「八重姫」源頼朝の最初の妻とされる女性の悲恋
- 2021/12/22
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で新垣結衣さんが演じることで話題になった八重姫(やえひめ)。主人公・北条義時の初恋の人であり、そして源頼朝の最初の妻として描かれるようです。
八重姫と頼朝の悲恋はよく知られますが、実は八重姫について書かれた資料は軍記物語で、信憑性のある史料には登場しないことから、実在する人物なのかどうかははっきりしていません。ここでは主に軍記物語『曾我物語』を参照しながら八重姫と頼朝の悲恋について紹介します。
八重姫と頼朝の悲恋はよく知られますが、実は八重姫について書かれた資料は軍記物語で、信憑性のある史料には登場しないことから、実在する人物なのかどうかははっきりしていません。ここでは主に軍記物語『曾我物語』を参照しながら八重姫と頼朝の悲恋について紹介します。
伊東祐親の娘として生まれる
『曾我物語』によると、八重姫は平安時代後期の伊豆の武士・伊藤祐親(すけちか)の三女として生まれたようです。生没年はわかっていません。伊東氏といえば伊東四朗さんのルーツとして話題になりましたが、伊豆国田方郡伊東荘の豪族で、平家に属していました。頼朝との短い結婚生活
平治の乱で源義朝が敗れて殺され、平治2(1160)年に14歳の頼朝は伊豆に配流されました。そのとき平清盛に命じられて監視役を務めたのが、八重姫の父・祐親でした。祐親には4人の娘がおり、上のふたりの娘はすでによそに嫁いでいましたが、三女・四女はまだ親元にありました。祐親の娘の中でも美人として評判だったのが三女の八重姫だったようです。ふたりは、監視役の祐親を通じて出会ったのでしょう。
「兵衛佐殿、忍びてこれを思し召しけるほどに、月日久しく積りて、若君一人出で来させ給ふ。佐殿、大きに喜び給ひ、御名をば千鶴御前とぞ呼ばれける」
頼朝はひそかに八重姫を愛し、一緒に過ごしているうちに千鶴御前(千鶴丸)という男子が生まれました。頼朝はとても喜んで、この子が元服したら坂東八か国を回って運を試したいといって寵愛したそうです。
千鶴御前の死
しかし、その幸せも長くは続きませんでした。頼朝が29歳の年のことです。「大番役」といって、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、御所や都の市中を警護役を地方の武士が担っていて、祐親がちょうどその役目を終えて都から伊豆へ帰ってきたところ、自分が知らない間に頼朝が娘との間に子をもうけていたことに激怒してしまうのです。
もし祐親がずっとそばにいれば、このような事態にはならなかったかもしれません。当時の大番役は3年だったようですから、鬼の居ぬ間に洗濯、ふたりが関係を深め、子を成すだけの余裕があったわけです。
3歳くらいの見たことのない子がいるのを見て女房に「誰の子か」と尋ねた祐親は八重姫の子だと知ると、
「いかに。親の知らぬ婿やあるべき。いかなる人ぞ。不思議さよ」
と、「親の知らない婿があるだろうか。何者だ!けしからん!」と怒り、相手が頼朝だと知ると、余計怒ってしまいました。
「娘数多持ちて、もてあつかふものならば、いくらも迷ひ行く乞食・修行者をば婿に取るとも、当時、世になし源氏の流人を婿に取りて子を産ませ、平家方より御咎めある時は、何とか答へ申すべき」
「娘をたくさん持ってもてあましたならそこらへんにうろつく乞食や修行者を婿に取ったとしても、落ちぶれた源氏の流人を婿に取って子を産ませるなんて、平家からお咎めがあったらどう申し開きしたらいいのだ」と言って、もし平家に知られたら……と恐れるのでした。
祐親は八重姫を大切にしていたようですから、乞食・修行者云々は大げさな言葉だとしても、流人の頼朝がそれらに劣る存在だと見ていたのは確かでしょう。
祐親はすぐに千鶴御前を連れ出させ、簀巻きにして水に沈めて殺してしまいました。
引き裂かれる八重姫と頼朝
また、祐親は頼朝から八重姫を奪い返すと、すぐに伊豆国の江間次郎という男(江間は若い時の北条義時とする説もある)に嫁がせました。頼朝と引き裂かれた八重姫は思いがけない新枕に悲しんだようです。祐親は頼朝の処遇について、「将来的になるだろうから、殺さなければ」と考え、夜襲をかけて暗殺する計画を立てました。しかし、祐親の子で頼朝の乳母・比企尼の娘を妻にしていた祐清(祐長)はさすがに頼朝を気の毒に思い、頼朝に父の計画を知らせて逃がしました。この時、祐清の烏帽子親・北条時政に託したことで、頼朝と北条政子との縁ができたのです。
八重姫のその後
頼朝と引き裂かれた八重姫がその後どのように生きたのか、これも伝承の域をでませんが、複数の言い伝えがあります。ひとつは、眞珠院に伝わる逸話です。八重姫は頼朝のことが忘れられず、2年後に伊東の館を出て北条の館まで頼朝を訪ねていきました。しかし、その時頼朝は政子と愛し合っており、それを知った八重姫は悲しみのあまり眞珠院の正面にある真珠ケ淵の激流に身を投げて命を絶ってしまったといいます。眞珠院には八重姫を供養する御堂があります。「入水時に梯子があれば助かったかも」ということで「梯子供養」として、梯子を供える習慣があるそうです。
また、最誓寺には、八重姫が千鶴御前の菩提を弔うために建てられたという伝承があります。
ちなみに、『曾我物語』は頼朝と政子の契りのエピソードの中で、政子は八重姫とくらべてはるかに美しく、その美貌に惚れて頼朝は一度の逢瀬の後は離れがたいほどだったと語られています。
2年経っても頼朝を思っていた八重姫に対し、すぐ次の恋人を見つけた頼朝がなんだか薄情に思えるエピソードです。
『吾妻鏡』にはどう書かれている?
八重姫については語られないものの、歴史書『吾妻鏡』にも祐親の頼朝暗殺のエピソードはあります。『吾妻鏡』の治承4(1180)年10月19日条には、以下のように記されています。
「祐親法師、欲奉度武衛之時、祐親二男九郎祐泰依告申之、令遁其難給訖」
(訳:祐親が頼朝を暗殺しようとした時、祐親の次男の祐泰(祐清)が計画を教えてくれたので、難を逃れることができた)
また、養和2(1182)年2月15日条には、祐親の暗殺から逃れた出来事は安元元(1175)年であることが語られています。
祐親が頼朝を暗殺しようとしたきっかけが八重姫との結婚にあったかどうかは不明ですが、そういう出来事があったのは確かなようです。
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【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)※本文中の引用はこれに拠る。
- 『吾妻鏡』(古典選集本文データベース 国文学研究資料館所蔵 寛永3年版本)※本文中の引用はこれに拠る。
- 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
- 伊豆の国市観光協会 HP眞珠院
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