「池田屋事件(1864年)」新選組が志士たちの京都大火計画を阻止!?事件での死者たちとその真相

 池田屋事件によって明治維新は一年遅れた、と言われています。尊王攘夷派の志士たちは京都大火を画策し、新選組がこれを阻止。天下にその名を轟かせました。

 新選組はどのようにして情報を集めて手配りを行ない、どう戦ったのでしょうか。当時の関係者の記録からその真相に迫ります。では、池田屋事件について見ていきましょう。

池田屋事件直前 浪士たちの集合場所を探すまで

京都大火計画

 文久3年(1863)の八月十八日の政変後、長州藩は政治工作を展開。京都での勢力回復を企てていました。

 会津藩は幕下の新選組に市中警備や不逞浪士の探索を命令。そこで浮上したのが、四条小橋で薪炭(馬具とも)を商う枡屋喜右衛門です。枡屋喜右衛門とは、本名の代わりに使われる変名であり、その正体は近江国出身の古高俊太郎という尊王攘夷派の志士でした。

 元治元年(1864)6月5日早朝、新選組が枡屋に踏み込むと、武器や長州藩関係者とやり取りした書簡を発見。新選組の副長・土方歳三による古高への拷問によって、恐るべき計画が発覚します。

箱館戦争時の土方歳三の肖像写真
局長・近藤勇の右腕として新選組を支えた土方歳三。剣術も相当の腕前だったとされる。

 古高は

「風の強い日を狙って御所に火を放つ。参内する松平容保ら佐幕派の諸侯を討ち取り、孝明天皇を長州へご動座し奉る(連れ去る)」

と漏らします。しかしこの自白内容(京都大火計画)は捏造だという説もありました。幕府方の記録には確かに京都大火計画は記されていますが、討幕方には存在しません。仮に真実だとしても、討幕方がわざわざその記録を残すとも考えにくいものがあります。

秘密裏の襲撃作戦

 古高の捕縛により、長州藩や肥後藩の尊攘派は色めき立ちます。同日中には、押収された武器弾薬は何者かによって奪われてしまいました。

 新選組もこれには動揺し、次の行動に出ます。尊攘派が古高奪還の協議のために旅籠・池田屋か四国屋などで会合が行われることを予想しました。

 この時の新選組の総勢は40人程度でした。山南敬助ら6名を壬生の屯所に残し、近藤勇と土方歳三らが総勢34名で出陣することとなります。同時に会津藩にも報告を上げて援軍を要請。京都守護職の名の下に諸藩兵が動員されれば、容易に決着がつくはずでした。

 午後になって新選組は壬生屯所から外出。軽装備で市中に出て行きました。尊攘派に決して行動を悟られまいと気を使った様子がうかがえます。

 新選組は祇園にある町会所に集合。ここで会津藩兵の援軍を待つこととなりました。しかし予定時刻となっても連絡がないため、近藤や土方らは単独での討ち入りを決意します。このときの会津藩では、長州藩との対立を懸念する声が上がっていました。そのため援軍を送るのが大幅に遅れていたようです。

多数の死者を出した池田屋事件

三条木屋町の池田屋に突入

 6月5日亥の刻(午後22時)、新選組は二手に分かれて行動。局長の近藤勇が10名で池田屋方面に、土方隊24名は四国屋方面に向かいました。両隊は鴨川を挟んで行軍し、次々と旅籠を探索していきます。しかしそのいずれも浪士たちは不在でした。

 やがて近藤隊は、三条木屋町の池田屋に到着。屋内へと踏み込みました。まさにここに、20名以上の長州系浪士たちが集結していたのです。

 近藤は沖田総司や永倉新八、藤堂平助らわずか4名で屋内に突入。二階に上がって戸を開けます。そこには抜刀した浪士たちが待ち構えていました。通常ならば臆して声も出なくなる状況です。しかし近藤は果敢な態度を保ったままでした。

 近藤は

「御用検めである。手向かい致さば容赦なく斬り捨てる」

と声を張り上げます。その瞬間、浪士の一人が斬りかかりました。即座に沖田が飛び込み、その浪士を斬り伏せます。にわかに戦端が開かれ、近藤たちは多勢を相手に斬り合います。

 新選組の任務は浪士たちの捕縛です。しかし多人数を相手にする以上、その余裕はありません。近藤は「斬れ」と命じて暗闇の中を味方とともに駆け回りました。しかし藤堂は額を斬られ、沖田は病に倒れて離脱。永倉も親指に重傷を負うなど、苦戦します。

夜明けの京都を凱旋する

 浪士たちは応戦しつつ、屋外への脱出を試みました。浪士の首魁だったのが、肥後勤王党の宮部鼎蔵です。

鼎春園(熊本県上益城郡御船町)にある宮部鼎蔵の像
鼎春園(熊本県上益城郡御船町)にある宮部鼎蔵の像

 宮部が踏み止まり、土佐浪士たちは脱出。長州の吉田稔麿も長州藩邸に援軍を請いに外に出ています。このとき、新選組は完全な劣勢に立たされた状況でした。近藤と永倉以外の隊士は離脱し、外を固めている5名のうち3名がやられています。

 もはやこれまでという時、土方歳三の隊24名が到着します。これにより形勢は完全に逆転。新選組は浪士9名を斬って4名の捕縛に成功するのです。

 戦闘が終結した後、現場に会津や桑名の藩兵が到着。しかし土方は手柄を横取りされぬよう、一歩も中には入れませんでした。

 宮部鼎蔵は現場において自刃。逃げた土佐浪士の多くも捕縛や自刃という形で最期を遂げました。長州の吉田稔麿は会津藩兵に斬られて死亡しています。会津や桑名の藩兵を中心とする包囲網は市中に敷かれていました。尊攘浪士の掃討作戦は翌朝まで続き、新選組は夜明けまで池田屋に待機したと伝わります。

 沿道を凱旋する新選組は、人々の目を引き付けます。新選組の隊士たちは、抜き身の刀を持ったまま歩いていたからでした。これが戦いで曲がった刀が鞘に入らなかったからだそうです。

池田屋事件の真相と坂本龍馬

坂本龍馬が倒幕派になる契機は、池田屋事件だった?

 池田屋事件によって、京都大火計画は未然に防がれました。この事件により、一介の浪士集団であった新選組の名は全国に轟くこととなりました。

 事件で自刃した宮部鼎蔵は肥後勤王党の首領です。生きていれば、後に総理大臣になるほどの傑物だったと伝わります。宮部のほかにも土佐の北添佶磨や望月亀弥太など、多くの志士たちも命を落としています。

 北添は池田屋の階段落ちのシーンで知られています。映画やドラマでは、近藤勇が階段を駆け上がりざまに一刀で斬り伏せるところが描かれています。これは子母澤寛の創作とされています。史実において、北添は池田屋で自刃を遂げました。

 北添や望月など、池田屋や禁門の変で捕殺された土佐浪士の中には、神戸の海軍操練所(海軍士官養成所)の塾生も含まれていました。このため操練所は後にに閉鎖に追い込まれています。

 当時の海軍操練所の塾頭は坂本龍馬であり、この事件によって薩摩藩の庇護を受けることとなりました。ある意味、池田屋事件によって坂本龍馬が倒幕運動に身を投じたという見方も出来ます。この事件が日本に与えた衝撃は大きく、池田屋事件によって明治維新は1年遅れたと言われています。

 長州藩では同志を殺された過激派が怒りに燃えていました。一月後の7月19日には長州藩は兵を引き連れて上洛し、禁門の変が勃発。京都市街地の三分の一が焼けるほどの大火事になるほどの激戦となりました。

池田屋事件の報奨金は死者にも出ていた!?

 同年の8月、新選組に幕府と会津藩より報奨金を拝領しています。恩賞金500両(5000万円)と薬種料100両(1000万円)の合わせて600両(6000万円)です。

 池田屋に踏み込んだメンバーには、それぞれ金10両と別段金が5~20両支給されています。
なお、池田屋当日に討ち死にした奥沢英助と、負傷が元で死亡した安藤早太郎、新田左衛門にも20両ずつ支給されています。

 局長の近藤には、京都守護職・松平容保から陸奥大掾三善長道の刀が送られています。陸奥大掾三善長道は最上大業物に列する刀剣です。その類稀なる斬れ味から「会津虎徹」とも称されました。近藤の虎徹の話は、ここが原型とも考えられます。

 最上大業物は刀剣の中でも最高ランクの位置付けにあります。それを与えられるのは、武士でもほんのひと握りもいません。新選組がどれだけ幕府と会津藩から認められ、その功績が大きかったかを物語っています。

京都大火計画と池田屋事件の真相

 近年の研究では、京都大火計画などの陰謀説は新選組による捏造という説も出て来ています。この事件によって新選組は存在意義を確立し、同時に実力行使を正当化することができています。

 理由のもう一つが史料の不確実性です。京都大火や松平容保暗殺などの言葉は、幕府側の記録にしか記されていません。討幕派の史料には、そういった記述が登場しないのです。

 土方歳三は古高から壮絶な拷問によって計画を自白させています。しかしその古高も禁門の変の際に処刑されており、真実は闇の中と言えます。

 池田屋事件後、禁門の変によって京都が火の海になり、長州藩は朝敵となりました。そのため京都大火計画はまことしやかに語られた可能性も否定できません。しかし仮に京都大火計画があったとして、討幕側が記録に残るとも考えられません。

 幕府側の記録にある以上、一定の説として否定することはできないようです。


【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。
ゆさのぶ
京都大火計画があったとして、討幕側が記録に残すとは考えられにくいのは
私も思います。そのような重要な計画を記録に残して、落としたり、奪われたら
計画が明るみになるでしょうからね。
しかし
京都大火計画には「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち」とあります。
京都に長年住んでいる人からするとこれはありえないそうです。京都では何十年も
祇園祭の前に強い風が吹いた事はなかったみたいです。
つまり、計画にしてはすぐ思いついて作ったようなあまりにもいい加減な
計画ということになります。また新選組の行動の辻褄が合わない。
そして貴重な情報源である古高が早々に処刑されていること。
志士側を捕らえる手がかりになる古高を早々に処刑したところで
新撰組側にメリットはないように思えます。
当時京では長州藩や志士側は人気でした。
逆に新選組や会津藩は評判が悪かったようです。ですから志士側に協力的だった
人はそれなりにいたわけですが、そんな協力的な人々が住む京を天皇誘拐のために
火の海にしようと考えるかなと疑問に思います。木戸の性格からしてもそんな
計画があれば強く反対するかと思います。

以上の事を考えると、私は京都大火計画は拷問された古高が出鱈目を言って新選組を
混乱させようとしたのか、新選組による陰謀の可能性が高いと考えます。
2023/08/19 12:16