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土方歳三が最後の花を咲かせた函館戦争の半年間
- 2022/11/07
幕末の京都で勤王の志士たちに恐れられた佐幕集団「新選組」で、近藤勇局長の片腕として活動した土方歳三。鬼の副長と呼ばれた男は、近藤と別れて徹底抗戦の道を選んだことで、指揮官として後世に名を残すような活躍を見せることになります。
土方はどんな戦い方、生きざまを見せたのでしょうか。
土方はどんな戦い方、生きざまを見せたのでしょうか。
幕府軍として転戦する土方
文久3(1863)年、京都へやって来た土方歳三は、1歳年上で剣術の師匠である近藤勇らとともに、会津藩お預かりの身となり、京都で治安維持を担う役目を仰せつかります。これが、後に「新選組」と呼ばれる佐幕集団となるのです。慶応4(1868)年に幕府軍と薩摩、長州など新政府軍との戦いの火ぶたが切られます。新選組も幕府軍の一員として戦いますが、錦の御旗を掲げた新政府軍に敗北。徳川慶喜が敵前逃亡したことに伴い、江戸に引き上げることになります。
新選組は、千葉県流山に陣を張りますが、新政府軍に取り囲まれてしまいます。この地で、敵方に投降した近藤と別れることになるのですが、土方はあくまでも戦い抜くという決意で、北関東から会津方面へと戦いの場を求めて転戦するのです。
新選組で「鬼の副長」と恐れられた土方の存在は、徹底抗戦する旧幕府軍の隊士たちには心強く思われたことでしょう。会津藩では、白虎隊の少年隊士たちへ盛んに声を掛け、勇気づけていたとの逸話も残っています。
攻城戦と海戦に臨む土方
明治元(1868)年10月、榎本武揚率いる旧幕府軍は、北海道森町付近に上陸し、函館の拠点である五稜郭に向かって進軍します。そのなかに土方もいました。蝦夷共和国の建国を目指していた榎本は、土方の指揮官としての能力を高く評価していたそうです。五稜郭を占拠した旧幕府軍でしたが、土方はさらに松前城に向かって進軍を続けます。松前城では、城兵たちの激しい抵抗に遭いますが、敵の攻撃パターンを読み、城の構造上の弱点を突いた土方の軍事作戦によって、ついに降伏するのです。
旧幕府軍は、さらに江差へと進軍していきます。そして、江差の攻略にも成功するのですが、この戦いで最大の武器である軍艦・開陽丸が沈没してしまいました。函館を守るためには海軍力こそ必要だと考えた土方は、驚くべき作戦に出るのです。
それは、新政府軍の軍艦を奪い取ろうという奇襲作戦でした。岩手県の宮古湾に集結した敵の軍艦のうち、「甲鉄」に狙いをつけて襲撃します。作戦は失敗に終わりましたが、もし奪取に成功していたら、函館戦争は違った展開になったかもしれません。
二股口の戦いと肖像写真
新政府軍の北海道上陸が避けられなくなった旧幕府軍は、五稜郭を守るために函館周辺に防衛線を張ります。そのうちの一つが中山峠近くの二股口で、ここに土方が陣を張り、江差方面から進軍してくる新政府軍を待ち伏せします。戦力に劣る旧幕府軍でしたが、土方は地の利を生かしながら銃撃戦を展開し、新政府軍はなかなか先に進めません。雨あられのように銃弾を浴びせ続けた旧幕府軍の兵士たちは、顔を煤(すす)で真っ黒にしながら、ついに二股口を守り抜いたのです。
しかし、他の防衛線が突破されてしまったため、土方軍も撤退を余儀なくされます。新政府軍の圧倒的な兵力の前に敗色濃厚となった旧幕府軍。そんな時、土方歳三は「一枚の写真」と手紙を、まだ年若い小姓の市村鉄之助に託したのです。
その「一枚の写真」は、総髪でマントを身に着け、ブーツを履いた土方歳三の肖像写真として、あまりにも有名です。土方は写真を親族に届けるよう命じたといいます。函館での自分の雄姿を残したいというスタイリストな一面を感じずにはいられません。
おわりに
五稜郭タワーを訪れると、「一枚の写真」をモチーフにした土方歳三の像が来館者を出迎えてくれます。今も多くの歴史ファンの心をつかんでいる土方の生きざま・・・新選組副長のまま生涯を終えていれば、ここまで歴史に名を残せたでしょうか。土方が函館にやって来た理由は、榎本武揚の夢に人生を賭けてみたとも、華々しく死ねる場所を探していたとも言われています。その真意は分かりませんが、函館での半年間の戦いで、土方歳三は「生きた証(あかし)」を鮮烈に見せつけたことは確かです。
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