郎の様子を少し八郎の暮らしをのぞき見してみよう。

上洛して初めての観光は、北野天満宮だ。その後は金閣寺へ行き、楽しんでいる。帰りには「澤甚」というお店で鰻を食べている。「この店は都一番だ」と書いているところをみると、八郎はこの鰻を相当気に入ったようで、このしばらくあとに「澤甚」からウナギ料理を取り寄せているほどだ。

京について半月あまりたったころには、虫歯が痛み、剣術の稽古を3日間休んでいる。八郎は、京にいる間も頻繁に道場へ通っている様子が記されており、やはり剣術が好きだったのだろう。その稽古を虫歯で休むとは、ちょっと可愛い。

八郎は、有名な観光地によく出かけている。東西本願寺に東寺、嵐山。比叡山延暦寺へ行ったときには道に迷って困ったとある。伏見稲荷大社に三十三間堂、宇治の平等院と、まるで現代の観光客だ。八郎は、江戸の吉原に並び称される遊郭・島原へも出かけているのだが、感想はなんと「殊の外そまつ」とある。京を代表する遊郭を粗末と言える八郎。さぞ吉原で遊んでいたのだろうと想像する。

『征西日記』で特に気になるのが、お菓子の登場回数である。「見事なる桃の菓子」や「かすていら」「菓子鮎」「ようかん」「雷おこし」そして八郎が特に気に入っていたらしいのが「しるこ」だ。半年間に5~6回は食べている。友人からの贈り物にも「しるこ」があるところから推測すると、「しるこ」は八郎の大好物だったのではないか。そりゃあ虫歯になるわけである。

こんな風に京暮らしを楽しんだ八郎は、6月にいったん江戸へ戻り、翌年の慶応元年(1865)、再び上洛する家茂の警護をするために、再上洛した。

遊撃隊結成

奥詰衆は、慶応2年(1866)の家茂逝去によりいったん解散し、八郎も江戸へ戻った。その後、元奥詰衆や講武所の剣客が新たに遊撃隊として再編され、八郎も養父・秀俊とともにその一員となる。

慶応3年(1867)10月15日。第15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行った。旧幕府は、世情の乱れを抑えるために、遊撃隊へ上洛の命令を下す。

同年12月9日。王政復古の大号令が出され、朝廷は、慶喜に徳川家の領地四百石のうち二百石を差し出すように求める。旧幕府側と薩長側の間に不穏な空気が流れ始めていた。

逃げるように二条城から大坂城へ下る慶喜を警護した遊撃隊は、京伏見へ戻り、伏見奉行所に陣を張る。旧幕府軍と薩長軍は一触即発の状態のまま新年を迎えた。

戊辰戦争勃発

翌慶応4年(1868)1月3日夕刻。突然砲声が響き渡った。八郎たちが陣取る伏見奉行所より西、鳥羽方面からの砲声である。

鳥羽伏見の戦い

伏見奉行所のすぐ北には、薩摩藩が陣取る御香宮がある。薩摩藩の砲弾攻撃に対し、伏見奉行所に布陣していた遊撃隊、会津藩兵、新選組のほとんどが、剣で立ち向かっている。当然のごとく、旧幕府軍は苦戦を強いられていた。

抜刀し、薩長勢へ迫っていく八郎だったが、銃には勝つことができなかった。胸に砲弾を受けた八郎は、鎧のおかげで命は助かったものの、その衝撃で血を吐き、昏倒してしまった。その後、八郎のような負傷者は、船に乗せられ、大坂まで搬送されている。

傷だらけで大坂城へ入った旧幕臣たちは、すでに主君・慶喜が江戸へ逃げ帰ったことを知らされた。

八郎、片腕を失う

何とか江戸へ帰還した八郎は、同じく遊撃隊の人見勝太郎らとともに、薩長軍(新政府軍)への徹底抗戦を続ける。上総国請西藩(じょうざいはん)藩主・林忠崇(ただたか)は、自ら脱藩し、藩士70名とともに遊撃隊に参加するなど、加盟するものも増えたため、遊撃隊が再編成され、八郎は第二軍隊長となった。

5月15日、上野で彰義隊と新政府軍が激突すると、遊撃隊はこれに呼応し、新政府軍の江戸入りを阻止すべく、箱根において小田原藩と戦っている。

そして26日の箱根山崎の戦いの際、八郎は箱根湯本三枚橋の辺りで足(腰という説も)に銃撃を受けた。一瞬ひるんだところを鏡心一刀流の遣い手、小田原藩士・高橋藤五郎に、左手首を皮一枚残して斬られる。しかし、八郎は振り向きざま高橋に斬りつけ、絶命させた。

八郎は、供をしていた荒井鎌吉に担がれて引き揚げたが、左手はつなげることができない状態だったため、切り落とされた。その後、傷跡が膿んできたため、改めて左腕の肘から切ることになるのだが、八郎はその手術を麻酔なしで受けている。

麻酔が聞かない体だったためとも、麻酔をかけて昏睡してしまうことを嫌ったためとも言われているが、どちらにせよ、麻酔なしだったことには違いない。しかも激痛に呻くこともなかったというのだから、その精神力たるや、ただただ驚くばかりである。

箱館へ

八郎は、療養のため榎本武揚率いる艦隊の旭日丸に残されたが、回復を待って北行した遊撃隊の後を追う。しかし、乗船していた美賀保丸が暴風雨にあって座礁し、命は助かったものの片腕の自分が単独で北へ向かうことは難しいと考え、切腹を決意する。それを止めたのは、前述の中根香亭である。

中根は、横浜へ向かい、知り合いの杉田簾卿(れんけい)を頼る。杉田簾卿は、杉田玄白の子孫であり、医師である。彼は、八郎の身を洋学者の尺振八(せきしんぱち)に任せた。

明治元年(1868)11月28日。長い潜伏生活を終え、八郎はようやく箱館に到着する。箱館に着いた八郎は再び遊撃隊を率いることとなる。

再び戦場へ

雪深い蝦夷の冬も終わりを迎えようとしていた明治2年(1869)4月初旬。伊庭八郎は、遊撃隊隊長として11か月ぶりに戦場に立った。新政府軍に占領された江差を奪還すべく、遊撃隊を指揮し、敵のただなかへ斬り込み、八郎は片腕で数人を斬り捨てている。まさに「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」再来であった。

もう一度華々しく戦いたい、という八郎の思いは果たされた。しかし、最新鋭の軍艦・甲鉄を擁する新政府軍は次第に押し返してくる。敵の激しい攻撃の中で八郎の古い友であった本山小太郎や岡田斧吉らが次々と斃れていった。

最期の戦い

新政府軍との戦いは、大鳥圭介が指揮を取る木古内や土方歳三が指揮を取っていた二股口でも激しくなっていた。二股口は土方の指揮のもと、何度も新政府軍を退けていたが、木古内では劣勢である。八郎は、遊撃隊を従えて木古内へ向かった。

縦横無尽に奮戦する八郎。彼を敵の銃弾が襲った。弾は体内に留まり、八郎の命を削ってゆく。

「俺はもうだめだから、ここに捨て置いてくれ」

そう言う八郎だが、救い出されて箱館へ送られる。箱館に設置された病院へ収容された八郎は、胸の弾を摘出することもできず、ただ寝ているしかなかった。

伊庭八郎の最期

5月に入ると新政府軍の箱館への攻撃が始まる。銃声や縫製を聞きながら、怒りに吠える八郎は、未だに戦意が衰えていない。しかし動くことが出来ず、なすすべもなく日は過ぎてゆく。そして新政府軍の激しい攻撃にさらされ、箱館政府に残された拠点は五稜郭と箱館山近くにある千代ヶ岡陣屋、弁天台場だけとなった。

5月11日。孤立した弁天台場の仲間を救おうと五稜郭から出陣した土方歳三が、一本木関門近くで戦死する。八郎はまだ生きていた。

5月15日。切腹を覚悟した榎本武揚が八郎のもとを訪れる。榎本は「明日には切腹をするから、先に逝って待っていてくれ」とモルヒネ(毒薬)の入った椀を八郎に渡した。八郎は、にっこりと笑い、それを飲み干し、眠るように逝った
『田村銀之助君の旧幕府の勇士伊庭八郎に関する談話』より

享年26歳。伊庭八郎の亡骸は、戦死した土方歳三らとともに五稜郭の一角に埋葬されたと言われている。

ちなみに八郎の亡くなった日は、5月12日とする説もあるのだが、ここでは陸軍隊隊長・春日左衛門の養子であり、榎本武揚の小姓であった田村銀之助の証言を取っている。

あとがき

眉目秀麗の美剣士・伊庭八郎は、片腕になりながらも戦を求め、最期まで戦い続けた。激烈な武士・八郎と京でのんびり暮らしていた八郎では、イメージがあまりにも違い過ぎる。

しかし、戦というものは、それだけ人間を変えてしまうものなのかもしれない。もしも幕末の動乱が無ければ、おそらく八郎は、十代目心形刀流宗家として生を全うしていたはずだ。その代わり、後世に名を残すことはなかっただろう。

剣の遣い手は、戦って死ぬことが本望だという。とすれば八郎は満足だったのかもしれない。せめて最後にしるこを食べさせてあげたいと思うのは、私だけだろうか。


【主な参考文献】
  • 山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記』(幻冬舎、2017年)
  • 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)
  • 中村彰彦『ある幕臣の戊辰戦争 剣士伊庭八郎の生涯』(中央公論新社、2014年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。