戦国時代のおもてなし料理「本膳料理」とは?

おもてなし料理というとどんなものを思い浮かべるでしょうか。料理のジャンルはいろいろありますが、テーブルいっぱいのごちそうを想像しませんか?

実は戦国時代のおもてなし料理も同じで、「本膳料理」というスタイルでたくさんのお膳で客人を迎えもてなしたのです。それでは、本膳料理の詳細や変容を紹介していきましょう。

本膳料理のはじまり

本膳料理が確立されたのは、室町時代の饗応の宴でのことでした。式三献の酒盃・本膳・ふたたび酒盃という三部立てスタイルの本膳料理は、平安時代の儀礼食である「大饗」が変化したもので、ルーツをたどると中国や朝鮮の影響があるとされています。

この本膳料理はその後も江戸時代の将軍家や大名家の饗応の膳として引き継がれていき、今日の「会席料理」へと変化していくことになります。

献立の内容と饗宴の様子

実際の献立はどんなものだったか、少し紹介しましょう。

式三献(酒礼)

式三献は饗宴の儀式にあたるもので、今でいうと駆けつけ三杯といったところです。全体で三献あり、例えば鶏・雑煮・鯛・たこ・するめなどの料理が酒とともに振る舞われました。この式三献は、神前婚の三々九度として現代にも残っています。

本膳料理(饗膳)

本膳料理は、七・五・三または七・五・五・三・三の料理からなる三膳・五膳が基本でした。場合によっては七膳にもなることもあったようです。品数は紹介したとおり大変多く、湯漬(今でいうお茶漬け)や焼き物・香の物などが出されました。振る舞われる料理は海の幸が多く、一膳につき何種類もの献立が登場します。

儀礼である式三献が終わり、ここで本格的な宴が始まるので、料理や酒献が振る舞われている間は能・猿楽・狂言などが上演されました。現代に置き換えてみると、ディナーショーのような感じです。

本膳料理の図
本膳料理の図(出所:お食事マナー・テーブルマナーのやさしい解説)

お菓子

続いては、口直しのお茶とお菓子です。胡桃や麩)、打栗(栗をつぶして砂糖を加えたもの)などが出されました。ここで出されるお菓子の品数も複数あり、本膳料理と同じように器にもこだわりました。

酒盃(酒宴)

口直しが終わったら再び酒盃の続きです。式三献から続けて数え、十一から十五献まで続きます。ここでも一献ごとに魚や饅頭、麺類などが出されました。

戦国時代に盛んだったおもてなし料理の記録

このように室町時代に確立された本膳料理は、多数記録として残されています。それが「御成記(おなりき)」というもの。

おもてなし料理を記録した記録は、室町時代後半から戦国時代にかけて多く登場するようになりました。その多さからは、当時の人々が来客をもてなすことに力を注いでいたことや、いかに饗宴の場の伝統儀礼を大事にしていたかがうかがえます。

宣教師も驚く饗応の宴

戦国時代当時の宴を記録しているのは「御成記」だけではありません。当時日本を訪れた宣教師も実際に招待された饗応の宴の様子を感想とともに記していました。

例えば、ポルトガル人宣教師のジョアン・ロドリーゲスの『日本教会史』という書物。宣教師としてだけでなく、日本語に長け、通訳としても活躍したロドリーゲスは、日本で見聞きした文化をまとめたのです。

彼の目から見た記述で興味深いのが、日本人の酒の飲み方についてのもの。内容は、すべての宴会や遊興において、さまざまな方法でとんでもない量の酒が振る舞われ、人々は酩酊し前後不覚になってしまう、というものです。

たしかに、本膳料理のスタイルは最初から最後まで酒を飲み続けるようになっており、ただでさえ酒に弱い遺伝子をもつ人が多い日本人が、酔いつぶれないわけがありません。おもてなしに対して敬意を払うのはいいことですが、下戸であっても無理やり飲む様子はロドリーゲスにとって異様な光景であったかもしれません。ともすれば、現代ではアルコール・ハラスメントにもなり得るような仕組みでした。

信長や秀吉の時代に変化した

ロドリーゲスは、饗宴で使用される盃にも言及します。当時は酒を飲む際に素焼きのかわらけを使用していました。

かわらけは儀礼に用いられる盃であり、基本的に再利用することなく使い捨てされるものだったので、安っぽい素焼きの盃でした。ところがこのかわらけは乾いているので唇に貼りつきやすく、乾いた唇をそのままつけると唇の皮がかわらけにくっついて剥がれてしまうこともありました。

ロドリーゲスはこの難儀な盃について扱いにくいという感想を残しているのですが、この饗応の宴の伝統のひとつともいえるかわらけは廃止されることになります。

それが信長や秀吉の時代でした。特に信長はわずらわしい古い習慣を変え、使用する器は美しく光沢のあるものへ変えました。そして料理も、ただの飾りとして出されていた置鯉などを撤廃したほか、冷たいものよりも温かい料理を出すようになります。
伝統が徐々に変化し、しきたりよりも料理をおいしく食べることに目が向けられ始めたのです。

本膳料理は現代のフルコースにも影響を与えたスタイルだった?

平安時代の大饗から変化した本膳料理は、現代の会席料理になりました。古い時代から続く日本の伝統的な食事のスタイルですが、実は外国の食文化にも影響を与えたといわれています。

西ヶ谷恭弘氏は『戦国の風景 暮らしと合戦』の中で、本膳料理がフランス料理のフルコースに影響を与えたことに言及。

「おそらく十六世紀から十七世紀前半の大航海時代に、盛んにアジアを訪れた宣教師や貿易商によって、また南蛮船に同乗した調理師(コック)などによって、中国宮廷料理やわが国の本膳料理がヨーロッパに紹介され、西欧特有の食材でコース料理が考案されたのであろう」
西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

と述べています。

当時の食文化は現代日本だけでなく、西欧にもその形を残しているといえるかもしれません。


【主な参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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