「伊東祐清」源頼朝を助けた恩人で、頼朝最初の妻・八重姫の兄弟

源頼朝は生涯で幾度も危ない目に遭い、切り抜けてきました。そのひとつが、監視役の伊東祐親に殺害されそうになった出来事です。頼朝は祐親の次男・伊東祐清(いとう すけきよ)に計画を知らされ、北条へ逃れて九死に一生を得たのです。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では竹財輝之助さんが演じられる伊東祐清。その生涯を取り上げます。

頼朝の命の恩人・伊東祐清

伊東祐清は、伊豆に配流された頼朝を監視した伊東祐親(すけちか)の次男で、通称を九郎、別名を祐長、祐氏などといいました。

兄には、曾我兄弟の父である河津祐泰(すけやす)がいます。父の祐親は平重盛・維盛父子に仕える平氏の家人で、その関係から頼朝の監視役になったものと思われます。

祐清にかかわるエピソードとして知られるのが、父の祐親が頼朝暗殺を企てた際、頼朝を逃がして救ったという出来事です。

『曾我物語』によれば、祐親が頼朝を殺害しようとしたきっかけのひとつは、彼の娘の八重姫と頼朝との関係にあったことだったとか。

祐親の三女・八重姫は美人で評判の女性で、頼朝はそんな八重姫を愛するようになりました。ふたりはおそらく祐親の目を盗んで逢瀬を重ねたのでしょう。父の祐親がふたりの関係を知ったのは、彼が大番役(京都市中の警護役で、当時の任期は3年)を務めて伊豆に戻ってきた後のことでした。

八重姫と頼朝は祐親の知らない間に千鶴御前(千鶴丸)という男子をもうけており、祐親はこれに激怒しました。平家方に知られては大変なことになると考えた祐親は3歳ほどの千鶴御前を水に沈めて殺害すると、八重姫を頼朝から引き離して伊豆の住人・江間次郎(えまのじろう)に嫁がせてしまいます。

さらに祐親は頼朝殺害を企てて夜討にしようと準備を進めますが、これを知った祐清は頼朝に危険を知らせて逃がしました。

祐親は平氏家人を父にもつ一方で、頼朝の乳母(めのと)である比企尼(ひきのあま)の三女を妻にもっていました。比企尼は頼朝の流人時代を経済的に支えた女性で、その後も彼女の娘や娘婿たちは頼朝を支えました。祐清が頼朝を助けたのも、比企尼が「何かあった時は頼朝を支えてほしい」と頼んでいたからかもしれません。

逃げたとしても頼るところがない頼朝に、祐清は自身の烏帽子親である北条時政を頼るように言って逃がしました。頼朝が時政の監視を受けるようになり、その娘・政子と結婚したのも、すべては祐清がつないでくれた縁だったというわけです。

一般的に頼朝の監視役としては時政が有名ですが、この暗殺未遂事件が起こったのは歴史書の『吾妻鏡』によれば安元元(1175)年のこと。頼朝が伊豆に流されたのは永暦元(1160)年で、それから工藤祐継・伊東祐親の監視を受けて暮らしていたわけですから、流人生活のうち4分の3は伊東荘で過ごしたものと思われます。

祐清は比企尼の娘婿として何かと頼朝を気にかけていたでしょうし、気心知れた仲だったのではないでしょうか。

頼朝と敵対した祐清の最期

治承4(1180)年、頼朝が以仁王の挙兵に従って打倒平氏の兵を挙げると、祐清の父・祐親は頼朝と敵対しました。祐清も父に従っています。

『吾妻鏡』では

『吾妻鏡』治承4(1180)年10月19日条によれば、その後伊東父子は同年10月に頼朝方に捕らえられ、祐親は娘婿の三浦義澄が預かることになったとされています。

一方の祐清は、かつて頼朝を救った手柄にこたえて恩賞を与えてやろうと言われましたが、「父已爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎(父が頼朝の敵なのに、子の自分が恩賞をいただくことなどできない)」と断り、平家軍に加わるべく京都に向かったとしています。

さらにその後、建久4(1193)年6月1日条を見ると、祐清は平家軍として戦った「北陸道合戦」で討死したとあります。これはおそらく加賀国篠原(現在の石川県加賀市)で行われた木曾義仲との戦い(篠原の戦い)でしょう。

ちなみに、この日の条には、祐清の兄・祐泰の子(曽我兄弟の弟)で僧となる子が、祐泰の死後に祐清とその妻・比企尼三女に引き取られ、祐清の死後も平賀義信と再婚した比企尼三女の元で変わらず子として暮らしたことが記されています。

さて、この記述に従うならば祐清は寿永2(1183)年6月1日に亡くなったことになりますが、実は『吾妻鏡』には矛盾した記述もあります。

それは、祐清の父・祐親が自害した養和2(1182)年2月14日の翌日15日条に見られます。祐親の自害を知った頼朝は祐清を呼んで抽賞を行うと言いますが、祐清が「父已亡。後榮似無其詮。早可給身暇(父はすでに死んだ。それなのに私が褒賞を与えられて栄えたところで仕方のないことだ。死刑にしてほしい)」と答えたため、頼朝は仕方なく祐清を誅殺したとしています。

治承4年10月19日条の記述によればすでに釈放されて平家軍に加わっているはずの祐清がまだそこにいたかのような書かれ方であるうえに、死期や死のきっかけも異なります。

『平家物語』では

また、『平家物語』にも祐清の死について記されています。

巻七「篠原合戦」を見ると、石橋山の戦いの後逃げ上って平家に仕えた主だった者たちの中に「伊東九郎祐氏」の名があります(『平家物語』では祐清の名は「祐氏」表記)。毎日寄り合って酒宴を開いていた彼らはひとり残らず北国で死んでしまったとあるので、祐清も討死したものと思われます。

この記述は『吾妻鏡』の建久4(1193)年6月1日条の記述と矛盾しません。

『曾我物語』では

『曾我物語』も同様で、篠原の戦いで討死したとあります。ただそこに至るエピソードは少し違っていて、『吾妻鏡』治承4(1180)年10月19日条と養和2(1182)年2月15日条のハイブリッドという感じです。

「死罪を宥むべし。奉公して、入道が孝養をもせよかし(死罪を許すから、私に奉公して、父入道の供養もせよ)」という頼朝の言葉に頷かず、

「願はくは、慈父の入道とうち連れ候ひて、死出の山・三途の大河にて杖・柱ともなるべく候はん。今度の御芳恩には、早々、首を召さるべく候ふ」
『曾我物語』巻第三より

と、「できるならば父入道と連れ添って死出の山や三途の大河で父の杖・柱になりたいので、はやく私の首をお召しください」と言って死を請うた、とあります。

これに人々は感動して、頼朝も「生き死にはお前の考え次第だ」と言って許してしまったため、祐清は上洛して平家に仕えることを選び、そして篠原の戦いで討死したということです。

美談の人

「鎌倉殿の13人」の前情報を見ると、祐清は「家族思いの優しき八重の兄」とあります。

『吾妻鏡』は矛盾もありますが、いずれのエピソードも父を思う孝行息子の美談であり、また、頼朝を助けたエピソードは言わずもがな。その行動が父を死に追いやったともいえますが、客観的に見れば善行に違いありません。

祐清に関するエピソードはいずれもいいものばかりで、彼が清廉な人柄で親孝行であったことがうかがえます。




【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 校注・訳:梶原正昭・大津雄一・野中哲照『新編日本古典文学全集(53) 曾我物語』(小学館、2002年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)
  • 『吾妻鏡』(古典選集本文データベース 国文学研究資料館所蔵 寛永3年版本)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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