草莽庶民が武器を持ち、国のために戦った幕末諸隊

戊辰戦争中の薩摩藩士たち(出典:wikipedia)
戊辰戦争中の薩摩藩士たち(出典:wikipedia)
鎌倉・室町・戦国と続いた戦乱の世は終り、中央集権政府徳川幕府が治める太平の世が260年続きました。その間にいざと言う時の戦闘要員である幕臣たちは戦い方を忘れてしまいました。そんな幕府を横目に幕末日本各地で実際に戦える部隊が結成されました。これを「諸隊」と呼びます。

佐幕派あり、倒幕派あり、攘夷派あり、勤皇派ありとさまざまですが、武士も庶民も巻き込んだ一人一人の構成員が己の信ずる道に従って戦い抜きました。

徳川太平の世、将軍家のご威光で日本は護られているはずだった

日本国内では島原・天草一揆(1637)を最後に本格的な戦は戦われていません。百姓一揆など国内の騒乱はありましたが、外国からの攻撃はありませんでした。

しかし19世紀も半ばになると情勢が変わって来ます。嘉永6年(1853)6月、江戸と目と鼻の先の浦賀に姿を現したペリー提督率いる蒸気船2隻を含む艦隊に幕府は大慌てします。日本には外敵を打ち払ったり戦ったりするための国軍は存在していませんでしたから。

戦国時代が終わり、徳川家が征夷大将軍を世襲する体制が整うにつれ、「将軍の威勢により外敵は制圧され、幕府の統制の下大名同士の争いも起きない」これを前提とした国家体制が定着してしまいました。何の裏付けも無いんですけどね。

1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図。(出典:wikipedia)
1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図。(出典:wikipedia)

幕府に攘夷の力は無い事が明るみに

一応は幕府の大番組や馬廻組、小姓組や鉄砲隊など軍事組織としては維持されていましたが、その実態は彼らは戦闘員ではなく、行政担当の役人でした。

海防に関しても幕府が直属の旗本部隊を持っていて差し向けてくれるわけではありません。時には日本へ漂着する外国船があっても、実際に人間を出して処理するのは沿岸諸藩の役目とされ、幕府は命令を下したり対応役人を派遣するだけです。しかし外国にとってそんな日本の事情など知った事ではありません。

最初の接触は寛政4年(1792)年、ロシア使節ラクスマンの根室への来航ですが、それ以前にイギリス・フランス・ロシアは清国への接触を強めていました。日本へもあと一歩です。

しかし武力を背景にしたペリーに迫られ、日米修好通商条約(1858)を結ばされたことで、攘夷を唱えても幕府にその力は無い事が明るみに出てしまいました。その後も幕府は外圧に押しまくられ、5ヶ国と通商条約を結び、政治の混乱を招きます。

尊王攘夷の声は大きくなり、それを弾圧した安政の大獄(1858~59)、その報復としての桜田門外の変(1860)、各地で相次ぐ外国人殺傷事件と、幕府は統治能力の無さを露呈して行きます。

お上に任せておいてもダメだ、日本は政治の季節に

攘夷のための富国強兵、外国に対応できる軍事力を持たねば話にならない、泥縄ながら幕府も措置を講じます。

横須賀に造船所を作り、長崎に海軍伝習所を開きます。陸軍では文久2年(1862)以降、軍事改革が行われ、歩兵・騎兵・砲兵の三兵を組織し、将軍直属の常備軍とします。慶応2年(1866)には横浜に陸軍伝習所も開き、フランス人教官の指導を仰ぎ実際に戦える部隊として訓練します。

一方、庶民は外国との貿易による物価の高騰、開港後の混乱に乗じた米の買い占め高値販売、相次ぐ飢饉や天災に苦しめられ「この国はどうなるのだ」「お上に任せておいて大丈夫なのか?」との思いに突き動かされます。幕府の威信は失墜し、今まで黙ってお上の言いつけに従っていた庶民が自分たちで声をあげ動こうとしました。

村で町で寄合が開かれ、全国で「お上のすることにモノ申そう」との機運が高まります。いわゆる草莽の政治参加で、日本は開闢以来の政治の季節を迎えました。

『草莽諸隊』の誕生

海防の必要性を肌で感じていたのは沿海部に領国を持つ大名たちでした。その筆頭が長州毛利家です。

しかしその毛利家でも従来の家格にこだわり、一兵卒として戦闘に参加するのを潔しとしない武士の扱いには限界を感じていました。高禄の武士であっても足軽と同様に部隊の一員として動かねば近代戦は戦えない、この考えを藩に持ち込み、藩兵の訓練に取り組んだのが、天保の改革で活躍した村田清風です。

長州藩の藩政改革を主導した村田清風(萩博物館所蔵、出典:wikipedia)
長州藩の藩政改革を主導した村田清風(萩博物館所蔵、出典:wikipedia)

清風は碌高に拘る武士に「戦国時代家臣は皆一兵卒だった」との理屈を持ち出して説き伏せ、家格よりも個人の能力を選抜基準とする軍事組織を造り上げます。嘉永6年(1853)3月に創設された、陸軍先兵隊・水軍先兵隊・馬廻り警衛隊の3隊ですが、藩士の中から20歳以上35歳以下の身体強壮な者を家臣団編成とは別に選別しました。

これが毛利家に置ける藩主導の「諸隊」のさきがけで、後の高杉晋作の奇兵隊設立につながります。このような動きは長州藩だけではなく、全国各地に広がりました。

藩主導・幕府主導など、形態は異なりますが、武士・百姓・町人・博徒・僧侶・神主・猟師・力士などあらゆる階級の人間から成る「草莽諸隊」が誕生します。

有名なところでは、幕府側の新選組や彰義隊、討幕派の奇兵隊や遊撃隊がありますが、全国では300を超える隊が結成されたようです。また機会があればご紹介したいと思います。

長州奇兵隊の隊士の写真(出典:wikipedia)
長州奇兵隊の隊士の写真(出典:wikipedia)

おわりに

戊辰戦争後、明治新政府は武力を持った集団である諸隊を持て余しました。隊内での身分による厳しい区別は最後まで残りました。

各地を転戦した挙句、褒賞も無いまま放り出された隊員は多かったようですね。無事に故郷に帰れた者はまだ幸いで、悲惨な最期を遂げた隊員も多くいたのです。


【主な参考文献】
  • 伊藤春奈『幕末ハードボイルド』(原書房、2016年)
  • 日本史籍協会/編『野史台維新史料叢書37』(東京大学出版会、1975年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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